2004年4月29日〜10月31日
南予の町の物語り
NO1内子町・大洲市
えひめ町並み博(大洲・内子・宇和を中心に宇和島市、八幡浜市など 南予(なんよ)一円で開催され、参加者総数は愛媛県町並博2004実行委員会調べでは延べ1,739,222人)に行って来ました。
町並博の開催をPRする ポスター
25年前、子どもたちを連れて見に行った銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトの作家、松本零士氏(伊予観光大使)が、町並博のために描いたそうです。
 
松本氏は、ご両親が愛媛県・南予の出身で、ご自身も昭和19年4月大洲市の小学校へ入学し(戦後北九州の小倉へ移り18才のある日カバン一つ持って夜汽車に乗り東京へ)多感な子ども時代を大洲市で過ごされ、今も南予に対し、故郷としての深い思いを持たれているそうです。

 松本氏の代表作である「銀河鉄道999」の主人公、メーテルと鉄郎。999号の旅の途中、ふたりが初めて南予の町に降り立った、というコンセプトで作成したこの2種類のポスターは、今と昔、変わらぬ佇まいを伝える町並で、不思議な時空の旅をするふたりの姿を描いており、過去から現在、そして未来へと、旅人をあたたかく包み込む南予の町並の、いつまでも変わらないイメージを伝えています。

着物と日本髪で和装した
メーテルが初めて登場。
内子町へ木蝋で栄えた町門前町として開けたと言われ、その後四国遍路などの交通の要所、農産物の集散地として栄え、江戸時代は伊予大洲藩の専売品であった和紙と木蝋の生産が盛んに行われた。明治時代には、全国有数の木蝋の生産量を誇り、海外に輸出するまでになった。
柳井からフェリーで2時間30分松山港に到着 大正時代に建てられた内子座。昭和60年に修理復元され、本格的な歌舞伎設備が整った。 商いと暮らし博物館
大正10年ころの薬屋の暮らしを再現している。

帆掛けをデザインした立派な鬼瓦と鳥襖
江戸時代から明治時代の商家が約600mにわたって残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。袖うだつ、虫籠窓、床几(しょうぎ)など漆喰の土蔵建築が見られる。 虫籠窓 明かり窓で、漆喰で塗った連子を入たもの。



木蝋:東日本では漆蝋(庄内、仙台、会津など)、西日本では櫨蝋(松江、安芸、薩摩など)が作られていました。櫨の木の実を砕いて粉にし、蒸して搾ったものを生蝋といい、生蝋を精製、漂白したものを白蝋とか晒蝋という。これらの蝋を総称して木蝋という。
 櫨の木の育成に適した内子は、江戸時代中期(1738年)から大洲藩の殖産興業として、蝋作りが始まった。本芳我家が生蝋を漂白する”伊予式晒箱法”を考案し、良質の白蝋が大量に生産されるようになった。最盛期は明治35年〜39年、晒蝋生産は、愛媛県が全国一位を独占、内子町はその70%を占める一大晒ろう生産地となり全国に名をはせた。しかし この栄華は短く、大正10年に消滅し、生糸にその繁栄の席を譲ったが、町は衰退して行った。
本芳我家(ほんはがけ)の玄関。
明治17年に建てられた。木蝋製造で財をなした。
上芳我家(本芳我家の分家) 4300uの敷地に明治27年に建てられた3階建の主屋。

櫨の実を砕く 手に持っているのが櫨の木と実。
左の白いのが蝋花
上芳我家の土蔵を背に、庭で

泉和傘製造所
内子産の竹と五十崎町産の和紙を使い、町内
ただ一人和傘を作っているそうだが、入院中とのこと。
泉正さん。15歳の時から技術を学び、23歳で独立した(内子町発行のの冊子より)

大洲へ
1617年加藤貞康が入城してから12代250年余りの加藤家6万石の城下町として和紙や製糸などの産業が栄えた。伊予の小京都と呼ばれている。
”おはなはん通り”昭和41年に放送されたNHK”おはなはん”のロケ地になったことから名前が付けられた。
江戸時代から明治時代にかけての腰板張りの土蔵やなまこ壁や漆喰壁の土蔵が残っている。白壁が剥がれ落ちている部分が多い。
     音の散歩道
大洲特産の竹をモチーフにしたサウンドオブジェたちは、風や光の力を利用して動きだし、癒しの音色が町並みにこだまする。

おおず赤煉瓦館
明治34年大洲銀行として建てられた建物。
ポコペン横町
懐かしい昭和30年代をテーマにレトロを演出されている。

                             

臥龍山荘
  元は藩主の遊賞地であった3000坪の山荘庭園を明治の貿易商が完成させた。
臥龍院にて 庭園にて
崖の淵に建つ茶室不老庵
宇和町、
 宇和島へ