日本人のルーツを訪ねて 土井ケ浜遺跡の弥生人たち
土井ケ浜遺跡は、山口県の日本海、響灘に面する海岸沿いにある約2300〜2000年前の弥生時代の埋葬遺跡です。
 私は、学生時代に縄文人が、稲作を考え出したり金属器を考案し、進化して弥生人になったと習った。
 土井ケ浜遺跡発掘団長の金関丈夫教授(1897〜1983年。当時九州大学医学部解剖学)は土井ケ浜遺跡から出土した弥生人骨が縄文人とは異なる形質を持つことを明らかにし、『弥生人渡来・混血説』を発表した。金関説は、今までの進化説を覆えし、歴史を変える定説となった。
 ここ土井ケ浜遺跡は、1953(昭和28)年から昭和63年第11次まで調査が行われた。その結果、縄文人と全く異なる弥生人骨が300体余り完全な形で出土した。かれらは体の軸がほぼ東西になるように埋葬し、しかも頭をやや高くし、顔が西側を向くように、すなわち海岸(中国)の方向へ顔を向けて葬られていた。石棺や配石などいろいろな埋葬習俗が良く解る。また骨格の特徴から日本人の起源を解明することが出来る日本でも貴重な遺跡として国史跡に指定された。
 では土井ヶ浜弥生人など「渡来系」と称され、縄文人的特徴を持たない弥生人たちが渡来人だとすれば、彼らは「どこから」、「いつごろ」、「どのような経路で」渡来してきたのだろうか。我々日本人のルーツは何処なのだろうか?



土井ケ浜から夕日の響灘を望む 土井ケ浜ミュージアム
この丘陵地帯には西風によって吹き上げられた砂層が厚く堆積しており、この砂層に含まれるCaと塩分が弥生人の人骨を良好状態で保存していた。1953(昭和28)年地元の小学校教諭が土井ケ浜で貝で作られた腕輪らしい遺物や人骨を採集し、九州大学へ通報した。金関丈夫教授は、当時殆ど出土していなかった弥生時代の人骨を発掘する為に、同年10月6日より発掘調査を開始した。

『土井ケ浜ドーム』
ここの地下が土井ケ浜遺跡。ここから沢山の弥生人骨と多彩なアクセサリーそして葬送の器が発見された。
現在は、ここの地下に『土井ケ浜ドーム』として再現されている。

では、人骨発掘当時を忠実に再現した『土井ケ浜ドーム』へ入ってみると

 保存状態の良好な弥生人骨が、300体を超えるほど大量に出土した遺跡は土井ヶ浜遺跡だけです。
 土井ケ浜遺跡での埋葬方法には、@遺体を入れるための穴を掘るだけの土壙墓、Aやや大きな板石を箱型に組み遺体を収納する石棺墓、B遺体の周囲や両側あるいは一部を石で囲った配石(石囲)墓、C遺体の四隅に石を配置する墓などがある。北九州のような甕棺墓はない。この違いは渡来系弥生人のルーツの違いと見られている。土井ケ浜弥生人は大陸辺縁部から、北部九州の甕棺墓の弥生人は中国大陸内陸部にそのルーツがあるようだ。この時代に大陸や半島からいろいろな集団が一定の時間差で渡来したのであろう。そして南西諸島を北上する集団もいたのであろう。西南諸島にしかないゴホウラ貝がここにも、北海道の伊達市にもある。ここ土井ケ浜は、海上交通の要所だっだのではないだろうか?
最初に出土した人骨が『鵜を抱く女』
@土壙墓(どこうはか)で、地面に穴を掘っただけのもの。全体の90%を占めている。彼女が死んで、埋葬されるときに鵜が一緒に埋葬されたと推測されている。鳥は、当時、聖なものと考えられていたようで、彼女は鵜を自由に操れたシャーマンだったのではないだろうか。
A石棺墓で、偏平な石を組み合わせて棺としたもの、棺の石蓋はあるが、底石はない。4基の石棺墓が検出されている。
この石棺墓には5体の人骨が追葬して納められていた。

       矢を受けたシャーマン
 この被葬者の右腕には土井ケ浜遺跡から出土したゴホウラ貝輪としては最も美しい形をしたものが2個着装されていた。遺体の周辺から12個の石鏃(せきぞく)と2個のサメの歯製の鏃(やじり)が発見された。そして顔面が破砕され、頭蓋骨には2個の鉄鏃が射込まれた跡があった。この男性シャーマンは、鉄鏃を射込まれて絶命した直後に、顔面を破壊されたものと推測されている。制裁を受けたシャーマンだったと推測されている。
     奇妙な遺体処理
 
 足元に頭蓋骨を添える墓:ある人骨の足元に2個の頭蓋骨がおかれた例が、3例確認されている。si死後首から頭が切断されて、足元に置かれた。殉葬が行われたのか?それとも呪術的、宗教的儀式だったのだろうか?

                    多くの頭蓋骨が集められた複葬墓
 一度埋葬された遺体を掘り起こして、1カ所に集め、埋葬しなおしたもの。頭蓋骨(顔は西に向けている)が21体分も積み上げられていた。頭蓋骨の下には四肢骨が集められていた。
 いくつかの家族が集まって1つのムラを新しく作るときに、自分たちの先祖の骨を1カ所に集めて埋葬し直すことによって、仲間意識を強くするために行われたと考えられている。(土井ケ浜以外には存在しない)


大賀ハスの花が咲いていた。
7月9日撮影。これは、2000年前の古代ハス。1951年(昭和26)3月、植物学者・大賀一郎博士(1883-1964)は3粒のハスの実を発見し、1952年7月開花に成功した。 今日は明石ちじみの着物に、駒絽の袖無し羽織りで。

弥生時代年表
縄文 BC1000年
弥生時代 600年 水稲作始まる。金属器の使用始まる。
221 秦始皇帝中国統一(呉、越滅び、倭国へ)
    吉野ケ里で環濠作られる
   250 土井ケ浜で埋葬始まる
202 一支国原の辻遺跡に弥生人住み始める
AD   50 土井ケ浜での埋葬終わる。
  239 邪馬台国卑弥呼、魏に朝貢する
古墳 350 一支国原の辻遺跡解体する。
シンボルである、ゴホウラ貝輪と土井ケ浜ミュージアム


土器
土井ケ浜遺跡からは、紀元前250年から起源50年までの土器が出土している。
      土井ケ浜遺跡から出土した土器
土器には3つの形がある。
  @甕(かめ)は、主に煮炊きに用いた。
  A壷は、主に貯蔵用に用いた。祭りや儀式にも用いた。
  B高杯は、主に食べ物等を盛り付けたり、供えるために用いた。
土井ケ浜からは、壷が多く、高杯は少し、甕は殆ど出土しなかった。土井ケ浜遺跡は、墓地遺跡だったので、墓に供えられた副葬品が多く出土している
土井ケ浜遺跡の生活を再現した様子。
紀元前2〜3世紀になると、中国の勢力が朝鮮半島に及んで、大陸文化は朝鮮を経て九州北部へ伝わった。金属器をもたらし、水稲が普及して、丘陵や海辺などから低地に移り住んだ。竪穴式住居に住み、穀物は高床倉庫に保管した。農閑期には土器を焼いたり、農耕工具を作りながら、海に出て漁に精を出した。。

      弥生時代前期の土器
貝殻によって表面を巡るように文様が付けられた壷。
マタギガイやベンケイガイなどの二枚貝殻によって文様が付けられている。副葬された壷の大きさは、15cmから1mを越えるものまでさまざまである。
     弥生時代中期の土器
貝殻文様を持つ土器はなくなり、文様は簡素となり、土器の表面には赤い色が塗られている土器。まさに儀式用の土器である。この形の土器は土井ケ浜遺跡以外では出土していない。
     弥生時代中期の土器
同じ形の土器は、韓国金海地内洞遺跡からも出土しており、当時の人々の交流範囲の広さが推測される。
しかし土井ケ浜遺跡からは、大陸系の土器は未だ発掘されていない。

貝殻でつけられた土器の文様(貝殻紋土器と言う)   土器から何が解るか?
@土器は大量に作られて、どこの遺跡からも出土するので、遺跡同士の時期的な比較をするのに大変都合が良い。
A粘土で出来ているために、形を作ったり模様を付けたり自由に出来るので、土器を作った人の考え方を良く反映している。
B『土器はこうあるべきだ』とある人々の間で同意が出来れば、形や紋様、色、作り方などについても一定期間は守られていたと推定される。したがって土器は地域や時期によってさまざまな種類のものが作られた。
 この種類を細かく調べることによって、当時の人々の生活圏の広がりや、勢力の消長、文化の在り方を知ることが出来る。
     羽状紋
鳥の羽を思わせるように付けた紋様で、紋様を付ける前に線を引いて幾つかに区割りをし、規則正しく描いたもの。
   羽状紋と鋸歯紋
あらかじめ縦に線を引き、ほぼ3等分に区割りをした後に、羽状紋を付け、外側には鋸の歯を思わせる鋸歯紋を描いている
 木の葉紋
 あらかじめ縦に線を引き、規則正しく紋様を描いている。



多彩なアクセサリー
 アクセサリーを通して見る土井ケ浜人は、縄文時代的な伝統を見つけることは出来ない。朝鮮半島から中国東北地方の沿岸民と同じアクセサリーを使用していた。これを支たのは、160Kmの海域を隔てて向かい合う朝鮮半島との行き来であったに違いない。また土井ケ浜人は、北部九州の弥生人とは区別される独特の世界を持ったまま、300年間海辺の生活を続けた人々であった。土井ケ浜遺跡のアクセサリーは、自ら北部九州、朝鮮半島、琉球列島に出向いて、足で集めた貴重なものであったことが解る。
 土井ケ浜遺跡では、腕輪、指輪、髪飾、首飾などのアクセサリー(装身具)がたくさん見つかっている。材料は貝や緑色の石、ガラス、動物の骨など。中でも貝製品の多いことがこの遺跡の特徴です。
      土井ケ浜遺跡の装身具
 貝製品には貝輪(腕輪)、指輪、玉類などがある。貝輪には、奄美、沖縄などの南海産の貝で作ったものと近海の2枚貝で作ったものがある。貝輪を持っている人は少数なので、彼らはムラの中で特別の人々だと考えられていた。
      貝の道
 土井ケ浜遺跡のアクセサリーには縄文文化的伝統を見つけることは出来ない。南西諸島でしか捕れないゴホウラやイモガイは、2000年以上も前の弥生時代に既に、南西諸島との間で交易があった。北海道の伊達市の有珠モリシ遺跡からも出土している。西南諸島に源を発した貝の道は、ここ土井ケ浜を経由して日本海側へと伸びていたものと思われる。
 また土井ケ浜遺跡のアクセサリーは、朝鮮半島から中国東北地方のの人々が使用していたものと同じものであった160Km離れた朝鮮半島との往来があったに違いない。

南海産の貝
近海の二枚貝
ゴホウラ貝輪とうずまき模様
土井ケ浜のすべてのゴホウラ貝輪には、巻貝を擦った為に出来る渦巻き形の孔がくっきり見える。同じころの吉野ケ里遺跡などのゴホウラ貝輪にも、渦巻き模様が見られる。貝輪にとって渦巻き模様こそが実は”魂のアクセサリー”であるための重要な部分だっだ。
   渦巻き模様の意味
 渦巻き模様は、弥生時代の代表的な祭具である銅鐸や銅剣、土器などにも、また同時期の朝鮮半島の農耕の祭りの道具にも見られる。渦巻き模様は朝鮮半島から日本に入って来た、農耕祭祀の大事な記号だった。渦巻きの形に、人々は作物の生命力を感じたのではないだろうか。
    玉と南海産貝輪
 ゴホウラやイモガイは磨くと白くつややかで、手触りは中国人の愛好する玉に似ている。玉は中国で神秘的な生産力や生命力を持つと信じられている特別の石です。ゴホウラとイモガイは、大陸や朝鮮半島の農耕文化の思想に接した弥生人が、渦巻きと玉の呪力を求めてやっと捜当てた大変貴重な材料だったと言える。

魂のアクセサリー:装身具(アクセサリー)には自分の好みで身につけるものと、その人の所属や身分を示すために、その付け方に社会のルールがあるものとがある。重い役割のアクセサリーには、自然界の不思議な力や人間の神秘的な力、未来を予言する超能力のようなものを肉体につなぎ留めたり、強めたりする役目を負っているものがある。
シャーマンとアクセサリー:古代の人々は生活のさまざまな不安と戦うために、多くの呪いにたよって生きていた。祈りや占いなどを専門に行う呪術師(シャーマン)は呪力を強めるアクセサリーをたくさん身にまとっていた。土井ケ浜遺跡では、少数の限られた人にアクセサリーが集中していた。このような人はムラのシャーマンだと考えられいる。彼らのつけていた貝輪や指輪、玉は『魂のアクセサリー』と考えられている。土井ケ浜のシャーマンはそれぞれ違ったアクセサリーを身につけていた。これは互いに異なった内容の呪力を持っていたからではないだろうか。


土井ケ浜遺跡の発掘により初めて弥生人の顔、かたちが判明した。

 土井ケ浜弥生人の顔を人骨から再現すると、面長で、鼻根部が偏平で、身長が高い。現在の日本人にかなり近い、東洋系の顔です。
 縄文人は、顔が短く、横幅が広い、眉の上の部分が高く隆起していた。顔は彫りの深い様相をしていた。このように土井ケ浜弥生人の顔は、縄文人とは全く異なる容貌をしていた。
 四肢骨は、長く平均的な太さだが上肢特に上腕骨は著しく太い。これは上肢を良く使う労働(漁業に携わったり、櫓を漕いだり、網を手繰るなど)に従事していたことが推測出来る。
 また健康的な歯を、人生の節目毎に抜去する『習慣的抜去』がかなり高頻度で行われていた。土井ケ浜弥生人の抜歯には、上顎側切歯を抜去する、古代中国と共通する型式が多く、この点でも大陸の影響を受けた可能性がある。

 日本列島では、4〜3万年前の後期旧石器時代には人間が住み始めていたことは確実です。約1万年前の縄文時代になると気候は温暖になり、陸橋はなくなり大陸からの流入が途絶えた。  縄文時代晩期から弥生前期(2300年前)にかけて、朝鮮半島や中国大陸から再び人が渡来して来た。

昭和38年当時の金関丈夫教授の講義風景

1994年から3年間中国山東省と行った協同研究の結果、この漢代の人骨群は『北部九州山口』の弥生人にそっくりであった。(『土井ケ浜遺跡の弥生人たち』土井ケ浜遺跡、人類学ミュージアム発行より)
 水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人によく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的に動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやって来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。(国立科学博物館より)

 土井ケ浜遺跡の弥生人たちは、稲作と鉄器を持って大陸からの渡来人であり、紀元前300年から0年に土井ケ浜に住んでいた。縄文人とは棲み分けをして暮らしていた。その後、縄文人を征服、又は一部は混血して今日の日本人となったと推測されている。魏志の倭人伝の『その国はもともと男子を王としていた。(238年の)七・八十年前、倭国は乱れ何年もの間攻撃しあっていた。そこで、国々は協議して一人の女子を王にした。名前を卑弥呼という。』紀元160年頃から238年まで倭国は乱れ攻撃しあっていた倭国大乱の時期に土井ケ浜遺跡は崩壊してしまったのである。