干拓地と北前船の寄港地 潮待ちの港
潮待ちの港 下津井
風待ちの港
 児島半島の先端の下津井は、島であったが、奈良時代から干拓が始められ、江戸時代初期の大規模な干拓事業により1618年には陸続きとなった。また、干拓地の塩分を含んだ砂地では、栽培される作物には限りがある。綿は、水分と肥料(ニシン粕)さえあれば十分に栽培が出来た。北前船が運んで来るニシン粕は、瀬戸内海最大の干拓地を控える下津井港において高値で取引され、北前船の寄港地として栄えた。
 下津井は、江戸時代に岡山藩の在番所がおかれ、参勤交替のため内海を航行する西国大名の応接にあたったり、金毘羅参りや四国八十八カ所めぐりに四国へ渡る港としてまた北前船の寄港地として発達してきた。北海道で取れたニシン粕、数の子、昆布などを満載して、日本海の荒波を越えて来た北前船が港に碇をおろす度に、沸き立つような賑わいがこの町を覆っていた。
 下津井は、本土と四国との距離の一番短い所である。下津井から丸亀へと船に乗り金毘羅詣に行っていたが、1909(明治42)年宇野港が開港されると、宇高連絡船に取って代わられ、昭和63年には瀬戸大橋(上は自動車道、下は鉄道)が開通した。そして今は立ち寄る人も無く、ひなびた港町でしかない。
 下津井港の児島や付近の水島、早島などは、かっては島であったが、奈良時代から干拓が行われ、1618年には陸続きとなった。それまで、船は下津井の北を通っていたが、江戸時代以降は下津井港に寄港したり、下津井の四国寄りを通るようになった。
 北前船とは、木綿帆が使われるようになった1672年、河村瑞軒によって酒田から下関をまわって大坂を結ぶ航路が開拓された後に、北海道から日本海廻りで大坂を往復する大規模な商船である。
 日本海では春から初夏に山陰から北海道に向けて、秋には北海道から山陰に向けて風が吹く。よって北前船は正月を大坂で迎え、春に大坂から北海道へ向う年1度の航海であった。
 児島の干拓地には肥料としてのニシン粕が必要であり、北前船が運んだニシン粕により綿栽培は盛んになり、稲作以上の利益をこの干拓地にもたらした。そして木綿栽培は、明治の紡績業へと発展した。

下津井港の夜明け
瀬戸大橋の向こうには讃岐富士(飯山)が見える ここから金毘羅詣での船が出ていた。

下津井名物真ダコ
タコが軒先に干してある。 蛸天ぷら

 瀬戸内海は、屋島壇ノ浦の合戦を初めとする源平合戦の場として名高い。下津井付近では、水島の合戦や藤戸渡しの合戦があった。平家の亡霊を祀るために鬼面太鼓が叩かれ出したと伝えられている。
 真っ暗な中に、夜行塗料の鬼の面が光っている。


下津井町並み保存地区


出格子、虫籠窓(長方形の枠の中に格子を付ける)、出桁、持送、なまこ壁を持つ民家が沢山残っている。




むかし下津井廻船問屋

 江戸時代に金融業と倉庫業を営んでいた荻野家の分家の西荻野家の住宅で、商家の母屋とニシン蔵として使われていた建物。
母屋の入口 店の間
北前船が下津井港へ寄港した理由は?
 北前船とは、北海道や奥羽、北陸から漁獲物、特産物、米などを大坂や瀬戸内海に運び、帰りには近畿、瀬戸内海の特産物などを持ち帰った北国の船であると言いう。船は五百石から15百石積みで、なかでも千石船が多かったので千石船と呼ばれる。
 千石船の大きさは、船の長さは25m,船の底の長さは14.5m、船の幅は7.3m,深さ2.7m。帆は26反、櫓は16挺
 最初は北国の大名が、大坂へ米を運ぶのにこの船を利用して、日本海から瀬戸内海に入る航路を開いた。後に近江商人が蝦夷地までも北前船を使って進出した。さらに時代が下がると、船主は近江商人に限らず北陸の回船業者、上方あるいは瀬戸内海の業者(高田屋嘉兵衛など)も加わった。
 こうして北前船は、北海道の函館、江差、小樽、釧路などでニシン粕、ニシン、数の子、昆布、鰯粕、鮭、タラなどを積み、数十隻が船団を組んで海岸沿いに日本海を南下して西に進み、瀬戸内海に入って来た。下津井では、背後に児島湾の広大な干拓地を控え、ニシン粕が綿栽培の肥料として大量に必要であった。こうして下津井港には年間に50、60隻の船が寄港していた。
 従来の菜種、イグサに加えて大量の肥料(ニシン粕)を肥料とすると沢山の綿が生産され、高価で取引された。全国一のニシン粕需要地としての下津井港には、船問屋のニシン蔵が多く立ち並んだ。
 綿栽培は、砂地の塩分を少なくすると共に、現金収入になるという魅力があった。収穫された綿花は加工されて、綿糸、反物、衣服、帯び、足袋などの製品になった。こうして北前船の来航が、児島の繊維産業の発展のきっかけになったことは忘れられない。

母屋の土間には、北前船の模型がある。

金毘羅参りと民間信仰                         

2階には江戸時代以降に、下津井の暮らしと商いで使われていた用具や北前船ゆかりの品々が展示されてある。 明治18年の秋に描かれた下津井港の絵図

  江戸時代から備中、備前の海岸部は干拓が進められ、農地が拡大して行くが、塩分を含んだ砂地では稲作は出来ず、作物は限られていた。
 15世紀になると綿布が朝鮮の対日貿易の主役として登場する。三浦(サンポ)では毎年50隻の倭の貿易船が綿布(一度に数万匹も)を買い取って帰っていた。大量に輸入された綿織物は、公家や武家のあいだに広まり『モンメン』と呼ばれて珍重された。
 木綿は丈夫で耐久性にすぐれているため、戦国時代の武士たちは幕や旗差物、袴などの衣料に用いた。1549年、国内で木綿の栽培が始ったと言われている。またたく間に近畿、瀬戸内海地方でも栽培されるようになった。江戸初期には農民の着物も麻から木綿へと代わり、江戸中期になると全国各地で特色のある銘柄木綿が作られるようになった。

昔のニシン蔵を改造した『蔵ほーる(食堂)』で
下津井名物のたこを食べる。
母屋の座敷と庭

荻野美術館
 荻野家は、江戸時代の下津井の繁栄のシンボルである。金融業と倉庫業を営んで繁栄した。
荻野家の歴代の当主が集めた美術工芸品を展示してある。


北海道の鰊漁家で取れたニシンを茹でて圧縮して乾燥するとニシン粕が出来る。
北海道開拓村にある旧青山家漁家住宅−小樽沿岸でニシン漁を営んでいた。番屋、網倉、船倉、海産干場などが集約的にある。
1859年山形から渡来してニシン建網を営んでいた。 母屋の内部。
コの字型に寝台があり、60名の漁夫が宿泊していた。



 朝鮮通信使は、第7回のみ下津井港に寄港している。岡山藩の正式な接待所は牛窓だったので、下津井は悪天候など緊急的な避難港に過ぎなかった。
 第7回1682年7月20日往路六口島に、9月9日復路下津井に船懸かりしている。この様子は、東槎録によると、『7月20日午前10時に対馬島主が出発することを請い、漸く白石を過ぎ風を受けるために半ば帆を掛けた。下津井は未だ遠いが風雨が俄に起こり、船が矢の如く速く走るので慌てて櫓を漕いで山際に避難して停泊したが、すなわち六口島で人の居ない所であった。対馬島主以下各々見舞いの人を送って慰め、我らも別途に安否を訪ねた。六口は備前州に属し、此処からは牛窓まで護行の任務を担当した。』とある。また『9月9日晴れ、午前6時に室津を出立した。遥に前路を眺めると、海には帆掛け船が多く、西方から東方へ向かっていた。西風が甚だ激しく吹いて、船の速いことは矢のようであった。一瞬の間に過ぎ去って、正午になると牛窓を過ぎ、備前太守が鴨5羽と梨各1箱を送って来た。午後10時頃に下津井に着いて船上で宿った。備前太守が後を追って鯛5尾と鮑1籠、茶1器、酒2樽を呈上した。奉行たちが言って来て、何よりも重要な船の運行を相談もせずに宿を通り過ぎたことである。下津井は宿として定められていないので、停泊することは難し。深夜0時頃に出立した。室津から昼夜兼行で30里来た。午前8時に鞆ノ浦に着いた。』
 朝鮮通信使の出迎えの様子は、岡山藩朝鮮人来朝記(1719年の第9回朝鮮通信使)によると、『通信使の動向は逐一報告されるが、一行が相ノ島に入ったことが8月4日に報告されると、全員配置につく。そして8月20日鞆ノ浦に到着の知らせが入ると、119隻の船が岡山藩内の定められた場所に行く。食物を送る支給船は下津井港で待機する。船奉行は護行船団を率いて福山藩との境まで出向き、一行の船団を牛窓まで護航する。
 護航船団の編成は、正史船に44隻、正史従船39隻、副史船44隻、同従船39隻、従事官船44隻、同従船39隻、通詞船81隻、対馬藩船160隻が付き、総計845隻、船頭や水兵は3707名である。』と記されてある。



野崎家
 江戸時代後期に一代で日本の塩田王となった、野崎武左衛門の旧宅である。武左衛門は、1827年から1863年にかけて、野崎浜、日比亀浜など終生161haの入浜式塩田を開発し塩田王と呼ばれるようになった。その間、岡山藩の命により、福田新田652haの干拓事業も完成させた、その功績により1853年に大庄屋に取り立てられた。
堂々としたお成門と長屋門 表玄関にて

      表書院と庭

 敷地面積3,000坪に、3つの茶室があり、建物延べ面積1,000坪もある。これ程の豪邸を持つ商人を私は知らない。
 展示館では製塩の歴史を学ぶことが出来る。

中座敷 中座敷から向座敷まで42mもある。、


左から大蔵、書類蔵、新蔵、岡蔵と続く 後の蔵は、内蔵
 野崎家は海中に含まれる3%の塩を利用した、入浜式塩田を使ってきたが、戦後に衰退し、昭和26年には日本で最初に流下式塩田の実用化に成功した。昭和46年まで使用したが、その後は天然海水膜濃縮製塩法で製塩業を今も続けている。



鷲羽山より東は播磨灘、西は水島灘まで一望出来る。 土曜の夜は瀬戸大橋がライトアップされる。

潮待ち・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐末盧国伊都国相島赤間関・中関・室積上関沖の家室津和地蒲刈御手洗・鞆ノ浦塩飽本島下津井牛窓赤穂室津兵庫津