長谷川等伯ゆかりの地
秋の京都

 長谷川等伯は、安土桃山時代(1539~1610)に活躍した、能登半島七尾出身の絵師である。生家は武士の奥村家、染色を生業とする長谷川家に養子として迎えられた。30代で上洛するまでこの地で過ごし、若いころから仏画を描いていた。等伯がその名を馳せたのは50代の頃。狩野派が台頭していた京都で、秀吉から障壁画を任せれたのがきっかけでした。 等伯については、直木賞作家の安部龍太郎先生の講演も聞ける日経カルチャー主催のツアー『長谷川等伯のゆかりの富山、能登の旅』に前回(平成30年5月)参加して訪ねた。
 今回は秋の京都編、第1日目はレストラン田村での和食感覚の京フレンチ、南禅寺金地院、本法寺、料亭菊水での夕食。第2日目は智積院、高台寺、・園徳院、西陣魚新の昼食、妙蓮寺、相国寺承天閣美術館を訪れたが国宝や重文のために撮影が出来なかった。またその前日には紅葉の美しい圓光寺、源光庵、大覚寺、夜の永観堂を訪れた。
  南禅寺金地院
 臨済宗、応永年間(1394~1428年)、足利義持が北山に創建し、1605年に現在地に移築された。庭の奥には東照宮がある


南禅寺山門 鶴亀の庭は、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園として、また小堀遠州作で名高い

中央に礼拝石が置かれ、左には亀島、右には鶴島を配し、礼拝石の奥が蓬莱山となり、前面は白砂で模様が描かれている。特別名勝庭園 茶室の八窓席。京都三名席の1つに数えられており、趣向を凝らして設計し、改築された茶室が人気となっています。その珍しい設計や作り、貴重さから、こちらの茶室も重文に指定されている。 重文の長谷川等伯筆の猿 捉月図、老松図。雪舟の流れをくむ

本法寺 
1463年室町時代に創建された日蓮宗の総本山。非公開の長谷川等伯筆の波龍図屏風、日堯上人像、仏涅槃像が今回のツアー12名のために公開して下さった。
中でも仏涅槃図はその大きさに驚かされる。久蔵の7回忌に当たり制作された。
本法寺の長谷川等伯像 多宝塔 第96世瀬川日照貫主の説明を聞く。聖徳太子の17条憲法の『仏法僧』の額

〇長谷川等伯と佛涅槃図(本法寺HPより)
 長谷川等伯(1539-1610)も本法寺に縁の深い芸術家として知られています。等伯は能登国・現在の石川県七尾で生まれ、染色を生業とする長谷川家の養子となり、故郷の七尾を中心に絵師として活動していました。その後、養父母の死をきっかけに拠点を京都へと移し、生家の菩提寺の伝手で本法寺塔頭の教行院に住み、制作に取り組んでいきました。
 等伯が京都で活動をはじめたころの作品に、当時の本法寺貫首の肖像画『日堯上人像』(重文)があり、本法寺に所蔵されています。この作品は34歳の時のもので、「長谷川信春」の署名があり、等伯と信春が同一人物であることを裏付ける貴重な資料として知られています。その後、30代後半から40代の作品はのこされず、活動が明らかになるのは50代になってからです。
 天正17年(1589)、51歳の等伯は大徳寺の三門楼上壁画と三玄院障壁画を描き、都で名の知れた絵師となります。翌年には御所の障壁画制作を依頼されるまでになりましたが、当時の画壇に君臨する狩野派の妨害によって、苦汁を飲まされる結果となりました。しかし、その後は豊臣秀吉から祥雲寺障壁画の制作を依頼されるなど、画壇における地位を確固たるものにします。こうしてみると、等伯にとって充実した活動時期のようですが、背景には彼を取り巻く人たちとの死別が、大きな影響を及ぼしています。
 等伯が52歳の時、親交が深かった千利休が秀吉の命によって自刃し、さらに55歳の時には、制作の片腕として一番の信頼を寄せていた息子の久蔵を26歳という若さで失い、深い悲しみに見舞われました。そのような中で『松林図屏風』(国宝・東京国立博物館)など水墨画の優れた作品が描かれており、心の内を墨の濃淡で表現しているようです。
 その後、60代になると大作を次々と手がけ、そのひとつに本法寺の『佛涅槃図』(重文)があります。この作品は京都三大涅槃図のひとつに数えられ、描表具を含めると縦10m・横6mにも及ぶ大幅で、表具の裏には日蓮聖人以下の諸師や本法寺歴代住職、祖父母・養父母・子息久蔵などの供養銘が記されています。画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちが描かれ、自分をのこして先立った人々への哀悼と供養の想いが伝わってきます。また、自身と縁の深い本法寺関係者の肖像画『日通上人像』(重文)・『妙法尼像』(重文)などをのこし、高い評価をうけています。
 さらに、本堂の天井画や客殿の障壁画を描きましたが、天明8年(1788)に京都を襲った大火によって焼失してしまいました。しかし、幸いにも経蔵と宝蔵がのこり、『佛涅槃図』をはじめとする等伯の作品が奇跡的に焼失をまぬがれ、今日にまで本法寺に格護され続けています。
動物たちの悲しみも表現されている。


縦10m・横6mの大きさに驚かされる。

〇本阿弥光悦と巴の庭
 本阿弥光悦(1558-1637)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家で、その才能は多岐にわたり、書・絵画・陶芸・漆芸等に優れた作品を残しています。
 本阿弥家は元来、刀剣の鑑定や研磨を生業とする家柄で、足利幕府に仕えていました。光悦の曾祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走が原因で足利幕府六代将軍義教の怒りに触れ、投獄された際に獄中で日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者になります。
 爾来、本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、光悦は父親の光二と私財を投じ、伽藍の整備に力を尽くしました。また、これにあわせて光悦によって造られたとされる「巴の庭」は、室町時代の書院風枯山水の影響と安土桃山時代の芽生えを感じる名庭です。
本阿弥光悦作の「巴の庭」は書院の東側から南へ曲がる鍵形で、広さはおよそ200坪。三箇所の築山で巴紋を表現することから「三巴の庭」と呼ばれますが、巴の形は経年により解りづらくなっています。

東南隅に石組の枯瀧が配され、縦縞紋様の青石によって流れ落ちる水を表現しています 書院の縁側前には、半円を2つ組み合わせた円形石と、切石による十角形の蓮池が配置され、「日」「蓮」を表現しています。
林恒弘氏(ナレーター)の朗読と太田豊氏(雅楽演奏)の琵琶演奏にて小説等伯の世界を”語り”で体感した

京の懐石料理

南禅寺参道の料亭菊水。池泉回遊式庭園を眺めながらの夕食
明治時代に別荘として建てられた今年リニュアルオープンした料亭
たん熊の料理

料亭西陣魚新
今出川ご膳

 智積院 
真言宗智山派の3千カ寺の総本山。 等伯の子久蔵25歳の作国宝『楓図』、と息子久蔵の死を悲しみ自分を鼓舞し書き上げた名作『楓図』

金箔をふんだんに使った絢爛豪華な色彩を背景に、力強い桜の大木を描き、そして絵の具を盛り上げる手法を用い、桜の花びらの一枚一枚を大胆に表現しています。まさに花びらの中から、長谷川等伯の子・久蔵の若さ溢れる情熱が眼前に迫ってくるかのようです。久蔵が25歳の時の作といわれています。しかし、久蔵はこの翌年死亡
等伯筆国宝『楓図壁貼付』
この壁画は秀吉の嫡子鶴松の3回忌と息子久蔵の死を悼んで描かれた、まさに極楽往生を願う金碧障壁画である。
70cmを超える太い幹の楓は、両腕を広げるように雄々しく描かれ、紅葉や木犀、萩、菊の草木は九蔵を包むようである。等伯55歳の作。
長谷川等伯の息子九蔵筆『桜図壁貼付』
長谷川一門を将来を担う絵師として期待を寄せていたが、26歳の若さで狩野派一門によって殺されたと言われている。

桃山時代に造られた、中国の廬山を形どって造られた利休好みの庭として有名である。

 高台寺・圓徳院 
本門法華宗の大本山、1294年創建。秀吉の妻、北政所ねね終焉の地
雪月花図襖  志村正筆
池泉回遊式庭園だが、枯山水となっている。
等伯筆、障壁画『冬の絵』 重文
水墨画の基本である「真・行・草」を各書体を通じた等伯独自の個性が伺える。生まれ故郷の七尾市の風景を描いたとされ、五七桐紋を雪に見立ている

 妙蓮寺 
1294年に創建された京都最古の法華寺院である。長谷川等伯一派襖絵は、安土桃山時代から慶長年間に至る長谷川派の隆盛を知る貴重な作品である。

16伽藍石庭
長谷川等伯一派障壁画重文は、等伯の雄大さと久蔵の繊細さとを統合した作品
鉾杉の図四面(左)  柳の図四面、桜の図四面、  松桜の図三〇面(右)、 計42面  これらは宝物殿に収納されており、購入した絵葉書より複写

相国寺承天閣美術館
相国寺は1392年開山し足利義満によって創建された、臨済宗相国寺派の総本山である。京都5山の第2位に列せられ、雪舟など水墨画の規範を築いた画僧を多く輩出している。
等伯の筆六曲屏風『萩芒図屏風』は等伯の数少ない金碧画として貴重である。また伊藤若沖による水爆画『鹿苑寺大書院障壁画』もあった

等伯筆『竹林猿 図屏風』

 圓光寺 
1601年に徳川家康が伏見に建立したのが始まりで後にこの地に移築した尼寺。
枯山水の奔龍庭:渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立てて、天空を自在に奔る龍を石組で表した平成の枯山水である。
  池泉回遊式庭園の『十牛の庭』は牛を追う牧童が禅の悟りに至る道程を描いている。         探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語です。
円山応挙筆『雨竹風竹図』 富岡鉄斎筆、米 山水図 水琴窟:手水鉢を用いた水琴窟は珍しい。


 源光庵 
1346年臨済宗の寺院として創建。本堂は1694年曹洞宗に改宗した際に建てられた
山門 本堂には『血天井』と称される伏見城の遺構が落城の悲劇を伝えている。
『迷いの窓』は、人間の生涯を象徴し、生老病死の4苦八苦を表している。 『悟りの窓』は、悟りの境地に導かれる。円は大宇宙を表現し、
禅の教えが感じられる。



 大覚寺 
弘法大師を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。嵯峨御所とも呼ばれる
庭には一面に白川砂が敷かれ大海を表しており、
正面に右近の橘、左近の梅が旧御所の名残を留めている
この障壁画は、狩野派の代表作です。織田信長、豊臣秀吉は自己の権勢と富を誇示するために障壁画の御用絵師を狩野派に命じました。その当時の手法は、金碧濃彩画と水墨淡彩画の2つに大別できます。
狩野派の絵師は、伝統的な大和絵と中国の宋元から伝わった唐絵との和漢2つを統合折衷して室内画の形成を一段と発展させた。金箔を画面一面に貼り、樹木には青緑白群などの高価な岩絵具をふんだんに使い豪華な金碧濃彩画

永観堂のライトアップ 東寺方面の夜景


長谷川等伯能登・富山