春の海を聞くにはが必要です
潮待ちの港
潮待ちの港 鞆ノ浦
風待ちの港
鞆ノ浦は、瀬戸内海のほぼ真ん中に位置し、関門海峡、豊予海峡、紀淡海峡、鳴門海峡を流れる潮は、干潮から満潮まで鞆ノ浦へ向かって流れ込んで来る。また満潮から干潮にかけては鞆ノ浦から潮が4つの海峡に向かって流れ出る。そこで鞆ノ浦は、大阪に上がる船も、九州へ下る船も、満潮に乗って入港し、干潮に乗って出航する潮待ちの港として2泊することも少なくなく、潮待ちの港の中でも鞆ノ浦は、最も栄えた。朝鮮通信使は12回のうち11回鞆ノ浦に立ち寄っている。大伴旅人が歌を詠んだり、坂本龍馬、隠れキリシタンの里、村上水軍が鎌倉幕府を敗る足利尊氏ゆかりの地、美しい”春の海”が作曲された風景でも有名である。しかし明治時代になると、鉄道の時代を迎え、鉄道と結ばれた港町である尾道や糸崎港が繁栄し、山陽本線から遠く離れた鞆ノ浦は衰退の一路を辿ったのであった。

赤線は朝鮮通信使の(地の乗り)航路  黄色は沖乗り航路

  むろの木歌碑
万葉の時代は遣唐使、遣新羅使等が立ち寄り、いくつもの歌がよまれている。730(天平2)年大伴旅人が太宰府の役人の任期を終えて鞆ノ浦に寄った時の歌。
 我妹子(わぎもこ)が 見し(とも)(うら)の むろの木は 常世(とこよ)にあれど 見し人ぞなき
  万葉集第3巻446

意味:妻が見た鞆の浦のむろの木は、いつまでもあるだろうが、妻はもういなくなってしまった。
対で立 つといわれるむろの木に、夫婦を重ね合わせ,人の世のはかなさを悲しみ,亡き妻をしのんだ。


宮城道雄は1894年神戸三宮に生まれた。幼くして失明し、箏曲の未知を志し独特の芸術世界を作り出した。天才的演奏家であり作曲家でもあった。ここ鞆ノ浦あたりの瀬戸内海をイメージした”春の海”は代表作として今でもお正月には良く聞く曲である。
『日東第一形勝』と讃えられる対潮楼に座して、住職の説明を聞くまた隠れキリシタンの仏像が安置されている。

 朝鮮通信使は12回来たが、第1回から第3回までは船中泊となって接待は無かった。第2回扶桑録には『乱民に等しい者なので、一行が降りるべき所でない。その言葉ははなはだ悪がしこく、嘘のようだった』と記され船中泊。第4回初て観音寺(現在の福禅寺)に宿泊し、往復共摂待を受けた。
 刷還の様子は、1617年第2回扶桑録には『9月20日晴。鞆ノ浦の前に回って停泊すると、館舎がやや遠いというので降りなかった。金と名乗る12歳の時に捕虜になって来たと言うが、一言も通じなく、ただの日本人であった。また女に故郷に帰るように言い聞かすと、これに答えて”日本人の主人がいるので帰ることは出来ません。20余年も恩を受けた人を裏切ることは出来ません”と言うので再三言い聞かせ、”恩を受けたことが、お前の父母とその軽重がどちらなのか。お前が捕虜になって来る時に、お前の父母に告げたのか。禽獣は至って無知ではあるが、鳥は古巣に戻り、牛馬も自分の家を知っており、いわんや人として禽獣にも劣るようなことがあっても良いものだろうか”と言った。この者は頑として動かないので、殺してやりたかったがどうしようもなかった。たいてい帰ろうと思う人は、やや見識のある士族や、この地にあって苦労している人であった。その地に妻子がいたり、財産があったりして、既にその生活が安定している者たちは、帰る意志が全くなく、憎むべきである。船の上で泊まる。午後10時頃、宗調興が”月が明るく順風なので、出発されてはいかがですか”とのことなので、これに答えて”将軍の令が下され、執政の文書があったために、帰ることを願う人はいるが、各地の日本人の主人たちが隠して手放さず、対馬島もまた尽力しないので、たとえこの島に久しく留まっても、ただ労するばかりで益は無いので、旅立ちするのが良さそうだ”と言って帆を張って洋上に出た。』と刷還の難しさが記されている。
同扶桑録によれば、『鞆ノ浦に到着する。民家が大層蜜しており、赤間関よりも優れていた。』と、
1636年第3回によれば、『人家は千余戸で赤間関に比べてはるかに優れていた。』とある。

対潮楼(福禅寺の使館)より眺める鞆ノ浦 弁天島、仙酔島、皇后島を望む。
 回答兼刷還使から朝鮮通信使に名称が変わった1636年第4回から、福山藩は、福禅寺を朝鮮通信使の宿舎とし、盛大な接待をするようになった。そして17世紀後半に福禅寺の境内に新しく客殿を建て、第6回1665年から使館とした。
 弁天島の弁財天の塔の上から、春分と秋分に太陽と月が共に昇る。皇后島の先端から冬至に太陽が、また夏至に月が昇ると言う。太陽暦を取り入れて建築されている。
 1665年第6回朝鮮通信使(扶桑日記、正使趙 著)によれば、『閭閻氏はこの絶景を幾千余家に向かって、この絶景を”岳陽楼、洞庭湖の絶景も及ばず”と大声で吹聴した。自分は未だ此の処を見てはいないが、漢詩などで知る限り、いずれが上下甲乙つけ難い』と絶賛している。
 また同第6回朝鮮通信使の扶桑録によれば、『福禅寺に宿所を定めたが、高く広々として明るいこと比べるべくも無く、滄海(青い海)は俯瞰して眼界が千里だけでなく、遠くは伊豫、讃岐の凡ての州と近くは尾道等の島が天の果てに隠々として雲間に明滅していた。たまたま雨が晴れた後なので、海は静かで鏡のようで風をはらんだ帆かけ船が往来し、砂の上に水鳥が飛び交っていた。、、、もし海路の景勝を論ずるなれば、正に鞆ノ浦をもって第一と為すべきであり、洞庭湖と互いに雄を争うべきものである。』と記載されている。

1711年第8回朝鮮通信使の正史趙は、ここからの景色を”日東第一景勝”(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)と讃え、従事官李邦彦に六文字を書かせた。福山藩はこの書を板に彫らせ木額にし永く寺に保存するように命じた。正史趙は歴代の正使の中でも最高級の学者であり、人物であったと評されている。この時の朝鮮通信使の三使は帰国後、新井白石による国王を日本の将軍と同格にされた責任を問われ、『辱国の罪』で処罰されてしまった。

 1748年第10回朝鮮通信使は、往路阿弥陀寺が宿所となったことに、怒りをあらわにして船中泊となったが、復路の7月10日修復し清掃された客殿に三使は機嫌良く宿泊した。正史洪は使館を”対潮楼”と命名した。そして息子の洪景海に「対潮楼」と書かせ住職に与えた。またこの時に詩文や書が数多く書かれた。
シーボルトの遺品




仙酔島 
仙人も酔うほど景色が美しいことから名付けられたと言う無人島。市営渡舟で行く。きつねが歩いている。

仙酔島(無人島)の旅館”ここから
鞆ノ浦で捕れた活鯛を目の前で儀式の後、調理してくれる。
鯛の薄造り、鯛の兜煮、鯛の吸い物、鯛めし等鯛ずくしの料理に満足
      ↑料理の臭いを嗅ぎ、キツネが2匹現れた。

 朝7時より1時間、、江戸風呂(蒸し風呂)に入り、このプライベート
ビーチの砂浜を10分走る。また別の蒸し風呂に入り、10分海で泳ぐ、
また蒸し風呂に入り露天風呂に入る。
TV,新聞もない。何か人生感が変ったようです。



         いろは丸展示館→
 1867年紀州藩船明光丸と衝突して鞆ノ浦沖へ曳航中沈没した坂本龍馬と海援隊を乗せた”いろは丸”の遺品を展示してある。

   1859年築造の常夜灯
目にしながら、帯のように延びた雁木(船着き場の桟橋に作られた階段のこと)に船を着けると、荷揚げが出来た。商船だけでなく、朝鮮通信使、琉球使節、江戸参府のオランダ商館長なども、ここから上陸し、海外の新しい文化も入って来た。

鞆ノ浦の町並み 鞆ノ浦港の常夜灯と雁木


タイムスリップしたような鞆ノ浦の町並み。 鞆ノ浦歴史民族資料館前からの鞆ノ浦を望む



大田家住宅。1672年1672年河村瑞賢が西回り航路を整備すると、北前船など多くの商船が出入りするようになった。鞆の港を囲むように建ち並ぶ商家と浜蔵、その中でも特に目を引くのが大田家の主屋と土蔵群であった。江戸時代に福山藩の専売品である保命酒、薬味酒の製造を行っていた中村家の建物。醸造倉など9棟が立ち並び国の重要文化財に指定されている。長州藩など参勤交代の西国大名の宿舎でもあり、海の本陣としての様式を整えている。
 尊王攘夷派の旗頭であった三條実美ら7人の公卿は、1863年8月18日の政変後長州を目指し、20数隻に分譲した400人を越す大船団で、8月23日の夜鞆ノ浦に錨を降ろした。その夜のうちに強風をおして上関へと出航して行った。
 翌年1864年再び京都を目指した三條実美らは7月18日から20日まで、保命酒屋(現大田家住宅)に宿泊した。一行は20日に鞆ノ浦を発ち、京を目指して21日に多度津へ入港したが、そこで蛤御門の変を知り、急遽鞆ノ浦に集結し、再び長州へと下っていった。  (大田家住宅を守る会より)
母屋入り口。

店の間には16種類の保命酒に入れる漢方薬が並べられてある。

保命酒の工場 三條実美らが泊まった部屋

大田家の雛祭。いろいろな昔話の主人公がいる。豪華だ!大広間(この部屋は鞆ノ浦ひな祭の期間のみ解放される)




 保命酒は餅米を主原料に、米麹、焼酎を原料に醸し、味醂酒を造る。これに16種類の漢方薬を使って醸造した薬酒です。1659年中村吉兵衛が藩に願い出て、”焼酎製名酒”の製造販売を始めた。1710年藩から醸造製造販売権が与えられ、鞆ノ浦の名産品としての地位を確保した。頼山陽や朝鮮通信使など多くの文人や外国使節にも愛飲された。しかし明治になり専売権がなくなると、保命酒製造業者が増加して競争が激化し、1901年大田家での保命酒の製造を終えた。

 早々に購入した。御屠蘇に砂糖と味醂を追加したような味。個人的にはオンザロックが美味しかった。


鞆の津の商家

商家の御雛様          山中鹿之助首塚
毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣山中鹿之助は、主家再興を願い兵を挙げたが、1578年高梁川阿井の渡で討たれた。静観寺に本陣を敷いていた毛利輝元は鹿之助の首実検をした

阿弥陀寺の阿弥陀如来像 阿弥陀寺のお雛飾り。四国88カ所の花押
浄土宗のお寺に真言宗の花押が不思議だ
1748年第9回朝鮮通信使の宿舎とした。その理由を尋ねられ『福禅寺が焼失した』と説明したために、嘘を知った一行は、船に引き返してしまった。奉使日本時見聞録には『今聞くに、災いに遭うという。これが為に一嘆せり、追って聞けば、この寺尚在り、倭人の巧詐不実、多くは此の如し、甚だ痛む可きなり。』と批判している。




沼名前神社(国重要文化財) 京都八坂神社の本社にあたる格式を誇り、海の守り神


       安国寺

鎌倉時代に建立され、足利尊氏によって安国寺と改称された。
1579年安国寺恵けいが再興した。廃墟となっていたが、
仏殿と仏像は国宝にしていされている。


       阿弥陀三尊像

医王寺



鞆シーサイドホテルの御雛様御膳

←鞆シーサイドホテルから仙酔島を望む   



阿伏兎(あぶと)観音
 険しい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人々の信仰を多く集めてきた。
観音堂は986年花山法皇が、このあたり一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願して岬の岩上に十一面観音石像を安置したのが開基と伝えられる。
 その後、毛利輝元が再興し、福山藩主の水野勝種によって、現在の境内の形をほぼ整えた。  海からの眺望も絶品である。↑
 第2回朝鮮通信使(扶桑録)によれば、『鞆ノ浦の手前1里余り、北を眺めると、千丈にもなる石の絶壁が半ば海中に入っており、その上に数間の精舎があって、名づけて観音寺という。僧が数人いて、寺のほとりに庵を結び、ここを通り過ぎる船があると、その度ごとに鐘を鳴らして船を待ち構え、あるいは米や銭を与えると、僧たちはこれを貰って生計の資としているという。』          
朱塗りの観音堂は、観音堂の眼下に広がる燧灘の展望も素晴らしい

阿伏兎岬にて。17世紀までは地乗り航路と呼ばれる燧灘に浮かぶ向いの田島との間の狭い瀬戸を航行していた。 魚料理が美味しい割烹旅館”あぶと本館 鯛料理は絶品、
蟹、蝦、伊勢エビ美味



男たちの大和(尾道市向島の日立造船跡地)映画ロケの為に原寸大の戦艦大和を再現した
 昭和20年4月6日出撃命令”本日此処ニ海上特攻隊ヲ編成シ 壮烈無比ナル沖縄突入作戦ヲ命ジタルハ 光輝アル皇国海軍ノ伝統ヲ 後世ニ伝エントスルニ外ナラズ。各員奮戦其ノ職ニ閃戦死セヨ” 4月6日16時00分山口県三田尻沖より沖縄へ出撃、7日午後0時32分戦闘開始。午後2時23分撃沈する。

潮待ちの港鞆の浦
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