シ ル ク ロ ー ド の 旅

  学校の歴史で長安の都のことを習い、私も長安の都を尋ねることは生涯の夢であった。
 遣隋使の小野妹子が初めて煬帝に朝貢し、『日の出国の天子、日の没する国の天子に書を送る、恙無きや』と対等な立場を誇張して煬帝を怒らせた話、聖徳太子の冠位12階や長安の都を模範として平城京や平安京を作ったこと、唐の統治制度を参考にしながら日本に合致した大宝律令を701年に作ったことなど、これらの模範となった長安(現在の西安)の都。玄奘三蔵法師がインドから持ち帰った経典をサンスクリット語から漢字に翻訳した大雁寺や空海が修業し阿闍梨の称号を受けた青龍寺、また漢文では杜甫、李白などの漢詩を数々教えられた長安の都を訪れるのは長年の夢であった。
 またシルクロードの起点としても有名である。前漢の外交使節として派遣された張騫や天竺まで仏教の経典を求める旅に出た鳩摩羅什(くまらじゅう)や玄奘三蔵法師、また長安から西は異国とみなされ王維の『送元二使安西 』は高校で詩吟を詠い教えられたのが今でも忘れられず、渭城から陽関、安西なども訪ねて見たいと思っていました。新諸国物語(昭和27年白鳥の騎士、笛吹童子、紅孔雀)昭和31年に放送された『7つの誓』ではトルファンやタクラマカン砂漠をおぼろげに今だに記憶に残っている。
 生涯このような地に行けるとは夢にも思っていなかった。しかしこの度トラピックスで広島空港⇒上海経由西安⇒敦煌⇒吐魯番トルファン⇒烏魯木斉ウルムチ⇒西安⇒広島空港、8日間の旅に応募し、夢がかなえられた。      
             西安 
中国は日本との時差が1時間、タイムゾーンが1つしかない国です。
西安(西京)とは「西の首都」の意味である。中国の内陸部にある洛陽からの方角をもとにしている。例えば、北京、南京。日本の東京は、首都を意味する京都からの方角をもとにしている。
 紀元前11世紀(1134)周が初めて都を定めれから約2千年にわたり周,秦,漢,随、唐など12の王朝の都となりました。 7~10世紀には,唐の都「長安」として栄え,日本の「平安京」のモデルとなった都市。玄奬三蔵法師ゆかりの大雁塔や,玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台となった華清池,空海の修行した青龍寺,秦の始皇帝兵馬俑坑など多くの名所がある。またシルクロードの起点でもある。早くも前漢時代、絹は砂漠を越え、遙かローマの都にまで運ばれていたのであった。また、日本との関わりも強く、阿倍仲麻呂、空海、そして2005年墓誌が発見された「井真成」など、多くの日本人が遣隋使、遣唐使の時代から足跡を残している。古くは長安とよばれ、唐代には東西9km、南北8kmの城壁にかこまれた大都市で、人口は最大100万を越え国際的な文化が栄えていた。
 1369年明朝は西安と名称を変更して今日に至っている。 
 現在の人口は830万人の大都市。
中国東方航空は広島空港を9時15分に離陸し、上海を経由し、14時55分西安空港に着陸した。今回は予定通りの飛行であった。 西安市内の様子
 長安の都(城壁の中)
長安に都を置いた時代は、12の王朝と2千年の歴史がある。
西周   BC1121-BC771 
秦     BC221-BC207 
前漢   BC206-AD8  
新     9-23      
後漢  190-195  
西晋   313-316  
前趙  319-329  
前秦   351-384  
後秦  386-417  
西魏   535-556  
北周   557-581  
隋     581-618   大
唐    618-907  
中国で旧城壁が完全に残っているのはこの西安のみ、補修されているが、規模は明代当時のままである。唐の時代は現在の4~6倍であったと言う。
安定門を出ると、ローマまで1300Km
杜甫(712~770)の春望  国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵万金 白頭掻更短 渾欲不勝簪
が思い出される。安禄山の変で長安の都は戦火に見舞われたので、今は見るものは少ない。
また武宗皇帝(814~846年)は道教に傾聴するまり、廃仏令を出し、寺院4600ヶ寺が廃止させられ、僧尼26万人が還俗させられた。
城壁の上部である。城壁の周囲は12Km,高さは12m、幅はなんと12mもある。自転車で走っている。マラソン大会も行われるという。
鐘楼:唐の710年に作られ鐘を鳴らして庶民に時を告げたという。1600年頃に現在の場所に移された時に鐘が響かなくなり取り替えた。   太鼓楼:1380年毎日夕方になると太鼓を叩いて時を知らせていた。

 大雁寺 

 玄奘三蔵法師(602~664年)の夢とロマンに溢れる壮大な旅は、歴訪した110カ国および伝聞した28か国について、具体的に城郭・地区・国の状況などについて記している。これは太宗皇帝から西域の詳細な報告書を提出するよう命じられ、編纂された報告書が大唐西域記である。その偉大さであるがゆえに『西遊記』の物語で、今もなお語り継がれている。しかし玄奘の旅は、氷と雪に閉ざされた天山山脈や果てしないタクラマカン砂漠を越え3万kmもの想像を絶する苦難の道のりであった。玄奘は627年に国禁を犯して長安を出発し、求法を求めて16年の歳月をかけ中央アジアの110カ国を巡りインドまでを陸路で往復し,多数の経典を持ち帰り、翻訳をした。そして日本の仏教文化にも大きな影響を与えた。偉大な宗教者であり、地理学者であり、また探検家ともいえる。
 法師は、629年出国から16年を経た645年1月帰国し、洛陽で大宗皇帝(第2代皇帝在位626~649年)に謁見した。皇帝は『俗人になって朕の補佐をしてくれないか』と頼み込んだ。法師は『私に還俗せよとは、流れに乗ている船を陸に上げてしまうようなもので、使い物になないばかりか、腐敗してしまいます。』と固辞し、『私が西域から持ち帰ったサンスクリット語の経典は600部以上あります。これらを翻訳したいので、人里離れた静かな少林寺で、国家のために役立つような翻訳の仕事に専念したいので、どうか勅許を賜りたく伏してお願い申し上げます』。皇帝は『あの山中はより、朕が母の為に長安の弘福寺を建立した。その寺を使用して、必要なものは全て申し出るように』と言われた。その後高宗皇帝(第3代皇帝在位645~649年)は大雁寺を建立し、法師にここの住職と西明寺の住職の兼任を命じた。19年間で657部中の74部1335巻を翻訳した。また646年には大唐西域記12巻を完成した。最後に大般若経を訳した後100日で死亡した。648年2月5日であった。翻訳に参加した人は54名、また般若心経も法師が翻訳されたものです。日中韓の法要の際にも各国の僧侶は般若心経を読誦しますが、浄土真宗と日蓮宗だけは絶対に唱えない。『成唯識論』を翻訳したのが法相宗の経典です。翻訳に従事した中に後に法相宗の宋祖となった慈恩大師窺基がいた。
法相宗の薬師寺は、天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)した。道昭は開眼講師を務め、大僧都に任じられた。
慈恩寺は、唐の第3代高宗皇帝(628~683)が648年に母の供養の為に建立した。その境内にある大雁寺は、インドより経典を持ち帰った玄奘三蔵法師が翻訳した仏教経典600部余りを納めるために652年に建てられた。最初は5層建て、則天武后の時代に10層となり、その後火災に遭い7層となった。
 638年玄奘三蔵が帰国して翻訳した、成唯識論を玄奘の弟子の慈恩大師窺基が法相宗を作った。
 法相宗は日本では遣唐使で入唐した僧侶により伝えられ、特に653年道昭は玄奘に師事し、661年帰国し、飛鳥法興寺(蘇我の馬子が592年起工した、後の飛鳥寺である)で広めた。717年入唐した元坊は帰国後興福寺で法相宗を広めた。現在法相宗は興福寺、薬師寺、の二ヶ寺だけとなっている。(法隆寺は法相宗から昭和25年に聖徳宗として独立した。清水寺も昭和40年北法相宗として独立。東大寺は華厳宗)
サンスクリット語を漢字に翻訳した有名な般若心経.
孫たちは高野山で般若心経の写経をした、お寺に行く般若心経を読経する
塔から望む境内 玄奘三蔵法師のモニュメント
 青龍寺 
 前身は随の582年に建立された霊感寺、711年に清龍寺と改名された。この地で空海(774~835)は804年西明寺に住み、後に恵菓和尚に弟子入りし、密教の教義を会得し阿闍梨の称号を受けた。空海は806年帰国し、真言宗を創立した。武宗皇帝(814~846年)は道教に傾聴するまり、廃仏令を出し、廃仏事件が起こり845年廃寺となるが、翌年には寺院として復活した。唐末の戦乱にて荒廃し1086年廃墟となっていたのを1973年塔の土台と殿堂が発掘され、その後日本の資金で青龍寺が再建された。日本から送られた桜1000本が植えられている。
青龍寺の正門 日本らの寄付で建立された空海記念碑
記念の般若心経8000円もした。真言宗の蓮台寺の住職へのお土産に買った。元四国霊場会会長蓮生善隆会長(善通寺法主)より四国八十八箇所のゼロ番札所と名付けられた。
 兵馬俑杭(へいばようこう)博物館
秦始皇帝(BC259~210)は13歳で即位し、中国最初の統一王朝秦を建国した。天下を36郡に分け、中央集権制度を確立し、法律、文字、度量衡を統一した。
前漢の司馬遷の史記によると、『地下宮殿は地下深く穴を掘り、銅を敷き詰め,珍宝が墓室を満たし、盗掘を防ぐために様々な仕掛けた設けられた。
天井には太陽や月など天文図が描かれ、底には水銀で川や海を作り、魚類の脂を使った燭台で墓室内を照らしていた。』と記されている。
1974年果樹園で井戸を掘っていた農民が、偶然地中から陶製の武士像や馬像などを掘り当てた。これが兵馬俑杭の発見であった。
兵馬俑杭入口 第一坑の外観。発掘場所全体を屋根で覆ってある。 最も大きな第一号坑:6千体を超える。1体1体表情や服装、装備が違う。
東西230m、南北62m深さ5mに約2千体の武装兵士俑が38列並んでいる
この右前を農夫が井戸を掘って発見した。身長は180cmある 青銅製の馬車:長衣束帯を身につけており、始皇帝の巡行用の馬車か 博物館で購入した兵馬俑、5体を1万5千円で購入した。
兵馬俑杭の西1.5Kmの所に秦始皇帝陵がある。  右奥の円墳 長安はシルクロードの出発点である。
  シルク絨毯のお買い物    
            ライターで火を付けても燃えないと実験してくれる。
立派なシルクの絨毯が並ぶシルクの店 シルクロードをシルクで織ってある。高さ3m、横4mの芸術品である

シルクなのに安い
上と左の2枚の絨毯を購入した。
西安料理:野菜特に白菜が美味しい。期待していた麺はのびたうどんとスパゲッティの合作で、私の好みではない。日本人がアレンジしたうどんが美味し

 唐歌舞ショー    
一人260元。第6代皇帝玄宗(685~762年)と楊貴妃(719~756)をテーマにしたロマンと悲劇の物語を唐代の音楽による歌舞ショーを2時間近く鑑賞した。北京の京劇、上海の雑技団と共に中国の3大宮廷舞踊と言われている。
玄宗皇帝が宴席をもうけて舞姫の中から楊貴妃を妃とする

天性の美は自然と捨て置かれず、ある日選ばれて王の側に上がった。

白居易の長恨歌では
 漢皇重色思傾国 御宇多年求不得 楊家有女初長成 
 養在深閨人未識 天生麗質難自棄  一朝選在君王側
 迴眸一笑百媚生 六宮粉黛無顔色
      毎夜宴会にふけり政務を疎かにする。
歌や踊り、笛や琴の音も美しく、王は終日眺めて見飽きることがなかった。
彼女の縁戚はみな領地を賜り、輝かしい栄光が一族に訪れた。
遂には世間の父母の心は、男児の誕生より女児の誕生を喜ぶようになった

 緩歌慢舞凝絲竹  盡日君王看不足
 姊妹弟兄皆列土  可憐光彩生門戸  
 遂令天下父母心  不重生男重生女
740年玄宗皇帝は楊貴妃との愛に溺れ、芙蓉模様のとばりは暖かく、春の宵を過ごす。夜は夜で王の側に一人で侍る。三千人の寵愛を一身に受け、春の宵はあまりに短く、日が高くなって起き、王は早朝の執政を止めてしまった。

 始是新承恩沢時  雲鬢花顔金歩揺  芙蓉帳暖度春宵
 春宵苦短日高起  従此君王不早朝   
 承歓侍宴無閑暇  春従春遊夜専夜  後宮佳麗三千人
 三千寵愛在一身  金屋粧成嬌侍夜  玉楼宴罷酔和春
                                  と謳われている。

 755年クーデターが起こり、漁陽の陣太鼓が地を揺るがして迫り、霓裳羽衣の曲を楽しむ日々は砕け散った。
 漁陽鞞鼓動地来 驚破霓裳羽衣曲 九重城闕煙塵生
 千乗万騎西南行 翠華揺揺行復止 西出都門百余里
 六軍不発無奈何 宛転蛾眉馬前死

       長安から洛陽に逃げる途中に、楊貴妃を殺害する
長安の都に帰ってきてみれば池も庭もみな元のまま、柳も変わりないのである。芙蓉の花は彼女の顔のよう、柳は彼女の眉のようで、どれを見ても涙を流さずにおられようか。
 帰来池苑皆依旧 
 夕殿蛍飛思悄然 孤灯挑尽未成眠 遅遅鐘鼓初長夜
 耿耿星河欲曙天 鴛鴦瓦冷霜華重 翡翠衾寒誰与共
      帰った皇帝は楊貴妃を思い鬱状態になる。
  導師が心配して、天に昇り、地に入り、楊貴妃を探し求めた。やっと海上の仙人の住む山で彼女を見つけた。螺鈿の小箱と金のかんざしを形見、別れに際し、王と彼女の二人だけに解る誓いの言葉を書いた。。

 臨別殷勤重寄詞 詞中有誓両心知 七月七日長生殿
 夜半無人私語時 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝
 天長地久有時尽 此恨綿綿無絶期
あらすじは・・・
名君と誉れ高かった唐の玄宗皇帝は、楊貴妃を妃に迎えた。楊貴妃は大変美しい絶世の美女であったために、王は彼女にのめりこんで政治をおろそかにし始め、また楊一族ばかりを重用するようになった。
この政治状況を快く思わない者たちが業を煮やして遂に反乱を起こす(安史の乱)。王は長安から逃げ出し、洛陽で体勢を立て直そうとしたが、楊貴妃を快く思わない軍は王に従おうとしなかった。
軍をなだめるため、王は泣く泣く楊貴妃を殺害する。これに納得した軍は攻勢に出て反乱軍は鎮圧された。
長安の都に戻った玄宗皇帝であったが、宮殿の池や美しい庭園は反乱前のままであるのに楊貴妃はもう自分のそばにはいないことが悲しくてならない。何を見ても楊貴妃のことが心に浮かんでしまう。次第に王はうつ病になった。
道士は悲しみのあまり王が夜も眠れなくなっていることを哀れに思い、術を使って楊貴妃の霊を捜し求めた。苦心の末、仙界で今は「太真」と名乗る楊貴妃を見つけ出す。 太真は王からの使いにたいそう喜び、再び逢えることを願い王への形見(金のかんざしと螺鈿の小箱)と、二人だけに分かる秘密の言葉をことづけた。それは王と楊貴妃が、互いの永遠の愛を誓った、思い出の言葉だったのである。
これが有名な長恨歌『在天願作比翼鳥 在地願為連理枝 此恨綿綿無絶期』が思い出される。高校生には意味が解らなかったが、合体を意味する名文である。 高校の漢文の授業は60年後にも覚えているのが不思議である。
2泊の長安の旅では、白居易の長恨歌に歌われた唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンと悲劇の舞台である華清池(春寒賜浴華清池)は見物出来なかった。また有名な項羽と劉邦の鴻門の会遺址、遣唐使で中国に渡り帰らなかった阿倍仲麻呂の足跡も訪ねられなかったので、次回は長安と洛陽を訪れたいと思いつつ長安を後にして、2時間30分で敦煌空港に到着したへ。


 敦 煌 
雪を頂いた高い山々が連なり、それを過ぎるとタクラマカン砂漠の東に出る、すぐに小さなオアシスが見えてきた。西安から1650Km飛行機で2時間30分で敦煌であら(敦とは大きい、盛大。煌はかがやく、繁栄する。の意味)

 敦煌を漢が制圧すると、漢の武帝の頃、河西回廊の道が発見され、西との交通が開けた。敦煌は中国本土の出口であり、西方からの入り口ともなった。敦煌を制する者は中央アジアを制することになり、多くの民族や国が入り乱れる歴史の舞台になったのである。西域と呼ばれた現在の新疆ウイグル自治区のオアシス国家群も、すべて敦煌を経由して中国本土を往来している。また、チベット高原とも、ヒマラヤの峠を越えてインドや現在のパキスタンとの交流も、すべて敦煌を経て行なわれている。敦煌の西に防御拠点の玉門と陽関が設置され、漢の西域経営の中心地となり、西方からの汗血馬、葡萄、ゴマなどの産物や仏教がこの地を通って漢に運ばれ、漢からは絹が西方へと運ばれた。漢にとっての経済・軍事に於ける重要な拠点となり、豊かな土地と防衛拠点としての使命から厳しい政治を避けることから、税も物価も安く、住民は平和と豊かさを楽しんでいた。この頃の人口が3万8千ほどと言う記録があり、この頃の敦煌がいかに栄えていたかが伺える。ただしこの地の住民は漢政府により送り込まれた窮迫農民や犯罪者であった。そして敦煌の住民が漢の中心地へと帰ることは禁じられていた。また366年から僧楽僔(らくそん)によって莫高窟の掘削が始まっている。唐代にも引き続き、西域への玄関口として重要であった。しかし安史の乱により唐政府の統制力が弱まり、この地は781年には吐蕃の侵攻を受けて、支配下に入った吐蕃が唐と対立すると、吐蕃の支配下では交易が行われず、経済の動脈を絶たれた敦煌は一気に衰退した。
 北宋時代にはタングートが西夏を建て1036年敦煌を占領した。敦煌文書は莫高窟の耳窟の中に放り込まれ、入口を塗り込められたのはこの時代と考えられている。1227年モンゴル帝国が西夏を滅ぼし、引き続いて元の支配下に入る。しかしこの頃になると中国と西方を結ぶルートがシルクロードから南方の海の道へと移行し始め、この地の価値は下落し、寂れた町へとなっていく。
その後、長らく忘れ去られた町となり、莫高窟も見向きもされていなかった。しかし1900年この地にいた道士が偶然に莫高窟中の第16窟の壁の中に隠されていた耳窟(第17窟, 後に「蔵経洞」と命名)から大量の文献を発見した。
 1907年にその噂を聞きつけてやって来たイギリスのオーレルが数千点の文書・絵画を買い込んでイギリスへと持ち帰った。翌年フランスのポールが同じように約三分の一に相当する文献をフランスへ持ち帰った。これらが大英博物館とフランス国立博物館に保管され、研究者の間で敦煌の名が広く知られるようになった。 後にロシア(1909-1910年)、ドイツ(1914-1915年)、日本の大谷探検隊(西本願寺の大谷光瑞よって派遣された)・アメリカの探検隊が少量であるが、入手して研究を進めた。これら敦煌文献の発見が、敦煌を有名にした。

祁連山脈(きれんさんみゃく )は、中国の青海(せいかい)省と甘粛(かんしゅく)省の境界にある山脈で、西北西から東南東に約800キロメートルにわたって連なる。大通山、托来(とうらい)山、疏勒南山、党河南山など
多くの山脈に分かれている。酒泉(しゅせん)県南方にある主峰祁連山(5547メートル)をはじめ、5000メートル峰数座を数え、高山地帯には万年雪と氷河の形で水を蓄える。山地から流出する多くの川が山麓(さんろく)に点々とオアシス集落を成立させる。モンゴル高原側の北麓には河西(かせい)回廊があり、ここに1959年以来蘭新(らんしん)鉄道が通じている。党河南山など多くの山脈に分かれている。
敦煌は高い山と砂漠に囲まれた、平均海抜1138mにある、1400K㎡と小さなアシスである。ゴビのオアシスと呼ばれている降水量は年間39mmと晴天が多い。
敦煌空港の西南は砂漠である。防砂柵で囲まれている。
一度強風が吹くと沙塵が舞い視界が妨げられ空港は閉鎖される。
空港からホテルへの道 夜のバザール  ドライフルーツが美味しかた
鳴沙山
ゴビの砂漠の一部と言われる、砂嵐が酷い。目が開けられない、顔に砂が当たって痛い、前が見えない
    
敦煌の南約5Kmにある東西40Km、南北50Kmにわたる広大な砂の峰、それが鳴沙山、月の砂漠を最もイメージできる場所である。                  観光用のラクダの数    
砂嵐で前が見えない らくだに乗って、らくだ使いが写真を撮ってくれたが80元を要求された。
この写真を撮るのが1500円高い!
稜線の砂嵐、
向こうは月牙泉。三日月型の泉で東西200m幅は50m弱、深さ5m
枯れたことのない泉
口の中も砂だらけ。靴カバーが20元
 莫高窟 
敦煌の郊外25Kmの砂漠の中にある。鳴沙山東端の断崖に開削された大規模な石窟。366年鳴沙山の向かいの三危山が夕陽を浴び金色に輝く荘厳な様に心打たれた僧・楽僔が石窟を掘り修行の場としたのが始まりと伝わる
仏教勢力下に有ったことと、乾燥土地であたことが素晴らしい保存状態で残ることが出来た。しかし今世紀初めに日本を含む列強諸国によって海外に持ち出されたのは残念である。
南北約1600mにわたって700ともいわれる石窟があり、極彩色で彩られた壁画や2400余体もの色鮮やかな彩色塑像が安置されたその空間は、さながら極楽浄土の趣がする。
幕高窟見学センターでビデオを2本見て、その後専用バスで莫高窟へ、日本語ガイドが付き。内部は撮影禁止。一窟の入場料が100元~500元(1元は18円)、5窟見ると1万円も取られる。
現在確認されている石窟は735窟、彩色塑像は2千体、壁画は4.5万㎡にのぼる。横に並べると30Kmになるという。敦煌は漢民族を始め、チベット族、モンゴル族、など様々な民族に支配されたが、どの時代においても石窟の造営は続けられた。出土品には5つの宗教が記録されている儒教、道教、マニ教、ゾロアスター教及び景教である。          
右は45窟。唐代の典型的な様式の七尊像、敦煌市立博物館のレプリカです。中央に阿難(釈迦の10大弟子の一人)、右には天王が片手を腰に当て、片手に武器を持ち、足で邪鬼を踏みつけている。    
開放窟は40窟あるが8箇所と特別窟を3箇所見学した 莫高博物館前の飛天
 莫高窟博物館で購入した黄河画伯の『飛天の絵』
 楽器を持って舞う飛天の描写は優雅だ。
額縁は楽天市場のないとうに特注した。

 第390窟(随の時代)の壁画を模写した。日本の吉祥天、天女によく似ている。天平文化は敦煌にも通じていると思われる。


 玉門関 
敦煌の北西約80kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関遺跡は唐代のものである。俗称は小方盤城
西域交通で北ルートを通ると玉門関、南ルートでは陽関を通過していた。宋代になって西域交通が衰え、衰退した。
敦煌の農家料理

 漢長城遺址 
秦の時代に築城が始まった万里の長城よりも少し後の漢代に築城された長城跡である。 漢の武帝は長城を嘉峪関からさらに西方へ向けての延長線上に位置する玉門関まで延長し、西域の「匈奴」の侵略を防ぎ、河西回廊守るために築かれた。 延長は150kmと言われている。 (明代に築かれた万里の長城の西端は、敦煌の東にある嘉峪関(かよくかん)までであった)

 陽 関 
昔の関所として、西北約80kmの所にあるのが「玉門関」、南西約70kmの所にあるのが陽関、建設は紀元前107年ごろとされ、漢から唐にかけて避けては通れない関所であったが、歴史があまりにも長いために風化が進んでしまっている。古代、陽関は70㎞離れた玉門関とつながっており、その間ほぼ5kmごとにのろし台が置かれていた。玉門関より南に位置するため「陽関」と称された。玉門関と併せて「二関と称されたが、ある時期には玉門関よりも重視されたようだ。しかし,後漢になるといったん廃止され、唐代になって西域南道(天山南路の南道)の起点としてふたたび復活した
高校時代に習った王維の送元二使安西が思い出される。 
渭 城 朝 雨 浥 軽 塵  客 舎 青 青 柳 色 新  勧 君 更 尽 一 杯 酒  西 出 陽 関 無 故 人

張騫の像:漢は大月氏と匈奴の挟撃作戦を狙って張騫を頭に100人余りの使節団を送ったが、陽関を出た直後に匈奴に捕らえられる。張騫は十余年間に渡って拘留された。その後、匈奴の地から脱出し、大月氏にたどり着きBC126年に漢に二人で帰還した。張騫の持ち帰った情報は西域諸国と交易が出来、シルクロードの道を開いた。
 現在では遠くて荒涼とした場所の代名詞となった陽関であるが、3~4000年前はここはオアシスだった。しかし、その後、山津波や風に吹き上げられた砂によって埋もれてしまい、今はのろし台が残るのみである。                                兵舎跡                                  のろし台が残っている                                    周囲は荒涼とした砂漠が広がっている。
  
宿泊したホテル 敦煌賓館
「反弾琵琶飛天」は敦煌市シンボルであり、街中に彫像が躍動している
 4世紀末クチャの鳩摩羅什(くまらじゅうー中国では玄奘三蔵と並んで天竺へ行った高僧として有名である)が敦煌にいたとき経典を担がせていた白馬が死んだために、馬を埋葬して塔を建てた。 我が家には、日本、中国、韓国製の三体の仏像がある。
左は奈良時代の吉祥天か弁財天(青丹よし奈良の都は咲く花の臭うが如く今さかりなり。と謳われた頃の仏像)
中央は敦煌市博物館の売店で購入した飛天像。天平文化の吉祥天によく似て、ふっくらとした顔と体に楽器を持っている。
右は国宝第1号の弥勒菩薩。韓国製の赤松で作成したと言われている。。
敦煌博物館の資料より
2012年5月にリニューアルオープンした敦煌博物館。
ここのメインは莫高窟のレプリカ。莫高窟では写真撮影禁止たが、ここでは写真可。
玄奘三蔵法師の行程図
シルクロードの地図があった。今回の旅行の長安から敦煌、トルファン、烏魯木斉をマーキングした
左はマルコポーロの行経模式図
 玄奘三蔵法師は、往路にはここに立ち寄らず、密かに安西から北へ出国した。帰路は西域南路を通って新しい人や馬と共に敦煌に着いた。しかし太宗皇帝からの1通の手紙が届いたので、ゆっくり街を見学せずに長安へ急ぎ帰った。手紙には、ホータンからの運搬費を全て敦煌の役所が支払うことや高句麗遠征が近く行われるため、しばらく国を離れることなどが書かれていた。法師はその手紙を見るや、1日も早く出発して太宗皇帝が遠征に出発する前に拝謁して翻訳に関して国家の援助を仰ぎたいと思った。翻訳するには大量の貴重な紙、人材、場所など莫大な経費がかかる。国家の援助なしでは訳経することは不可能と考えていた。長安まで1650Kmあり政府の決まりでは馬で56日もかかる。 法師は太宗皇帝に謁見するために22頭の馬に荷物を積載し、馬を20回も乗り換え、1日30Km駆けるところを60Km駆け抜けた。長安では凱旋将軍の熱烈歓迎を受けた。洛陽にて太宗皇帝に謁見した。
                           続きは大雁寺の項に記す。
   田舎料理:野菜は青々として綺麗で美味しい、特に白菜が美味しい。                                         紹興酒
           紹興酒は米や麦などの穀物を原料にした醸造酒のことを中国酒の分類上では黄酒(ホアンチュウ)とよび、この黄酒を長年熟成させたものだけが老酒(ラオチュウ)と呼ばれる。
さらに、その老酒の中でも浙江省紹興で造られるものだけが「紹興酒」と名乗ることができる。アルコール度数は14~18度

敦煌柳園南駅から 吐魯番(トルファン)へ 

柳園南駅:駅前には何もない、飛行機並みの荷物とボデイチェック 「中国高速鉄道CRH5型電車」の列車、フランスのTGVをベースにした車両 2等席座席指定、乗車率は50%以下

ハミ(哈密)を過ぎるとゴビ砂漠とタクラマカン砂漠の間の礫砂、何もない

時速207Kmが最高であった。
2014年12月26日に全線開通した蘭新高速鉄道(甘粛省蘭州市―新疆ウイグル自治区ウルムチ)は初の高速鉄道であり、新疆、青海、甘粛の3つの省•区の間にまたがっている。蘭州からウルムチまで全長1777㎞、11時間50分で走る。

 
 駅にはエレベータやエスカレーターがなくポーターがいる。駅でのボデイチェック後待合室から車内に夫婦の2個の荷物がなんと140元、(500mlビールが5元の世界で、、、、)

敦煌~吐魯番を3時間50分、195元でトルファンに着く。暑い
トイレからの悪臭
男性が立って揺れる列車の中で用をたす。
周りに飛び散り悪臭が酷い!!
 玄奘は空を飛ぶ鳥もなく、地を走る獣もいない、あるのは馬に乗っている自分の影だけです。太陽は強く照りつけています。砂漠は昼は暑く、夜は寒いという温度差が極端なところです。法師はひたすら観世音菩薩を念じ、般若心経を唱えつつ前進していきました。4泊5日1滴の水も飲まず砂漠をさ迷い、ついに脱水症で意識が朦朧とし、呼吸も困難となった。安田著玄奘三蔵のシルクロードより
  トルファンは天山北路と南路を連絡する要所として栄え、天山山脈の雪解け水によって潤うオアシスで、西域に進出しようとする漢民族はここを拠点とし、遊牧民族と興亡の歴史を繰り広げた。西遊記のモデルとなった玄奘三蔵法師は、7世紀の初めにここを通過し、天竺へと向かった。草木もなく、荒涼として世界が広がる。古代シルクロードの旅の厳しさが伝わってくる。市内には海抜106からー150mの場所があるという低地である。夏の温度は49度を記録し、地表の温度は80度にも、風速40mの風が13時間吹き続けたこともあるという。冬はマイナス30度にも下がり夏と冬の寒暖の差が激しいところである。

高昌故城
約1千年高昌国の都として繁栄し、460年頃に現在の遺跡が出来上がった。唐代には西域交易の中心地となり国際商業都市として最盛期を向えた。しかし629年唐により滅ぼされた。その繁栄ぶりは1400年後の現在も推測出来る。
 玄奘は最初ハミから天山北路を行く予定でしたが、法師の存在を知った高昌国王麹文秦は馬数頭を選び、使者と共に派遣し、ハミ王に法師を高昌国に送るよう命じました。熱意にほだされ天山南路に変更して、請われるままに玄奘三蔵法師が628年高昌国へ赴いた。ハミから高昌国まで500Km、長安からは4千Kmもある。ここで高昌王は最高の待遇をし、この国に長く留まり、この国の者たちをお導きくださいと懇願した。玄奘は3日間断食をして断り続けた。すると王は諦めて、玄奘に4人の若い僧を弟子として随行させ、法服30具、防寒具や靴、手袋そして黄金100両、綾と絹など5百疋、馬20頭、人夫25人、24カ国の国王宛の書状を1通づつの封書と大綾1疋を贈り物としてつけた。封書には『法師は私の弟です。仏法を求めるためにインドに行こうとしています。法師を憐れむこと私を憐れむようにしてください。』と書かれていました。2ヶ月ほど説法を行い滞在した。講義の始まる時には王は香炉を持って出迎え、法師が座ろうとする時、自らひざまずき踏み台になり法師に背を踏ませました。最高の敬意を表しました。出発に際し国王は国中の人々と見送り、帰りには立ち寄ることを約したが、玄奘の帰国時には既に高昌国は640年唐により滅ぼされていた。
兵どもの夢の跡!国破れて山河あり!でしょうか。唐と西突へいの両大国に囲まれて小国の判断ミスでした。いかに仏法を信仰しても、自国の利益のみを追求しては繁栄はなく、隣国と協調してこそ共生がある。
現在の故城は、全盛期を築いた国王麹文秦の時に作られたもの。 内城:土を天日干しした建物が残っている。 宮城
高さ11m、1辺が1.5Kmの四角形のの城壁の一部、破損が激しく、広大な土地に荒涼として風景が広がる。 トルファン市街地から40Km離れた高昌城への途中荒涼とした砂漠の中に突然オアシスが開ける。そこには沢山のぶどう畑が青々と茂っている。
 火焔山 
トルファン盆地の中央部に東西100Km、南北10Km高さ500mの山地で、夏場には地表から立ち上る陽炎によって燃えてるように見えることから火焔山と呼ばれている。
トルファンの年間降水量は16mmと非常に少ない、最高気温は47.8度と極暑が続く為に火州とも呼ばれる
鉄扇公主牛魔王   と戦う孫悟空 西遊記のモニュメント 西遊記では、燃え盛る火焔山に行く手を阻まれた玄奘一行がその火を消すことが出来る芭蕉扇を手に入れるために、孫悟空が鉄扇公主と戦った。
東西100Km、南北10Kmの紅砂岩の火焔山
雨が少ないために草木一本もなく、赤い地肌に大きな溝が縦に流れ荒涼たる風景である。高温により地熱が上がり地上より揺らぐ陽炎で山が燃えているように見える。
火焔山の砂に卵を埋めておくと焼ける。1個5元。
ドッパと呼ばれるウイグル帽子を被っている。カレーズで水を汲むのに便利
火焔山の傍の低地は緑豊かなオアシスであった。そこには地下水が流れ、
ぶどう畑がある。

         平山郁夫画伯  
 中学3年生の時、勤労動員中広島で原爆に会い、引率の教員と生徒201名が即死したが、2~3秒の差で九死に一生を得た平山郁夫画伯は、被爆の体験を描き平和を祈る絵を描きたいと願ったそうです。玄奘の命懸けの求法の生き様に平和の祈りを込めて描き続けた。昭和47年ころは、無名の画家であり、シルクロードの絵は安く売買されていた。当時購入した絵画。 その後東京芸術大学学長、1998年文化勲章受章を、2000年には奈良薬師寺の玄奘三蔵院伽藍の大壁に『大唐西域記』を描いた。玄奘三蔵の生き様が画家としての出発点になり、生命の恩人でもあった、と平山画伯は朝日新聞創刊120周年記念特別展三蔵法師の道で記載している。2009年79歳で死去する。
            左は丝绸之路天空
 平山芸術の真髄である、砂漠とラクダの歴史ロマン漂う大作です。
 西域の砂漠を行くらくだ隊。玄奘三蔵が高昌国王に招かれ、トルファンに向かったルート、背景は天山山脈の支脈である、火焔山
 古代には、キャラバンで物質、思想や人の心、宗教や文化が、東から西へ、西から東へと往来した
灼熱の砂漠を、五百頭にも及ぶこともあったといわれるラクダの隊商が往き交います。
五百年、いや千年以上の時空を越えたシルクロードの情景には、遥かなる歴史ロマンが漂い、シルクロードの天空は、まるでらくだの隊商の安全を願うかのように輝いております。
         上は『流砂浄土変』
平山郁夫のシルクロードをテーマとした作品群の中でも代表的なものであり、過酷な風土の中を進む隊商の足取りに合わせて、ゆっくりと、しかし着実に1歩1歩運ばれてきた仏法を見守る佛の慈悲の姿を同時に表現したものです。 上空には、隊商を見守る美しい仏様のお姿がえがかれている。シルクロードを訪れたある時、砂嵐のために一行が道を失い、荒涼たる砂漠の暗闇の中で途方にくれていると、天から尊いお導きの光をいただいたとのことです。          平山郁夫著

 ベゼクリク(ウイグル語で美しく飾った場所の意味)千仏洞 
火焔山の山中に400mにわたり、六世紀から始まり、唐、五代十国、宋、元と続けられた。9世紀には最盛期を向え、王族の寺院として石窟83窟の大部分が作製された。偶像を嫌うイスラム教がトルファンに浸透すると、仏像は破壊され、絵画は目を潰されていた。写真は禁止でない。また清代末には外国人の探検隊(日本の大谷探検隊)によって剥ぎ取られたしまい、現在はその1部しか残っていない。
内部の写真は撮影は出来ない。
トルファン博物館で、撮影禁止のベゼクリク千仏洞のレプリカの撮影が許されている。 石油採掘用のポンプが道端に見られた。
ぶどう園にて、降水量が少なく、日照時間が長いので、糖度27%と甘い 砂漠の非常食としても良い。陽気で踊りの好きな新疆ウルグイ地区の人 お土産にぶどうやなつめの乾燥フルーツを買ったが最高に美味しかった。

 カレーズ  
オアシスには1.河川の水を利用したオアシス 2.湧き出る泉を利用したオアシス、3.カレーズの3つがある。
年間の降水量は30mm、しかし蒸発量は雨が降らないのに3000mmもある。これはカレーズと言う人工的なトンネルを作り天山山脈の雪解け水を地下水のように広範囲に縦横に引いてくるからです。その長さは5千Kmにも及ぶ。カレーズは、地下水路を利用したオアシス。 ラグ麺とトルファン料理、名物シシカバもある。野菜は色が綺麗で、美味しい
ウイグル族や回族の料理が充実している。豚肉を食べないイスラム教徒が多いので、食事は羊や鶏がメインとなる
 烏魯木斉(ウルムチ)  
 トルファンから180Kmバスでウルムチに着いた。、四方のどの海からも2,300km以上離れているため、世界で最も内陸に位置する都市である。1955年に中国最大の面積をもつ新疆ウルグル自治区が成立した。ウルムチは県庁所在地。漢族、ウイグル族、モンゴル族、回族など42の民族が暮らしている。年間を通じて晴天の日が多く降水量も少ない。周囲には万年雪をいだく高峰が連なり、雪解け水を水源として四大水系があり、水不足は全くない。ウルムチとはモンゴル語で『美しい牧場』である。
 北京から2400Km離れている。東経85度、日本と50度違うということは、3時間20分の時差になるが、中国は単一時間であるので、実際より2時間20分遅い。よって今日の日の出は中国標準時で3時50分だ、北京時間に合わせて生活するのは不自然で、全く実態と合わない。広大な土地、多数の民族と人口を抱える中国は一つにまとめることが出来ず、何千年もの間国内の争いが止まない。市内には公安、警察の多いこと
人口250万都市 紅山公園から見る市内。 紅山公園にある大仏寺
国際大バザール
花瓶敷:シルクで燃えないとライターで火を点ける。お土産に5枚も買った
色々なものが売られており、シルクロードのバザールの雰囲気が漂う。
新疆ウイグル自治区は果物王国と言われる。
ドライフルーツが並んでいる。アンズ、桃、ナツメ、ブルーンなど色とりどり。  干しぶどうは沢山の種類があり、どれも甘くて美味しい。
日本に比べて、乾燥して日照時間が長く、朝晩の温度差が20度と大きいので、甘くて美味しい果物が取れる。
上海空港のVIPルームで、着物を着ているとまたもツーショットを!
ロンドンからかカナダへ帰る途中に羽田へ、そしてのぞみで京都へ向かうとのこと。
ホテルや美術館、博物館の入口では公安や警察によるセキュリテイチェックが必ずある。異常な光景である。しかしあくびをしながらチェックをしている。2014年4月30日ウルムチ駅でテロ事件が発生し、3人が死亡し、79人が負傷した。以後駅への入場は空港と同じセキュリテイーチェックが行われていた。また空港では、和服の帯を解かされ、足袋が金属探知機に引っかかり、草履を脱いでも探知機が鳴るる、足袋のコハゼを知らないので不審がられて厳しくチェックされた。空路ウルムチから西安、上海経由で広島空港へ帰ってきた。今回は予定通りのフライトであった。
天山北路
敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルートで、紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。
天山南路(西域北道)
敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルートで、西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進して、トルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。
現在トルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。
西域南道
敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠の南縁のオアシスを辿ってパミール高原に達するルートで、漠南路とも呼ばれる。オアシスの道の中では最も古く、前漢の時代には確立していたとされる。
距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄った、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。マルコポーロは、カシュガルからこのルートを辿って敦煌に達したとされている。
次回はウルムチから西へ旅を予定しております。
左の色の文は、薬師寺管主安田暎胤氏著の玄奘三蔵のシルクロード 中国編を参考にした。
ご一緒した川口隆蔵さんの
シルクロードの旅