赤間神宮

朝鮮通信使
潮待ちの港
潮待ちの港 赤間関(下関)
風待ちの港
 下関は、古くは赤間関(あかまがせき赤馬関)とも呼ばれ、これを略して馬関(ばかん)とも呼ばれた。古来より九州や中国大陸からの本州の玄関口として栄え、また山陽道(西国街道)と山陰道の起点であること、海路では近世に西廻り航路(北前船)の経由地であったことより、ここは、日本史における数々の重要な出来事に関係してきた都市でもある。
 幾度となく渡来集団が、製鉄、土木、建築などの先端技術が、また文字、仏教、律令制度などもこの海峡を通って大和へ伝わった。7世紀に長門国の国府が置かれ、遣隋使や遣新羅使、遣唐使もここを通り、そして新羅や唐の使節を迎える為に赤間関に『臨海館』が設けられた。
1185年に源平合戦最後の戦いである壇ノ浦の戦いがあり、武家政治へと転換することとなった。
 室町時代には大内氏が朝鮮との貿易を赤間関を本拠地として盛んに行い、李氏朝鮮へ使節を頻繁に派遣し、また朝鮮からの回礼使や通信使も必ず赤間関に寄港し数日間滞在していることは、1420年宗が著した日本行録、1441年には申叔舟が阿弥陀寺に詩を遺している、また1439年正史高も阿弥陀寺で題詠を遺していることから判明出来る。当時、赤間関に朝鮮人が住んでおり、日朝貿易に従事していた。
江戸時代になると毛利輝元の養子だった毛利秀元が長府に館を構え、支藩である長府藩を設立した。
江戸幕府は、朝鮮通信使の摂待を長州藩に赤間関と上関の2カ所で命じた。
1612年船島(巌流島)にて宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われた。
幕末には高杉晋作や伊藤博文らが中心となって結成した騎兵隊の活動拠点となり、1864年馬関戦争が行われた。
1889年(明治22年)赤間関市として市制施行。(日本で最初に市制施行した31市の中の一つである。)1902年下関市に改称された。
1895年春帆楼で日清戦争後の講和会議が行われ、下関条約が締結された。
1905年関釜連絡船が就航すると、朝鮮半島や中国への玄関口として活況を呈した。しかし1945(昭和20)年終戦により廃止された。
1943年(昭和18年)関門トンネルが開通すると、東京と鹿児島が直結され、関門連絡船の利用は激減していった。
1958年関門国道トンネル、関門人道トンネル開通、1973年関門橋(高速道路)が開通する。1975年山陽新幹線が開通し、山口県には新岩国、徳山、新山口、厚狭、新下関の5駅に停車する。山口県は、伊藤博文以後、岸信介、佐藤栄作、そして安倍晋三総理まで実に8人の総理大臣を誕生している。
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』下関http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E5%B8%82



阿弥陀寺→赤間宮→赤間神宮

 1185年3月24日、西へ西へと追われた平家一門は、ここ壇の浦で最後の戦を源氏勢に挑んだ。しかし合戦は、海峡の潮流を味方につけた源氏が勝利をおさめ、平家は滅亡した。御歳僅か八才の安徳天皇は二位の尼時子に抱かれて壇之浦で入水し、赤間関紅石山麓阿弥陀寺境内に奉葬された。
 明治維新になり神仏分離令により阿弥陀寺を廃し 御影堂を改めて天皇社と称せられ 明治8年10月7日勅命をもって官幣中社に列し、社号を赤間宮と定め、社殿を造営した。昭和15年8月赤間神宮と改めた。第2次世界大戦の空襲を蒙り 、全焼失したが、昭和40年4月御祭神780年大祭を迎え再建された。
       碇知盛

 今を去る8百年の昔、源平壇ノ浦の戦いに平家の大将知盛は全てを見収め、碇を背に海中深く御幼帝のお供をして、竜宮城へ旅立った。
これより『碇知盛』の名で能や歌舞伎に演じられ、勇将ぶりがたたえられている。
 このいわれを元に海参道の入口に碇を奉納し、海峡の平安を祈っている。

      二位尼辞世の句
『今ぞ知るみもすそ川の御流れ 波の下にも都ありとは』


安徳天皇阿弥陀寺陵

壇の浦合戦に亡びし平家一門の武将を祀るもので七盛塚とも呼ばれ、耳なし芳一の伝説地としても有名である。


 1185年3月24日源平最後の壇ノ浦の合戦に敗れた時、二位ノ尼(清盛の妻時子)に抱かれて入水した安徳天皇を祀った阿弥陀寺が、明治になり赤間宮となり、昭和15年に赤間神宮と改名された。
 昭和20年戦災で全焼した水天門は1958年昭和33年再建された。
 海に面して建つ朱塗の龍宮造の水天門(1958年昭和33年再建)のほか、境内には神宝を所蔵する宝物殿、平家一門を祭る七盛塚、耳なし芳一像がある




←銅印(通信符)
 大内氏が朝鮮国王から与えられた貿易印。割印で右印にあたる。
 室町時代には大内氏が朝鮮との貿易を赤間関を本拠地として盛んに行い、李氏朝鮮へ使節を頻繁に派遣し、また朝鮮からの回礼使や通信使も必ず赤間関に寄港し数日間滞在した。倭寇と区別するために、通信符(割印)を用いた。

                     日明貿易印=日本国王之印 →
 また足利義満によって始められた明との貿易はやがて大内氏の独占となった。これは、明国皇帝から与えられた印を元に大内氏が再造したものと言われている木印。倭寇と区別するために、勘合符と言う割札を用いたので、勘合貿易とも呼ぶ。
大内氏
 大内氏は渡来人、百済の聖明王の第3皇子である琳聖太子の子孫が、周防国多々良浜に着岸して、その子孫が姓を多々良、氏を大内としたと言われている。平安時代後期には、周防の実力者となる。源平の合戦にて源頼朝に味方し、鎌倉幕府御家人として活躍する。1363年大内弘世は長門と周防の守護に任じられ、山口に住居を移した。大内義弘は1391年には和泉、紀伊、周防、長門、豊前、岩見の6カ国の守護大名となり、李氏朝鮮とも独自の貿易を行っていた。大内義隆の時代には、周防、長門、岩見、安芸、備後、豊前、筑紫を領し名実ともに西国随一の戦国大名となり、大内文化が生まれ最盛期を迎えた。1551年重臣陶晴賢の謀反により、大内家は滅亡し、毛利元就により受け継がれて行く。
 1392年高麗王朝を倒した李成桂は、使節を日本に送って倭寇の取締を要請した。将軍足利義満がそれを約束すると、大内義弘は禁寇令を出すだけでなく、壱岐や対馬へも兵を出して倭寇を鎮圧した。そして1395年倭寇鎮圧の報告と貿易再開を要請する使節を朝鮮に派遣した。1404年足利義満は『日本国王源道義』の名前で使節を朝鮮に派遣し、1568年まで六十余回に及んだ(大内氏が発したものもあり、また他の守護大名も派遣した)。朝鮮では、初めのうちは回礼使を送り、1492年からは通信使を5回派遣している。
 明国とは、1404年足利義満は同じく『日本国王源道義』の名前で使節を送り、以後勘合符を持った遣明船18回派遣されている。遣明船も守護大名の手に移り、最後の2回は大内氏の派遣したものであった。大内氏は明国、李氏朝鮮との貿易により莫大な財力を誇り、山口は西の京都と言われるようになった。



朝鮮通信使

1748年の赤間関の風景である
 槎路勝区図は1748年第10回朝鮮通信使画員李聖麟が寄港地の風景を釜山から江戸まで描いたものであり30図2巻に収められている。上の絵は、私が2006年9月韓国国立中央博物館(2005年10月28日開館)に行き、1階歴史館の対外交流室に展示されていたものを写真撮影したものである。

 1719年第9回朝鮮通信使(対馬藩真文役雨森芳洲や『海游録』を書いた製述官申維翰も随行)は、『8月10日未明、相ノ島を発ち、次の寄港地赤間関へ向かった。先導を努めるのは長州藩の案内船三隻で、相ノ島から小倉藩領までの海上には、黒田藩の海上警備船五十一隻、浦小舟二十隻が配置され、三百十六隻の各種船が通信使一行の船団に付き添う。ところが一行が地島、鐘崎を過ぎて間もなく、強い東風に出会う。東風がまともに吹き付け先へは進めないらしく、やむなく地島へ引き返した。しかし地島は僅数十戸の寒村で、宿泊施設はない。船に7日間留まらざるを得なかった。相ノ島から毎日御馳走の品々を毎日欠かさず送り届けることの方が大変だった違いない。8月18日の早朝一行は再び赤間関へ向けて船を出した。やがて小倉城が右手に見え始めると、小倉藩の船団が現れ、相ノ島からの黒田藩護衛船団と交替した。小倉を過ぎ、巌流島(船島)に近付くと、長州藩の迎護船団が待ち受けていた。藩の出迎え役人船や水路案内の指揮船、警護船や曳舟百二十隻の大船団である。長州藩は船島から上関まで護衛する任務が負わせていて、そのために徴集した船は六百十隻、人員二千九百名を越えた。赤間関と上関の摂待要員を加えると五千名の大部隊である。赤間関で5日間を過ごした一行は、8月24日の夕方、出航し折からの西風を利用して一気に三田尻迄進み、西浦に船を泊めて一泊した。翌25日も順風だったので、通信使船と対馬藩の諸船および長州藩の護衛船など1千隻の大船団は、飛ぶような早さで徳山、笠戸沖をかすめる、上関には日没前に着いた』と、海游録に記してある。

左の赤い建物の手前が赤間関の雁木が残っている。 この雁木を通って上陸した

 『朝鮮通信使上陸港留の地』の碑

 朝鮮通信使の摂待と警護は長州藩(萩宗藩)領の上関と長府藩(支藩)領の赤間関であった。また客館は赤間関は阿弥陀寺、上関では藩の公館である御茶屋が当てられた。
 なお毛利氏は36万石の大名であったため幕府から費用の下付はなく、全て自藩で賄わねばならなかった。長州藩の威信にかけてその摂待に当たっていた。1711年の接待時においても、客殿の修築、饗応、延べ9700人の藩士民の動員、1400隻の船舶の徴収など多大な財政支出を行っている。この時は『長門赤間関御馳走一番』と宗対馬守が幕府に注進している。
 通信使一行は、三使と上官は阿弥陀寺、中官以下は引接寺、先導役の宗対馬守は本陣伊藤家に分宿し、饗応は阿弥陀寺で行われた。
 通信使の目的の一つは日本の国情探索であったため各使節の記録には当地の地理、市街の様子、客館での接待等が詳細に記載されている。1719年第9回朝鮮通信使『海游録』には申維翰が、『使館の北には壮麗な弥陀寺があって、ここはかって前の使行が館した所である。寺の傍らに安徳天皇廟がある。廟宇は狭小にして、中には塑像を奉じている。安徳はすなわち5百年前の天皇である。頼朝が兵を上げると、清盛は敗走し白河后は安徳帝を負うて逃げ、この地にいたり、海に赴いて死んだ。安徳ときに8歳。国人はこれを憐れみ祠を建てた。今なおその遺像があり、前の使行のときは皆目撃しているが、今は邦禁ということで、入って見ることが許されない。思うに、その意は、皇廟とはいうものの、恥ずべきことである故に、これを禁じたのであろう。かつこの事を隣国に聞かしむべきでなく、これを憚るのであろう。』と記してある。また赤間関の地理、軍事に着目し、鎖国制度堅持のため赤間関に設置されてある唐船打ち払いのための軍事施設の様子も詳細に記録している。
 しかし回を重ねると、両国の文化交流の場となっていった。そのために通信使の来日を最も歓迎したのは、学者、文人、医師などの文化人で、通信使が到着すると客館で詩文の唱和を求め、書画を求め、筆談によって韓国文化を学んだ。通信使との交流により、防長の文化人(特に藩校明倫館の儒学者たち)は、藩内の儒学の興隆に貢献し、山田原欽、山県周南などは韓国までも高名が知られていた。通信使と最も活発に交流し、文化を享受した藩は、長州藩であったと記されている。



巌流島
 関門海峡に浮かぶ巌流島、正式名称は「船島」。この島で、慶長17(1612)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。


関門海峡の長州砲
長州で製造した大砲で、砲身3.56m,口径20.0cmと原寸大に復元された。
 文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって砲撃した(攘夷戦)。翌年8月4日、英仏欄米の四カ国艦隊が、前田沖に集結。世に云う「下関戦争」が始まった。近代兵器の威力の前に、長州の武士は為すすべもなく、6日には、英国海兵隊1400、仏国兵350、阿蘭陀兵200が前田に上陸。茶臼山、前田、壇ノ浦一帯の砲台を占拠、破壊。彦島の砲台も砲撃。8日、前田、彦島の砲台から砲を捕獲。午後、高杉晋作らが休戦協定を締結した。  
 これを契機に外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現す原動力となりました。


春帆楼
伊藤博文と清国李鴻章の両国代表が和議交渉を行い日清講和条約が締結された春帆楼   と日清講和記念館

     上は伊藤博文と陸奥宗光の像
ふくの碑
 遠く2千年の昔弥生時代の遺跡から食用のふくが発見され、平安時代より多くの文人、墨客の筆や歌に書き残されている。豊臣秀吉がふくの禁止令を出して以来明治に至まで、武家社会で食することを禁じられてきたが、伊藤博文公が来関の折、ふぐ料理の美味に感じ、時の条例を不粋として廃止させ、一躍下関が本場として名を高めることとなった。



1906年(明治39年)完成した旧下関英国領事館
赤煉瓦の姿が美しい。2階南側ベランダ、3つのアーチが連なっている。

下関
潮待ちの港・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐末盧国呼子伊都国相島赤間関室積上関沖の家室津和地蒲刈御手洗・鞆ノ浦下津井塩飽本島牛窓赤穂室津兵庫津