ニケの会・ミューズの会”おいでませ山口へ”
 2025年9月22日~24日にニケの会・ミューズの会を石川良興が引き受けで開催しました。参加者はクリック、12組20名(夫婦8組、単身4人)でした。
第一日目
13時30分新山口駅に集合しました。防長バスで新山口駅13:30 ═════ 13:50瑠璃光寺14:50 小郡IC ═════ 秋吉台IC ═════15:30 秋芳洞 16:30═════ 16:40秋吉台 ═════ 17:40源泉の宿 萩本陣(泊) 19:00~ご宴会(余興:岩見神楽『八岐大蛇』)
瑠璃光寺
 1360年ごろ大内弘世が山口に居館を移し、京都を模して町造りを始めた。盆地の中央に大内館を構え,町を縦横に区画し、大路,小路の名を付し、祇園社や北野天満宮を京都から勧請した。
 大内氏は15,16世紀には、百済王族の末裔であることを主張しながら、朝鮮王朝や明国、琉球王国とも活発な通交を行った。富を得た大内氏は、守護として室町幕府につかえた。応仁の乱で乱れた京都から多くの文化人が西の京都 山口へ移ってきた。サンフランシスコ・ザビエルも山口で教会を建てて布教した。
 大内義隆は時勢を忘れて、武事を嫌い文雅を愛し、繁栄の極みに達した。1551年重臣陶晴賢の謀反により湯本温泉の大寺にて自害し、大内氏は滅亡した。1555年陶晴賢は毛利元就によって攻め滅ぼされた。
毛利氏は広島を居城として中国地方8カ国130万石をおさめていた。
 香山公園内には様々な史跡が点在しております。
国宝瑠璃光寺五重塔は、1471年建造、現存する五重塔では10番目に古く、その美しさは3大五重塔(他は、奈良の法隆寺と京都府の醍醐寺)と言われています。
 香山寺墓地は、毛利家幕末の13代~15代の藩主の墓です。
 沈流亭は、薩摩の西郷隆盛、大久保利通と長州の木戸孝允らが集まった建物を再現したもの。
鴬張りの石畳:
通路に立ち,石段に向かって手を叩くと美しい音が反響します。
 瑠璃光寺は、1690年に現地に移築された。曹洞宗、本尊は薬師如来  百日紅(さるすべり)の木から松の木が生えている。皆さん興味深々
 秋芳洞・秋吉台 
東洋屈指の規模を誇る鍾乳洞。昭和27年に特別天然記念 物に指定され一般の観光コースは約1キロ、洞窟内の気温は年 間を通して17度で一定し、夏は涼しく観光できま す。観光所要時間:約60分。
秋吉台(カ ルスト展望台)は、大昔のサンゴ礁が長い年月を経て地表に現れた日本一広大なカル スト台地です。見渡す限りの緑の草原に、白い石灰岩柱やドリーネ (すり鉢状の窪地)が無数に点在する景観は絶景です
 秋芳洞の入り口で  千枚田  
 傘づくし1mほどの細長い鍾乳石が天井から何本も垂れ下がっている。石灰分を含む地下水が天井から滴り落ちてつららを形成している。 大黒柱:天井から延びる鍾乳石と地面から盛り上がる石筍がついに合体して1本の柱となった。  
 
 
 黄金柱:高さ15m,直径4mという日本最大級の石柱。巨大な柱の表面には細かいレースのような模様が見えます。昔は天井の隙間から岩壁をつたい、地下水が流れ出ていました。その地下水に含まれる石灰分が岩肌に沈着し、結晶し、長い年月を経てこのようなフローストーンが出来上がりました。   秋吉台展望台にて、これからカルスト台地をドライブして萩へと向かいました。
 萩本陣 
地下2000mから汲み上げる自家 源泉温泉には庭の周囲に14の湯舟がある。皆さん14の温泉に入られましたか?
 
昨年の世話人山ノ内さんの乾杯の挨拶で始まりました。  獺祭は周南市の隣の町(周東町)が本社です  岩見神楽『八岐大蛇』高天原を追放された須佐之男命は、出雲の斐伊川の上流に降り立った。箸が流れてきたので川を上ると、美しい姫を間に老夫婦が泣いていた。
   娘は8人いたが、年に一度八つの頭と八つの尾をもった巨大な怪物がやってきて娘を食べてしまった。最後に残ったクシナダヒメも食べられてしまうと泣いていた。 須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八岐大蛇退治を請け負った。強い酒を造り酒桶に入れておいた。
 岩見神楽  ☚クリック
 この時、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から太刀が出てきた。これが草薙剣(
別名天叢雲剣)。

 須佐之男命が八岐大蛇を退治した、尾から草薙剣が出てきた。これが三種の神器の一つです。
この剣がどうして天皇家に渡ったのか?
『仁位殿は腰に宝剣をさひて 我は女なりとも 敵の手にはかかるまじ、、、』と壇ノ浦の海の中へ。なぜ天皇の即位時に草薙剣があるのでしょう?

壇ノ浦に沈んだ草薙剣が天皇家の行事で使っている,なぜなぜ???
    高橋秀樹先生のlineを読んでください。
 八岐大蛇に驚いているの?ペットのように可愛がっているでは?  八岐大蛇が酔って寝てしまうと須佐之男命は、十拳剣で切り刻んだ。  
 近況報告は南から山ノ内さん  八田さん  石川
 
 坂上さん  浅原さん  篭橋さん 近況報告の時に失念しました。ごめんなさい

2日目 
ホテル9:55 ═════ 9:00東光寺 9:30═════ 9:35松下村塾 (特別入場&特別講話) ・・・・・ 松陰神社 ・・・・・ 吉田松陰歴史館 1100═════11:10 萩反射炉11:40 ═════ 11:40 萩焼会館12:15 ═════ 12:25萩城三の丸 北門屋敷(昼食) 13:40═════ 13:45木戸孝允旧宅 ・・・・・ 重要文化財 菊屋家住宅 ・・・・・ 高杉晋作誕生地 ・・・・・ 萩の城下町 ═════ 15:45 萩城跡 指月公園 (車窓) ═════ 16:30長門湯本温泉大谷山荘(泊) 17:45~平家物語『先帝の入水』の演謡 18:30宴会(余興:下関平家踊り『八音会』)

小京都とは、北は弘前から南は知覧まで全国に53市町があります。訪ねてみたい小京都(日経新聞による)は、1金沢、2萩、3尾道、4津和野、5伊万里、6高山、7弘前、8遠野、9角館、10松前でした。

毛利元就の孫輝元は1600年関が原の戦に敗れ、中国地方10カ国の領地を、周防と長門の2カ国36万石の領主に移封された。輝元は1604年萩指月山麓に築城し、隠居した。その子秀就が僅か6才で初代藩主になった。萩は第13代敬親が藩府を山口に移すまでの260年間政治の中心であった。

山口県出身の総理大臣は、21代8名です。伊藤博文は4次、山縣有朋2次、桂太郎3次、寺内正毅1次、田中義一1次、岸信介2次、佐藤栄作は3次、安倍晋三は4次内閣を組閣し、安部総理大臣は98代でした。


   東光寺 

東光寺1691年に萩藩三代藩主 毛利吉就公が開基となって創建された黄檗宗の寺院です。
日本三大墓地とは、金沢市の前田藩墓地、萩市の毛利藩墓地、そして対馬の万松院を言う毛利吉就が1691年に建てた毛利家の菩提寺で、吉就のほかに奇数代の6藩主および、その夫人の墓がる。

  広い境内には三門、大雄宝殿、鐘楼などが当時の面影を残す                          本堂
 
墓地には約500基の石灯篭がある

 松陰神社・松下村塾 
 松陰神社倒幕を主張し30歳の若さで死罪となった、教育家、吉田松陰を祀った神社です。 禰宜さんから正式参拝をさせていただき、玉串奉奠もした  巫女さんからお神酒をいただく
 松陰先生辞世の句
『親思う 心に勝る親心 今日のおとずれ 何と聞くらむ。』
 松下村塾;1857年から1年足らずの間、ここから久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文,山県有朋、前原一誠、品川弥二郎などが教育を受けた。
 松下村塾の門下生になって講義を受けた。
170年前にロータリーのトレーニングからラーニング方式で行っていた
 松陰歴史館  江戸末期の思想家・ 吉田松陰の生涯を蝋人形によって再現。  
 萩反射炉 
 
   
日本に現存する近世の反射炉は、この萩反射炉と韮山反射炉静岡県伊豆の国市)のみである 。
アヘン戦争黒船来航によって海防強化の必要性を感じた長州藩(萩藩)は、西洋式の鉄製大砲鋳造するために金属溶解炉として反射炉の導入を計画した。萩反射炉は1856年に建築・使用された試験炉であり、本式の反射炉(実用炉)は築造されなかったとの説が有力視されている
 萩焼会館:萩焼は朝鮮出兵により、韓国より渡来した陶工李兄弟が、毛利藩の御用窯として開窯し、高麗風の茶陶を製作したことに始まります。古来より茶人の間で「一楽二萩三唐津」と称され、数ある茶陶の中でも深く愛されてまいりました。以来今日まで、この伝統は約四百年の歴史とともに受け継がれ育まれてきた。 萩焼は、素材にして風趣に富み、その手ざわり口ざわりの柔らかさが特徴です。また、使い込むほどに茶慣れによって色調、景色に種々の変化を生じ、これを「萩の七化け」と呼んでおります。
 昼食は北門屋敷:萩を象徴する武家屋敷の町並み、世界遺産「萩城下町」に建つ 3千坪の旅館です。周囲は、江戸時代さながらの町割や土塀に囲ま れて萩の情緒と歴史を満喫できます。
 萩の城下町  
江戸時代の町割が残り、武家屋敷や町家が並ぶ城下町は、今 も古地図を使って歩くことが可能です。白いなまこ壁の美しい菊屋 家住宅(重要文化財)では、庭や美術品など貴重な資料が公 開されている。
 昔の面影を残す江戸屋横丁  木戸孝允(桂小五郎)が生まれ育った家
1866年には藩を代表して薩長同盟を締結した
 文久3年に藩庁が萩から山口に移ったことに加え、明治政府樹立後の士族の給禄奉還が萩に残された武士たちの苦境に追い打ちをかけていたところ、萩に帰郷していた新政府の要職を歴任した小幡高政(おばた たかまさ)が廃屋同然となった侍屋敷に種を蒔き、苗木を士族たちに配布した。それにより明治22年には、夏みかんの果実と苗木の収益が当時の萩の財政を追い越すまでとなり、萩の街全体に夏みかんの畑が広がりました。
 菊屋家は国指定史跡「萩城城下町」の一画にあって国指定重 要文化財建造物5棟(主家、本蔵、米蔵、金蔵、釜場)を含 む
江戸時代初期の建物で全国でも最古に属する町屋としてその評価は極めて高いとされている。

幕末の風雲児、高杉晋作の生家
松下村塾に学び奇兵隊を組織し、長州征伐、四国艦隊と戦った。 

     防長(周防と長門の2か国から命名)バス
 大谷山荘 
大谷山荘は、1960(昭和35)年創業、1964年高松宮殿下、1980年マンスフィールド米駐日大使が、1996(平成6)年天皇皇后両陛下が、
2016年日露首脳会談会場としてプーチン大統領が宿泊した。

 
高橋英樹先生による”平家物語先帝の入水”」の演謡

34歳でロータリー財団の奨学生としてアメリカに留学すると、それまで気にならなかった日本のことが気になりだしました。それが平家物語でした。外国の抒情詩は、もともとは弾き語りであったが、今は文字しか情報がない。平家物語は鎌倉時代から800年以上も語り継がれてきた。弾き語ることで見えてくるものがある、と思われたそうです。

平家物語は琵琶法師らによって広まったが、室町時代以降は能狂言や歌舞伎など他の芸能に押されて、長い低迷の時代を経て、最近復活させる動きが高まりました。高橋さんが200句語ることは、江戸時代以降4人目の達成者だそうです。

 本日は平家物語の中でも、もっとも有名な『先帝の入水』をお願いしました。平清盛の娘徳子、後の建礼門院は高倉天皇の皇后となり、安徳天皇の母となりましたが、平家の没落で西へと逃れ、下関の壇ノ浦の戦いを迎えるが、頼みの平知盛が討ち死にすると、祖母の二位の尼は安徳天皇を抱いて『海の中にも都がございます』と慰めて海に身を投じた。未来永劫安定しているものはなく、諸行無常というか、盛者必衰の理を訴えています。

  三種の神器のうち草薙剣は、『二位殿は宝剱を腰にさして、我は女なりとも 敵の手にはかかるまじ、、』とあるように二位殿と共に海に沈んだはずですが、熱田神宮にあるともいわれている?なぜでしょうか。      この草薙剣は、前日の岩見神楽 八岐大蛇を須佐之男命が退治した大蛇のお腹の中から出てきた剣です。 その後、日本武尊が熊襲征伐の後、出雲にて、騙してこの草薙剣を手に入れた。父の景行天皇は続いて関東征伐を命じ、そこで枯れ草に火が放たれて火攻めに会うが、草薙剣で火を消した。その後妻に草薙剣を預けて伊吹山の神を退治に行き、剣を持参しなかったので死亡したと、古事記や日本書紀には記載されています。そして熱田神宮に草薙剣を奉納したようです。 謎の多い草薙剣です。天皇の即位の度に、話題になります。皆さんは三種の神器の草薙剣どうお考えでしょうか?

 髙橋秀樹先生のご意見は:あくまでも一般に言われていることですが、八岐大蛇の尾から出た剣は、第10代崇神天皇のときに形代が造られており、「御霊威もとの剣にあひおとらず」と言われました。本剣は伊勢神宮に祭られ、形代は天皇の側に置かれました。本剣のほうは日本武尊が用いたあと、熱田神宮の御神体となりました。
 問題になるのは、天皇の側にあった形代の剣のほうです。これは、平家滅亡の時、海に沈みました。形代の剣の代用として、壇浦合戦以前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を用いたり、順徳天皇の時に伊勢神宮から献上された剣を用いたりしました。南北朝時代に、南朝の後醍醐天皇が三種の神器の偽造品を造らせ、南北それぞれが手元にあるほうを正統であると主張しましたが、第100代の後小松天皇の時に、南朝が北朝に神器を譲渡して混乱が収まりました。現在、皇居にある剣は、この混乱が収まった後のものです。以上は、あくまで一般的に整理されている経緯であって、それぞれの神社や伝説で異なる伝承や由来がありますが、剣が壇浦で沈んだはずなのに、なぜ皇居や熱田神宮にあるのか、という疑問は解消されると思います。

平家物語り1.  2.  3. 4. ☚クリック

       
       
 
平家物語1.  2.  3. 4. ☚クリック

平家物語 先帝の入水 『お念仏有しかば 二位殿 頓(やが)て抱きて参らせて』 ☚クリック


『都の侍ふぞ と 
慰め参らせて 千尋の底にぞ』
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左は下関平家踊りです(下調べ不足でした)。
      
 3日目
ホテル8:00 ═════ 9:00土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム 10:00═════ 10:15角島展望台10:25 ═════ 11:10 元乃隅神社 11:40═════ 13:00新山口グランドホテル (昼食) ・・・・・ 14:00新山口駅 14:05       

土井ケ浜遺跡
土井ヶ浜遺跡は、山口県下関市豊北町にある縄文時代後期から弥生時代にかけての貝塚遺跡です。 この遺跡は、日本の考古学において非常に重要な発見の場となりました。①1世紀までの約500 年間にわたる人々の生活の痕跡が残されている。 ②. 300 体以上の人骨が発掘され、当時の人々の生活や健康状態を知る貴重な資料となっている。③. 縄文時代から弥生時代への移行期の文化変化を示す遺物が多数出土している。 ④. 遺跡に隣接して「土井ヶ浜人類学ミュージアム」があり、出土品や人骨の展示、復元された当時の生活様式を見学することができる。 それまでの縄文人と異なる顔や身体をしている。装飾品には東シナ海で捕れるゴホウラ貝で造られていた。この遺跡は、日本の先史時代を研究する上で極めて重要な場所であり、考古学ファンだけでなく、歴史や文化に興味のある方にとっても魅 力的な観光スポットとなっています。縄文人が進化して弥生人に成ったのではなく、多重渡来混合説が提唱され、日本人のルーツが解明された遺跡です。
 

戦争?で沢山の矢を射られた英雄の死
   埋蔵された顔は全員が中国大陸を向いている300体が発見された。なぜ滅びたのか?戦争、疫病?
   
  角島展望台・元乃隅神社 
   
 離島に架かる橋のうち、無料で渡れる一般道路としては日本屈 指の長さ(1780m)です。途中にある小島を迂回しながらコバ ルトブルーの海をまたぐ美しさは比類がなく、CMや映画によく登場 します。  一面真っ青な日本海に際立つ123基の赤い鳥居が圧巻。せま い間隔でびっしりと並べられた朱塗りの鳥居をくぐって歩いていけば、 やがて「龍宮の潮吹」と呼ばれる、崖から大波が吹き上げる景勝地 にたどりつきます。商売繁盛、開運厄除、学業成就などさまざまな 面でご利益のある神様です。
 
     
 
お疲れさまでした。   12:45新山口グランドホテル (昼食)お急ぎの方は降車後新山口駅へ徒歩2分