風待ちの港・北前船
潮待ちの港 能登
風待ちの港


 日本海に大きく突き出した能登半島は、古くから交通の要所として栄えた。日本は、隋、唐、宋などの中国、そして百済、高句麗、新羅、渤海、高麗などの朝鮮半島との交流が盛んで、それによって発展してきた。明治以前は、この日本海側が表日本であり、文化も栄えていたようだ。
 また門前(黒島)は、日本海に突き出した半島の利点を生かし、日本海を往来する北前船の拠点でもあった。
 能登の北前船の歴史は、1639年加賀藩3代当主前田年常による大阪への藩米輸送に始まり。その後商品を運ぶだけではなく、出港地で仕入れた品物を、寄港地で売り利ざやを稼ぐ商売に移っていった。能登の船乗は、最初は大阪に拠点を持つ近江商人の雇われ船頭として輸送を委託されたが、やがて自ら船を持つようになった。
 冬の間は大阪に船を係留し、春になると塩や酒、衣類、油、蝋などを積んで北上し、寄港地で売買をしながら、蝦夷地へ行った。そして秋になると昆布や鮭、肥料用のニシンのしめ粕などを積んで大阪へ戻って行った。
 輪島塗、曹洞宗の本山總持寺に当時の北前船の繁栄の跡が伺える。
 また明治の初頭には北海道江刺町の住人の約4割は能登出身だったと言われている。


福浦港
 福浦港は、小さいながらも海底までの深さがあるので天然の良港であった。古くは渤海使が来航し、江戸時代には風待ちの港として栄えた北前船の寄港地でもあった。
渤海使節が来航した福良津(現在の福浦港)
渤海(698〜926年、高句麗滅亡後テジョンにより建国された)使は、728年から922年まで34回、遣渤海使は728年から811年まで14回往来した。ここ福良津から出航し、帰航した。
 福浦港は、古くから日本海側有数の良港として知られてる。江戸末期には諸国の船も交えて、相当に賑わったと言われている。

 旧福良灯台:約390年前に地元の日野長兵衛がかがり火を焚き、暗夜の海を航行する船を守ったことが始まりと言われ、明治9年にこの地に、福浦灯台が建設された。現存する日本で一番古い木造灯台です。

古い街並み:置屋が数十軒あり、遊女が70〜80人いたという。京町家風のベンガラ格子の家々が残り、当時の隆盛をしのばせる。


厳門 サンセットヒルイン増穂:木造のベンチは、460m、1346人が座れます。


黒 島
 16世紀前半分に小さな漁村として始まった黒島は、1570年番匠屋善右衛門が回船問屋を起業し、以後北前船の回船問屋が隆盛し、それに伴って船頭や船員や船大工等も移住し、発展した。曹洞宗の總持寺との結びつきや、日本海航路による回船業の発展に伴い、最盛期には、十数件の回船問屋があった。
 港のない黒島では、母船は沖に停泊し、小船で沖と浜とを行き来して品物を運んでいた。
 黒島とは、磯にある高島と言う岩が黒いので黒島と呼ばれたことに由来すると言う。 黒光する能登瓦、南京下見板張りの壁、格子が続く家々が軒を連なっている。

天領北前船資料館          資料館の中には、天領祭りに使われる2基の輪島塗の曳山が置かれている。


また總持寺の輪番住職に付いて来てそのまま寺院の近くに移住した人々もたくさんいた。盛岡屋は、岩手の僧侶の輪番住職について来た北前船主で、ここ黒島に移り住んだ。1723年に起業し、18隻を有し、黒島では總持寺の御用達として名を馳せることになった。

2007年3月25日震度6の地震が能登半島を襲い、半壊した角海屋。現在修復中で、平成23年完成予定であった。最盛期には7隻の北前船を持ち、栄華を極めていた。


曹洞宗の本山 總持寺祖院
 道元禅師(1226年宋から帰国)から4代目の蛍山禅師が1321年に開いた、永平寺と並ぶ曹洞宗の修行寺として栄えた。、590年間日本曹洞宗1万5千カ寺の根本道場として発展してきた。道元禅師の頃は禅宗と呼んでいたが、蛍禅師は後醍醐天皇から【曹洞宗】の綸旨(りんじ)をいただいた以後、曹洞宗と呼ばれるようになった。明治3年明治政府により500年続いた輪住制が廃止され、末寺は全て本山直寺となると、永平寺との主導権争いが起こり、そうした中、明治41年の大火災を機に、布教伝道の総本山として鶴見総持寺が作られて、移転した。
三樹松関 山門:第一の総門から数えて三番目であること、空、無相、無作の三解脱に入るという意味から三門と呼ばれている。高さ17mの堂々と、均整のとれた優美さを備えている。

 總持寺には、輪住制(1366年から1870年に廃止されるまでの500年間)があった、これは総本山の住職を全国各地(青森から鹿児島)にある末寺の僧侶が75日づつ交替で努めるものである。相続争いによる分派をなくするのと、責任の分担をすることに名誉を取得出来る効果があった。輪住制を勤めた僧侶が全国各地と黒島を行き交うのが北前船であった。僧侶は、黒島と總持寺までの4kmの道程を大名(10万石の格式)行列と見まちがう行列をしていたと言う。一人の輪番住職には、檀家や弟子、世話人など総勢百余人の人々がやってきた。75日が過ぎて帰るときは輪島塗りを持ち帰り、輪島の人間がお供をして地元で輪島塗りを売り込んだという。

仏殿



輪 島
輪島中心部 輪島にはJRはない。かっては海を越え、次はシベリアへ続く計画だった?

 輪島塗は室町時代に製法が伝わり、輪島塗が全国に広がったのは、總持寺の輪番住職に付いて来た人たちが帰るときにお土産として北前船で持ち帰ったからだと言われている。
輪島の朝市
平安時代から千年以上の歴史を持つ朝市。
輪島塗りのペンダント 輪島で購入した風鎮。奇麗である

輪島の街並み

         御陣乗太鼓    -県無形文化財

 天正4(1576)年越後の上杉謙信は七尾城を攻略し、奥能登平定へと兵を進めた。百戦錬磨の上杉軍に対して、農民、漁民は木の皮でお面を作り、海藻を髪とし、夜陰に乗じて太鼓を打ち鳴らし夜襲をかけた。

これを見た上杉軍は奇怪な様に物の怪か神の化身かと驚き戸惑い退散したと伝えられている。

 

千 枚 田
 1004枚のミニ水田が連なっている。最も小さいのは0.2u。地滑りし易い急傾斜地であるが、1636年能登の小代官が谷山用水を作り、水は豊富である。
 平地が少なく、狭い国土、勤勉な国民性など、千枚田は我が民族の象徴とも言える。

揚浜式塩田の再現
白米村は、かっては製塩も盛んであった。1635年の記録によると出来塩1295俵、1674年の記録でも13軒のうち百姓6軒、塩士7軒であったとある。


上 時 国 家
  時国家ー天領(幕府直轄地)の大庄屋であると共に北前船で巨万の富を築いた海運業者でもある。
1185年壇ノ浦の合戦で捕虜となった平時忠(1130〜1189年。姉の時子は平清盛の妻で安徳天皇の祖母、妹の滋子は後白河天皇の妃で高倉天皇の生母。神鏡を守った功により死罪は免れた)は能登に配流され、その息子が時国と名乗り近隣の村々300石を統合支配した。近隣で塩などを売買するために船を使用するようになり、後に北前船を盛んに往来させ、巨額の富を蓄えた。
建坪189坪、高さ18m 書院造りの大納言の間

折上御天井 広間の襖には平家定紋【丸に揚羽蝶】を金粉で描いてある。 心字池



下時国家
下時国家は、第13代の時に次男に所領の1/3を与えて分家し居を構え、下時国家を名乗るようになった。
建坪108坪


40坪の土間

2千坪の庭園



        屋根の最頂部

船箪笥

七尾湾:左に能登島。明治に入って和倉温泉の開発に携わったのが、黒島の回船問屋として栄えた浜岡屋であった。 能登丼:奥能登産のコシヒカリ・奥能登の水・メイン食材に地場でとれた旬の魚介類を使用した「能登丼」。



見附島:島の形が軍艦に似ていることから、別名「軍艦島」とも呼ばれる見附島。引き潮の時には島の近くまで散歩するも可
       能登山里山海号:七尾〜穴水    七尾線の花嫁のれん号両編成で金沢〜和倉温泉駅


潮待ちの港・風待ちの港
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