名護屋城
元寇と秀吉の朝鮮出兵
風待ちの港
潮待ちの港 呼 子
風待ちの港
 モンゴル高原に現れたチンギス−ハンはモンゴル民族を統一し、ヨーロッパからアジアにまたがる大帝国を建設した。さらにその孫フビライは、1231年から約30年間、高麗に侵入した。高麗は、開城から江華島に遷都し激しく戦ったが、1259年蒙古に服属し、王子を人質として差出した。1268年高麗の使者がフビライの国書を持って太宰府に来るが、鎌倉幕府は無視した。蒙古に反抗する反乱者は済州島に移って徹底抗戦したが、1273年鎮圧された。翌年1274年高麗軍1万を先頭に元軍2万が対馬、壱岐を全滅させ、肥前松浦地方に来襲し、博多湾に上陸した。1281年朝鮮半島から出た4万の東路軍が博多を攻撃しがら、日本軍によって上陸を阻まれると、壱岐や松浦地方を攻撃した。松浦党は、博多湾の石築や壱岐と呼子唐津での戦いで活躍した。そして到着が遅れた10万の江南軍が加わったが、暴風雨のために壊滅的な打撃を受けて敗退した。
 このように元寇の役では、呼子は多大な被害を被った。



風の見える丘から眺める呼子大橋と名護屋城跡

右:名護屋城跡から見る壱岐の島。
古代の人々は釜山、対馬、壱岐、末盧国と有視界航海をして往来していた。



左:律令国家が完成すると大和から山陽道、そして太宰府から壱岐、対馬への西海道が整備された。呼子は松浦郡の終点であり、大陸への入口がこの殿浦を中心とした呼子港であった。古代から風待ちの天然の良港として栄え、中世には松浦党の有力な根拠地となった。


右:縄文時代から、倭人は呼子、壱岐、対馬、釜山を有視界航行して交流していた。
50km間隔である。



呼子の朝市
日本三大朝市の一つ。

名物の”いかと伊勢海老の生き造り”は美味しい。孫たちはこれが目的でついて来る。



田島神社
 全国的にも古く、九州最古の神社であるとして知られている。奈良時代の天平10(739)年には神号が与えられ、遣唐使はここで航海安全を祈願して唐へ渡って行った。

 1400年程前、天皇は大伴狭手彦を総大将として朝鮮半島の新羅という国に出兵を命じました。その折、松浦の里(現在の厳木町)の長者篠原の屋敷に滞在した折、娘の佐用姫と恋に落ちました。しかし、狭手彦は船出し佐用姫は加部島の天童岳の頂上から見送り、くる日も、くる日も玄界灘のかなたを見つめ悲しみに暮れ、ついには望夫石(ボウフセキ)になってしまいました。この望夫石を奉ってあるのが佐用姫神社です。(田島神社より)





名護屋城跡
 名護屋城は、今から400年程前、全国平定をなしとげた豊臣秀吉がさらに朝鮮半島、明国(今の中国)へ向けて出兵(文禄、慶長の役)するため、その前進根拠地として築かせた城である。築城は1591(天正19)年後半に始まり、諸大名による割普請によってわずか数ヶ月で完成したといわれている。面積は約17ヘクタールで、当時では、大坂城に次ぐ規模であり、金箔を施した豪華な天守閣は、まさに天下人の城であったことを表している。現在でも立派な石垣が残り、当時の面影を伝えている。

ここに天守閣をはじめ多数の櫓や御殿が建ち並んでいた。秀吉は能や茶の湯といった文化を持ち込み茶会を催していた。

Q1.慶長の役では、7万人もの朝鮮人捕虜を連れて帰ったと言われている。本当に7万人もの捕虜を拉致出来たのであろうか?
 慶長の役は、1598年6月秀吉の死によって日本軍の撤退をもって終結した。12月までの短期間に急遽撤退したが、このような状況の中で、撤退する兵士より多くの捕虜を連れ帰ることは不可能であろう。李氏朝鮮では捕虜と云うが、真実は朝鮮人が希望して夢のある日本へ進んで来たものである。 出稼ぎであったり、新天地を求めての移住であったのではなかろうか?だから刷還使が努力しても、帰る人が殆いなかったのが現実である。

 名護屋城は、もとは松浦党波多三河守親(ちかし)の家臣名護屋越前守経述の居城(垣添城)であった所を大きく改造したもので、加藤清正が設計し各大名に分担させてわずか5ヶ月で築かせたものだ。 この周辺には、徳川家康、伊達政宗、毛利秀頼、黒田長政、加藤清正など全国の諸大名が陣屋を築いていた。

Q2.第1〜3回朝鮮通信使は、回答(幕府の使節派遣に対する回答)兼刷還使(秀吉の朝鮮出兵の時、7万人と云われる連れて来られた捕虜を連れ帰る)と云われ、日本に来た儒家、陶工などの捕虜を朝鮮に連れ帰るのが主目的であったが、何故連れて帰れなかったのであろうか?
 儒家はほとんどが帰国したが、陶工の多くが日本に留まったとされる。これは当時日本で一国ほどの価値があるとされた茶器や陶器を作り出す陶工を大名が庇護の下、士分を与えるなど手厚い待遇をしていたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想によって職人に対する差別があったことが原因である。
 1617年第2回朝鮮通信使扶桑録によると、『対馬島をして船2隻を雇い、崔に3名と対馬島日本通事を連れて、先に西海道小倉、筑前、博多などの地に行き、執政の文書を掲示して、捕虜となった人を刷還して、壱岐島か対馬島などの地で会うように約束した。』とある。

Q3.日本人は木の器で食事をしていたが、陶磁器を使うようになったのは、いつ頃だろうか?
 土器、須恵器が発達していたが、朝鮮出兵のおりに連れて帰った陶工たちが上野焼、有田焼、八代焼、薩摩焼、唐津焼、萩焼などとして九州山口に根づいた。この李朝風の焼き物はロクロと登り窯により、少量の薪で、短時間に大量生産が可能となった。次第に近畿、中部日本へと広がり、生活容器は、木器から陶器に変わって行った。
 鍋島藩では、朝鮮人陶工を有田に集め、有田への出入りを厳しく取り締まり、販売は伊万里港に限定するなどして、有田の磁器の製法を秘伝としたが、1661年には九谷焼、1800年会津焼、1807年瀬戸焼、清水焼などへと技術が盗まれて各地で窯が開かれるようになった。   −このようにして朝鮮出兵以降に陶器が日本に伝わり、以後食器は漆器japanから陶器chinaに変わったきたのである。

Q4.韓国へ行くと仏国寺、梵魚寺、昌徳宮などは文禄の役で焼失したものを再建したと記載しているが、真実は蒙古(元)軍や明軍と李氏朝鮮の仏教弾圧政策により焼失したのでは無いだろうか?
 第1は、1231年蒙古の高麗侵略が始まり、1232年には高麗王朝は江華島に遷都し、以後40年間にわたり激しく蒙古に抵抗した。長い戦いの末に蒙古と和議が1271年成立するが、高麗の一部の軍は和議を不満としてさらに戦いを続けた。珍島、済州島に拠点を移して戦ったが、1273年元軍に鎮圧された。この長い、激しい戦争により寺院と仏像は殆ど破壊されたのではないでろうか?
 第2は、李氏朝鮮は徹底した廃仏政策を行い、朝鮮半島の多くの仏教寺院は壊された。このように朝鮮人自身で廃仏を行ったのではないか!高麗朝の時代に1万以上の寺院があったが、李朝第3代太宗の時には仏教大弾圧が断行され242寺にまで減らされ、第4代世宗の時には18寺だけを残して、他は廃寺とした。僧侶は奴隷と同じく賤民とされた。
 第3は、朝鮮通信使は釜山から漢城まで約2カ月もかかっているのに、小西行長は釜山から漢城まで20日で攻め上っている。ほとんど戦闘なく進軍したことが伺える。寺院を焼き払うよりも、寺院を宿舎として利用しただろうし、また日本軍には仏教徒が殆どで、如来や菩薩に戦勝祈願をしても、焼き払うことはしなかっただろう。文禄、慶長の役は僅2年間であり、蒙古との侵略戦争は40年余りも続いた。 秀吉軍は朝鮮民衆に解放軍として迎えられた。朝鮮側の資料によると、『朝鮮の民衆は王や大臣を見限り、日本軍に加担する者が続出した』と、また『明の朝鮮支援軍が駆けつけて見れば、回りに散らばる首の殆どが朝鮮人同士で殺し合った朝鮮の民のものであった』、また『王は民衆を見捨てて漢城から逃げ延びる時に二人の王子は民衆によって捕らえられて、加藤清正軍に引き渡された。清正は、1593年の講和会議で二人の王子に護衛を付けて送還した』、景福宮などの焼失は、秀吉軍の入城前に既に灰燼となっていた。それは民衆が蜂起して、宮廷を襲い略奪したからである。ことに官庁への襲撃は、朝鮮半島の被差別階級の人々が深く係わっていた。また援軍に来た明軍は日本軍と違い兵糧を現地調達していたので混乱に乗じて略奪を行った。
 しかし元軍や明軍、李氏朝鮮や朝鮮国民により焼失したなどとは何処にも記載されていないのが不思議だ。私の考えが間違っているのか?
国立慶州博物館にて



唐津焼

 唐津焼の起源は、秀吉の朝鮮出兵のおり連れて帰った朝鮮の陶工たちによって始められたとも、またそれ以前から既にあったとも言われている。
 朝鮮唐津:黒く発色する鉄釉と白濁する藁灰釉の2種類を使用する。鉄釉を下にかけ、藁灰釉を上から流して景色を表現したものである(上下反対もある)。


Q5.佐賀県立名護屋城博物館では『文禄・慶長の役を侵略戦争と位置付け、その反省の上に立って、』と説明の後に、『三別抄の協力要請に対して、日本側は返事も出さずに何の手も打たなかった.また三別抄が戦ったが為に、日本への侵略が遅れた』と記載してあり、日本が援軍を出さなかったのが悪いと言ってるようであるが、何故日本は援軍を出さなかったのだろうか?
 1268年の国書の内容は、以下のとおりである。
天のいつくしみをうけている大蒙古国の皇帝が、書を日本国王に奉る。
 朕が思うのに、昔から小国の君主で国境を接しているものは、音信を交わしあい、仲よくしあうよう努めている。 ましてわが祖先は、天の明命を受けて天下を領有している。 その威を恐れ、徳を慕ってくる遠い異国のものたちは数えられないほどである。 朕が即位した初め、高麗の無辜の民が戦争によって久しく疲れていたので、朕は国境より兵を引き揚げ、老人子供を帰した。 (それにより)高麗の君臣は感激して来朝した。(蒙古と高麗は)君と臣の関係ではあるが、親子のように仲が良い。
 日本国王もすでに知られていることであろう。高麗は、朕の東の属国である。日本は高麗とは近い仲であり、日本の開国以来、時に中国とも交通をしているが、朕が即位してからはまだ一度も使いを送って和交していない。日本がこの事を知っていないことを恐れ、故に特に使いを遣わして書を持たせて朕の志を布告させる。願わくば今よりは好を通じて親睦をするように。また、聖人は四海をもって家となさん。互いに交流しないのは一家の者らしくないことである。兵を用いるに至るなど、誰がそれを好もうか。 日本国王よ、これを図れ。

 このような国書が高麗を介してから送られてくる時機に、鎌倉幕府が反乱軍の汚名を着せられた三別抄に援軍を出すはずが無いと推測する。鎌倉幕府は本土防衛が精一杯で、対馬や壱岐さえも守れなかった。かくして反乱軍は、1273年鎮圧され、翌年高麗軍と元軍が日本を襲撃する。


名護屋城博物館   邪馬台国研究
潮待ちの港・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐呼子末盧国伊都国相島門司港赤間関室積上関沖の家室津和地倉橋島蒲刈御手洗・鞆ノ浦下津井塩飽本島牛窓赤穂室津兵庫津