朝鮮通信使 潮待ちの港
潮待ちの港 ソウル
風待ちの港
 和服を着ての韓国旅行は、風当たりの強い旅行となった。和服を着て行くと反日感情を逆なでして、酷い目に会わされると言う忠告もあった。
 秀吉の朝鮮出兵をどう思うか?の質問に軽い気持ちで『良いことだとは思っていない』と遠慮がちに答えると、日本人はそれで済ませられるのかと、日本の教科書は歴史認識が間違っている、日本人は歴史についてもっと勉強しろ、小泉総理の靖国参拝は、A級戦犯を敬い戦争を肯定するものではないか。漢字や仏教など日本文化は全て朝鮮が教えたものではないか!朝鮮通信使は、多額のお金をかけて日本に朝鮮の文化を教えてやったではないか!ペリーにされたことと同じことを朝鮮にして、韓国を植民地化したではないか!日本より開国が15年遅れた為に、韓国は今日本より15年遅れている。 日本の植民地にならなかったら、韓国はもっと発展していたのだ!などと相手が控え目な発言をすると、感情的に言いたい放題まくし立てる。
 李氏朝鮮の悪政(富の集中と文盲率の高さ)と儒教による思想や国粋主義がこの国の発展を遅らせたのではないか?朝鮮通信使は釜山から漢城まで約2カ月もかかっている。小西行長は釜山から漢城まで20日で攻め上っている。ほとんど戦闘なく進軍したことが伺える。武官を冷遇し、民は李氏朝鮮に対して不満を持っていたからではないか。元寇では高麗軍1万が先頭になって壱岐、対馬そして北部九州を襲撃し、壊滅的打撃を与えたではないか。寺院や宮殿の説明書には、秀吉の朝鮮出兵により焼失したと記載されてあるが、日本軍は寺院や宮殿を焼き払うより宿舎として使ったはずであり、破壊したのは蒙古(元)軍と李氏朝鮮の尊儒廃仏政策による徹底的な仏教寺院の破壊を行った朝鮮人自身である。第2次世界大戦までは、世界中の弱小国は欧米の植民地であった。日本に併合されなかったら、欧米の植民地になっていたのだと言いたくなる。日本は過去を反省し、対朝鮮の国家賠償も済ませている。今後は相互が協力し、世界平和と産業の発展に貢献することが大切だと思う。問題なのは、異なった価値観の世界を絶対に許そうとしない頑くなな姿勢ではないだろうか?こんな国には2度と行きたくないと言うのが今回の旅行の感想である。
 李承晩政権下の酷い反日教育を受けていない若い人は、日本を理解してくれた。生まれて初めて着物を見たと言う人が殆んどだった。近くて遠い国だ。
 371年百済は高句麗の平壌城を攻め、都をソウル[漢山城)へ移したが、475年には高句麗にソウルを奪い返された。以後百済の都は、熊津城(公州)へ移し、538年には泗沘(しび)に都を移し、泗沘は唐新羅連合軍による百済滅亡の660年まで都であった。663年人質として倭国に滞在していた太子豊璋王を擁立し、阿部不比等が率いる倭国軍は白村江(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)で戦った。このとき倭国軍 42,000人、倭国船舶 800余隻、百済軍 5,000人に対し唐軍 7,000人、唐船舶 170余隻、新羅軍 5,000人であったが、倭国連合は敗退した。

 朝鮮通信使とは、室町時代(3回)から江戸時代(12回)にかけてのもの全てを指すが、一般には、狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。
 江戸時代の朝鮮通信使は、戦後処理から始まった第1~3回は回答(幕府の使節派遣に対する回答)兼刷還使(秀吉の朝鮮出兵の時、連れて来られた捕虜約7万人を連れ帰る)と云われ、日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜(朝鮮の言うように捕虜ではない。殆どの人は李氏朝鮮の政治と生活に不満をもち、帰国する日本軍に付いて来たのだ。帰還する日本兵を上回る朝鮮人が日本に出稼ぎに来た。)を朝鮮に連れ帰るのが主目的と日本の国情探索が目的であった。儒家(日本では日本語が喋れず、考え方が違い役に立たなかった)はほとんどが帰国したが、陶工の多くが日本に留まったとされる。これは当時日本で一国ほどの価値があるとされた茶器や陶器を作り出す陶工を大名が庇護の下、士分を与えるなど手厚い待遇をしていたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想によって職人に対する差別があったことが原因である。また、朝鮮にとっては、女真族が急激に勢力を伸ばしつつあり(後に、女真族は中国において「明」を滅ぼし、「清」を建国する)南北から挟撃されてはたまらないので、南方の日本との関係を修復することが、自国を防衛する上からも、また日本の内情を探索し、日本の動きを正確に知る為にも、日本との早期国交回復が望まれた。
 徳川家康は、幕藩体制の確立には諸外国との対立を避け、朝鮮に徳川幕府を認めさせることが安泰に繋がると考え、対馬藩に交渉を委ねて日朝関係の安定を図った。
 同年、国交回復を祝う日本側の使節300余名が派遣されたが、漢陽への上京は認められず、釜山浦にて応対された。
 朝鮮通信使は、1607年から1811年まで12回来日した。第4回(1636年)からは将軍の就任祝賀(韓国が嫌うが明らかに朝貢である)を目的としたものになり、通信使(信義を通じるの意)と呼んだ。



昌徳宮(チャンドックン)
 朝鮮王朝第3代・太宗王が1405年に建立した離宮。文禄、慶長の役で焼失し、1607年第14代王により再建が始められ1610年に竣工した。1623年第15代・光海王を廃位させる内紛で殆んどの建物が焼失し、1623年に再び復旧された。その後も何度が火災に会い、1917年に焼失した際、景福宮から移築したものである。約270年にわたり王宮として使われていた。

正門の敦化門は、焼失を免れて、世界遺産に登録されている。 仁政門。 1時間30分の日本語ガイド付き入場料360円

 新しく将軍が立つと、幕府の意を受けて対馬藩主(宗氏)は、朝鮮国に対し大慶参判使を送って将軍襲職を報告し、続いて修聘(しゅうへい)参判使を送って、通信使の派遣を要請する。
 朝鮮ではその可否を検討し、礼曹参判(外務省次官クラス)の書翰を送り、三使をはじめとする構成メンバーの人選、祝賀の貢物や各地藩への土産や書簡の準備、船の建造ないし整備などに取り掛かかるが、中国への使節に比し、野蛮なと思っている日本使節を希望する人は少なく、人選は難航した。一行の人数は、毎回300~500人の大使節団になり、李朝朝鮮政府が選び抜いた優秀な官僚たちで、随行員には美しく着飾った小童・その芸に秀でた楽隊・画員(絵師)・武官・医師・通訳などが加わっていた。一行は正史船、正史従船、副史船、同従船、従事官船、同従船の6隻で半年間異国を旅するので、その準備は6カ月~3年を要する大事業だった。

仁政殿、ここで外国使節の謁見や朝賀の礼などが行われた。 秘苑。
朝鮮通信使は、ここ昌徳宮で国王に旅立ちの挨拶をし、慰労の宴があり,馬の鞍及び羅針盤を賜り出発した。



宗廟(チョンミョン)
儒学を統一思想として建国した朝鮮王朝歴代の国王と王妃を祀った廟で、景福宮の建設と平行して造られ、1395年に完成した。1592年の文禄の役で焼失し、1608年に再建された。
 1604年8月20日、朝鮮から僧惟政(松雲大師)らの探賊使一行が対馬に来て交渉した。対馬に4カ月留まり、韓国と江戸に使者を出し許可を得て、翌年宗義智は僧惟政(松雲大師)らを伴って京都聚楽第へ案内した。徳川家康は二代目将軍の秀忠と共に会見し、和解のための話し合いが行われた。僧惟政松雲大師はこのとき秀吉軍によって捕虜となっていた1390名を朝鮮に連れ帰ること(日本に憧れて付いて来たが、役に立たない人たちを強制送還)に成功し、国交回復に対する家康の意思を帰国後に朝鮮国王へ伝えた。
 しかし、日本に対する警戒心は根強く、1606年7月朝鮮国王は2項目の要求を、国交回復の命を受けている対馬藩に要求した。第1は戦争中にここ宗廟を荒らした犯人を差し出すこと、第2は2度と侵略をしないことを誓う家康の国書を送ることの2項であった。日本側から先に国書を送ることは、当時の外交慣習からすると日本側が降伏したことを意味し、この条件を幕府は呑まないと対馬藩は判断した。対馬藩は内密に家康の国書を偽造の上、11月偽造した国書と共に対馬藩の重罪人3人を犯陵賊の犯人にして使節を釜山浦に送った。

正殿
 廟庭には草木を一本も植えていない。時の流れを無言で語りかけるようだと言うが。殺伐とした雰囲気を醸し出している。
           永寧殿
 祀る位牌が多くなり、1421年正殿の隣に建立した。

                    
               
 1395年に景福宮を完成させた李太祖は、次に都を守るための城壁作りに取り掛かった。総延長18Km,高さ12mの城壁が完成したのは1397年。城壁には4つの大門と4つの小門が設けられた。
東大門 南大門
 街を取り囲む城壁に設けられた4つの大門の一つで、宝物第1号に指定されている。南大門より1年早い1398年に完成し、裏の正門として利用された。現在のものは1869年再建された。  1399年完成した南大門は、崇礼門といい、正門として機能していた。、宗主国中国の使節は必ずこの門から入城した。。文禄の役では、加藤清正もこの門から攻め入った。
 昌徳宮で旅立ちの挨拶をした朝鮮通信使の一行は、第1回は裏門にあたる東大門から、それ以外は南大門から出ると、領議官(総理大臣)主催の歓送宴が政府高官も参席して盛大に行われた。翌日漢江の渡場で、家族や友人などの見送りを受け、別れを惜しみながら対岸に渡り、陸路釜山へ向かった。
 対馬藩は、出迎えの使者を釜山倭館へ送り、倭館で一行を迎接した。永嘉台で海神祭を行い航海の安全を祈り、風向きの良い日を選んで釜山を出航した。
 行く先々での応対は各大名が受け持ち、一行の案内、警護役は往路・復路ともに終始対馬藩が担当した。江戸城へ登城し、将軍に謁見して、国書を交換した。
 往復には半年から265日の苦難の旅だった。

1818年第12回朝鮮通信が交わした国書。    朝鮮国王李国書(上)。  日本国徳川家斉国書控(下)




韓国国立中央博物館

朝鮮通信使のコーナー

 朝鮮通信使には毎回必ず1名、時には2名の画員が随行した。彼らは朝鮮を代表する画家ばかりである。槎路勝区図は1748年第10回朝鮮通信使画員李聖麟が寄港地の風景を釜山から江戸まで描いたものであり30図2巻に収められている。
1748年の上関の風景
1748年の赤間関の風景

         下は、朝鮮通信使の行列の人員を描いている。

その他の展示品
三彩馬(中国) ↑金製冠飾(百済室)
国宝 155号
半跏思惟像
(はんかしいぞう)
日本の弥勒菩薩に似ている?全く似ていない。金銅製である。

仏教は、538年百済から日本に伝る。
←鴨形土器
 
     →新羅金冠

    乾漆仏頭
 韓国では国民の僅1/4が仏教、1/4がキリスト教、残り半分が無宗教である。何故だろうか?
 17世紀初頭明国が清国に倒されると、朝鮮人は、”礼の国は我のみ”とかたくなになった。道教は異端視され、仏教は山の中に閉じ込められ、朱子学のみが絶対となった。
←6世紀後半の半跏思惟像、国宝第83号
 広隆寺の弥勒菩薩(603年)は、右手を軽く右頬に触れて思索する静かなまなざしで、見下ろす清楚な顔、人の心を和ませる優しさがある。
 この仏像には、人の心を和ませる優しさは感じられない。
9mの屋外儀式用仏画 百済金銅大香炉




景福宮
 高麗王朝の軍人であった李成桂は、クーデターで政権を奪取し、1392年王位についた。1389年国号を朝鮮と改め、1394年に中京(開城)からこの地に遷都し、地名を漢城と改めた。遷都後の最初に建てた建物が、宗廟と王宮の景福宮であった。東西南北に勇壮な門が立っている。1443年に創製したハングル文字の解説書はここで交付された。1592年文禄の役で殆どが焼失した。その後放置されていたが、1868に再建された。1910年日本が朝鮮半島を占領すると、ここに朝鮮総督府を建てたが、1995年に解体されて、今は無い。
正門(光化門)。純韓国様式の楼門 内部には王座が残されている。

興禮門 勤政殿。正殿で1867年の再建。国王の即位式や朝賀の礼、外国使節の謁見が行われた場所。

 第4代国王世宗は、1443年ハングル文字を完成し、『わが国の語音は中国とは異なり、漢字と噛み合ってないので、愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多い。予(世宗)はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に学習でき、また日々の用に便利なようにさせることを願ってのことである。』と言い、全国に公布した。また世宗は『モンゴル・西夏・女真・日本・チベットなどは漢字と併用する文字を持つが、これらはみな未開人のなすことであり、言うに足るものではない。』と述べて、集賢殿内の新進の学者らに命じて1446年に訓民正音の名でハングルを頒布することとなった。儒学者たちには軽視され、その後も長らく公文書には漢字が使われていた。
 しかし戦後は学校で漢字を教えない。固有の文化の尊重と保存を名目としたナショナリズムで、街中からも新聞、テレビからも漢字が全て消えてしまっている。ハングル以外、漢字が読めない人が多い。この国の若い人は、自分の名前や住所さえ漢字で書けなくなってしまっている。これほどに外国文化を忌み嫌うべきだろうか。仏教も排除!
 日本では、中国から伝わった外国の文化だと言う理由で、漢字を廃止して『ひらがな』のみの文章には、なり得ない。
 中国が悪い、日本が悪い、自国のみが優れている。他国の文化は排斥する、日本の文化は全て朝鮮が教えたものだと公言して憚らない等、理解に苦しむ国だ!良いものは取入るべきではないだろうか?



新羅(シーラ)ホテル

                         韓国最高のホテルだ。
  小泉総理は2002年3月22日ここ韓国新羅ホテルで次のように挨拶ををしている。『中近世になって、韓国の文化の高さを日本に知らしめたのは、15世紀から19世紀の長きにわたって続いた朝鮮通信使でした。 江戸時代には、朝鮮通信使が江戸まで往復する六ヶ月の間、各地で日本の儒学者や文人、画家、医者などと交流し、当時の我が国の文化人や庶民達に大きな影響を与えたのです。
 このような朝鮮通信使と触れあった一人に対馬藩の儒学者雨森芳洲がいました。当時の日韓両国間には、友好関係を欲しつつも、豊臣秀吉による戦乱の影響から、互いに対する不信感が色濃く残っていました。そうした中で、朝鮮通信使の応対に努めた彼は、通信使と議論をたたかわせつつ、最後には互いに別れがたい関係を築いたのです。
 彼は、35才の時から3年間釜山に滞在し、韓国語を始めとして、韓国の歴史や風俗を深く学びました。こうしたなかで、彼は、民族固有の文化のもつ価値を深く知るようになりました。そして、互いを尊重しあい、信頼関係を大事にする「誠信の交わり」こそが韓国に対する基本であると確信するに至りました。このような姿勢こそ、今日の我々が学ぶべき姿だと言えましょう。 』。




大長今テーマパーク
 ソウルから車で1時間の所にあるテーマパーク。ここで宮廷料理人の頂点を目指した女官時代を撮影した所
 このドラマでは、宮廷だけにしろ、病気に対する食事療法がこの時代にあった事には驚かされる。
 しかし身分差別が酷く、富は王家と悪徳の文官チェ一族に集められ、庶民は文盲で奴隷のような生活だ。このドラマは、腐敗政治の典型例を描写している。同時代の日本では町人文化が花開いていた。
 また武官を低い身分にしていたことが、常に外敵に攻められ、占領されたのではなかろうか?この反省から現在の韓国では徴兵制度を採用しているのではないだろうか?そして日本に対しては、靖国神社=戦争に結び付けて過剰な内政干渉をしていると思われる。
ホテル送迎で、昼食付き、ガイド付き、高級車?で6時間二人で10万ウオン(1万2千円)。

水刺間
(スラッカン、王の食事の厨房)
ハンサングンとチャングムが出迎えてくれる。 萩焼そっくりの陶器

和服の上から着た為、お腹がですぎたミン・ジョンホとなった。
 朱子学(儒教)以外の仏教、陽明学などを異端と決めつけて排除した。単一の価値観しか許さない社会は、どの時代においても人間の創造的活力を奪い、社会の発展を阻むものだ。李氏朝鮮後半期に最も顕著に現れた。産業が敗退し経済が破綻しても、他の良さに目を向けようとしない。ヨーロッパの新技術は人々を惑わす『邪術』として排除し、目上には尊敬し絶対服従する。朱子学が朝鮮を『井の中の蛙』にしてしまい、激動する世界に対応出来ず、植民地へ転落していった。この思想が現在も、韓国人には生き続けている。
 作り酒屋は日本では当時景気が良かった。しかし貧富の差が激しい李氏朝鮮では貧しい。
 奴隷があったとガイドが説明する。 日本では646年大化改新の詔で、私民(奴隷)が廃止され、公地公民となった。
カン・ドックの家(酒屋)-日本の牛小屋のようだ




食 事
        アワビ粥
右上を混ぜると下のようになる。
アワビはどこにあるのか分かりにくいほど小さく少ない。

アワビ粥の作り方は料理のページを参照

石焼きビビンバ。左をスプーンでよく掻き混ぜると右のようになる。 ネンミヨン(冷麺)

          海鮮鍋

 唐辛子の多いこと。チャングムの誓いでは唐辛子は使っていない。
 唐辛子はメキシコ原産で征服者のスペイン人がヨーロッパへ、やがてアジア、日本に入ってきた。
 1616年頃対馬藩が唐辛子、煙草、胡椒等の種子と栽培方法を朝鮮に教えたのだ。そして朝鮮人の食生活に大変化が起きた。キムチの防腐剤としてまた旨みを醸し出している。

    骨付きカルビの焼き肉
コリアハウス(民族芸能とレストラン)
韓国の宮廷料理を基本とした伝統料理 帰りに踊り子との記念撮影(公演中は撮影禁止、残念)

色彩感覚の違い
 チマ(下衣)チョゴリ(上衣)の色は、日本では見かけない鮮やかな原色である。赤色と緑色、水色と桃色、若草色と山吹色、青色と黄色など日本人が着ていない、着られない色が多い。
 日本では、平家物語の鎧・兜や信長、秀吉の陣羽織を見ると鮮やかな原色が見られるが、日本人が考えた『わび、さび』の世界観が広がり、落ち着いた上品な深みのある織物が主流を占めるようになった。呉服(呉の国の服)を現在の振袖、色留袖などの和服に発展させたのは、日本人自身であった。そして和服は世界の中で最も美しく格調高い、日本独特の服装となった。日本人は外国文化を受け入れ、創作して、日本独特の文化に発展してきた。
 日本の文化は全て教えてやったと韓国人は言うが、兄は停滞し、教えてやった弟が努力して立派になった妬みに過ぎないのではないだろうか?
 でもkorean airの色彩は優しく奇麗ですね。特にLAX午前0時LAX発、仁川午前6時着、9時福岡着は大変便利です。JALとANNはLAXでの前泊と成田での後泊が必要なので不便だ。

伝統料理 扇の踊り


日本人と朝鮮人の歴史認識の相違
 韓国人には、日本人より我々が文化的に優位だとする認識が古くからある。漢字も仏教や儒学も百済から伝えられ、その他金属器や陶器の技術も朝鮮半島から伝えたことは事実である。中国の明が滅びてからは、唯一の儒礼の邦として自賛し、日本を蕃国と蔑視する風潮がある。兄に当たる中国には従うが、弟である日本は韓国に従うべきだとするのが儒教(韓国)精神だ。よって中国による度重なる征服は忘れられるが、秀吉による侵略や日帝支配は許せない。そして日本は、原爆を落とされた米国を恨まず、仲良くしている不思議な国だと韓国人は思っているようだ。
 かって朝鮮半島は文化的に日本の上にあったのではなく、文化、文明の通り道としての順番が先だったと言うことでしかないと思う。日本は海外から来る良い物を積極的に受け入れ、日本的な代物に作り替え、さらに純度の高い物を作り上げて行く体質が培われていた。かたや中華思想に染まった朝鮮半島にすれば、日本からの逆流して来る文化を軽蔑し拒否し続けていたから、いつまでたっても中国のミニチュアから抜け出せなかった。
 仏教では死ぬと罪が許されるが、儒教ではいつまでも罪を許さず、強い者や目上には無条件に服従する。
    A級戦犯?は敵国の処刑により命で罪を償っている。日本人の精神、文化は、譬え罪人であっても死ねば
    神や仏として祀る。しかし、中国や韓国人は、墓を暴いて死者をなお鞭打つ精神構造である。
 韓国人は、相手がひくと、謝罪要求を続ける。要は、歴史の罪をいつまでも科すことによって
    関係の優位性を確保し、あわよくばその見返りを要求する卑しさの表れと思う。

 年配の日本人には、日本書紀の歴史観により、古代から朝鮮諸国は日本に朝貢したという認識で、朝鮮を蔑視する思想があった。通信使が来た頃の儒学者の中にも山鹿素行等、日本を中華とする学者もいた。侵略を受け自力で歴史を作る能力のない国、そのために停滞、落後し、文化的に言えば中国文化の模倣しか出来ないつまらない国といった印象を持っている人が多かった。
 私の年代の日本人は、李承晩ラインと北朝鮮のラジオやTVニュースが、信用出来ない国という印象を作り上げた。韓国でも李承晩政権で教育された人は反日、抗日を教育され、かたくなに日本を恨んでいる。このような歴史認識の相違が、相互蔑視の根底にあるようで、その認識のずれが現代まで尾を引いている。
 
相手蔑視の精神構造は
 韓国では、『一番腹が立つのは、従兄弟が美田を買ったとき』と言うそうだ。一番親しいはずの隣人や従兄弟が一番対抗心を燃やすものらしい。
       漢字については
 朝鮮のハングル文字は前述のとおり、文盲が多いので分かりやすい28文字を作り、公布したのが真相であるが、現在は固有の文化の尊重と保存を名目としたナショナリズムで、街中からも新聞、テレビからも漢字を全て消させている。単一の価値しか認めず、他国の良さを認めようとしない不思議な国だ。
 日本では、漢字と日本独自のひらがなを抵抗無く使っている。誰も中国の漢字を忌み嫌い、廃止するなど考えてない。外国文化と言う理由で排除するなどあり得ない。良いものは、どんどん取入て行く。
 SOULソウルには漢字がない。京城という地名は、日帝時代(と彼らは言う)に日本が付けた屈辱的な名前だと言い、昔の『漢陽』とか『漢城』にせずに、わざわざ漢字のないソウルと名づけた。自国こそが優位だという中華思想を未だに持つ理解に苦しむ国だ。
    靖国問題について
 戦いとは、いつの時代でも勝てば英雄視され、戦争責任も戦犯も生じない。負ければ犯罪者と最初から裁判は決まっている。李成桂も高麗の軍人であったが、戦いに勝ったが為に1392年李氏朝鮮の初代王となった。負けておれば反乱軍の首謀者として韓国一の極悪人となっていたことだろう。A級戦犯?もしかり、A級戦犯と判決したのは我が国ではなく連合軍なのだ。彼らは処刑による命で償った。我が国では、死ねば神や仏として祀る。
 これを墓を暴いて死者に鞭を打てとか、、靖国に参拝すると戦争肯定だと騒ぎ立てる中国、韓国。我が国民は、『2度と戦争はしない。例えいかなる迫害危害を加えられようとも耐え忍ぶ』と決意している。李承晩ラインの存在した時も、無謀な韓国に苛立ちを覚えながら堪え忍んできた。歴史の罪をいつまでも科すことによって、その見返りを要求する卑しさの表れと思う。
 過去近隣諸国に被害も迷惑もかけてこなかった国家がこの地球上のどこに存在するのだろうか?個人も国家も間違いなく周囲に何らかの被害や迷惑をかけて今日に至っている。我が国は、中国にも韓国にも幾度も謝罪をし、それなりに代償は済んでいる。それでも彼らは、『反省が足りない』と永遠に頭を下げさせて自らの優位を狙っている。この現実を国民が目覚めることと、我が山口県出身の安倍新総裁には、毅然とした態度で対処してして欲しい。。



 韓国人は、一度も外国を侵略したことがない。いつも中国を始め蒙古、日本など近隣諸国から侵略を受けて来た。
 そして強い国(侵略の危険を感じる国)には朝貢の礼をとり、従うが、相手が弱くなると要求を拡大する国である。中国に対しては常に中華思想を持ち朝貢をして来た。日本に対しても、任那が滅ぶまでは王子を人質とし毎年朝貢をしていた。奈良時代にも新羅使をして朝貢をしていた。江戸時代の朝鮮通信使も表面は対等だと言うが、朝鮮からの一方的な徳川将軍襲賀の使節である。これは新井白石の言う朝貢であろう。戦後日本が軍備を放棄すると、李承晩ラインをはじめ数々の要求をして来た。また昨今の北朝鮮の核開発に伴う要求と6カ国協議への無条件復帰を見れば、韓国の国民性が明らかとなる。
 李進熈著の江戸時代の朝鮮通信使には、『朝鮮については、たえず侵略を受け自力で歴史をつくる能力のない国、そのために停滞、落伍し、文化といえば中国文化の模倣しかできないつまらない国、といった像を作り上げねばならなかった。停滞史観や満韓一体史観、他律性史観などがそれである。そうして”明るい日本”と”落伍し、暗く殺伐な朝鮮”史像が学校教育や新聞、映画を通して国民に教え込まれた』と記されている。日本では韓国の歴史を教えていないのが現実であり、韓国ではこのような教育が日本ではなされていると教育されているのである。
 韓国から歴史認識をしろと言われる前に日本人は、歴史を知り、韓国を分析すべきだと思う。そうすれば、毅然とした態度が取れると思う。欧米は勿論、オセアニアやイスラエルも旅行したが、このような怒りを感じた旅行は初てである。
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