潮待ちの港
潮待ちの港 上 関
風待ちの港
 
室津上関 さおさしゃ届く なぜに届かぬ 我が想い  高杉晋作
 上関は、下関、中関と共に防長三関の一つとして栄えた。上関海峡は、室津と上関の間わずか170m、水深10m。古くは、都と九州や大陸を結ぶ海上交通の拠点として発達した。倭寇や村上水軍の本拠地として、また16世紀大内氏は、上関に関所を設けてここを通る船から帆別銭という通行料を徴収していた。江戸時代になると、九州の大名で参勤交代に海路を取る場合は必ず上関に寄港した。萩(毛利本家)藩は、重要な港として藩の直轄地とした。また江戸幕府への外国からの使節に対し、ここに御茶屋(迎賓館)を作って接待した。特に朝鮮通信使の寄港地として1607年から1764年まで往路11回、復路8回来航した。江戸時代になると、瀬戸内沿岸の塩分の多い砂地や島の段々畑など稲作に適していない土地が綿作地帯へと転化して行き、島の経済は豊かになり、麻の着物から木綿の着物へと移っていった。またコモやムシロ帆から木綿帆の船へと変わると、速く、風に強い船となり北前船が登場した。。上関が最も栄えたのは、日本海沿岸から米や昆布を積んだ北前船が来るようになってから、潮待ち、風待ちの港として栄えた。しかし明治末期に山陽本線の開通と汽船時代になると、上関は時代から取り残されて行く。動力船は、上関を通らずに瀬戸内海の真中を、下関へ大阪へと向かった。それでも石炭が主なエネルギー源であった時代にはまだ活気があった。上関の人々は、『とどかか船』と呼ばれる夫婦乗りの石炭船で若松と大阪間を往復し、生活にもゆとりがあった。今は原発賛否の町として話題になっている。
平安時代までは宮島を通る茶色の航路を通っていたが、以後赤線の陸地沿いの地乗航路となり、17世紀後半に木綿帆が使われるようになると黄色の沖乗り航路に変わって行った。しかし上関はいずれの時代にも瀬戸内海航路の寄港地し、栄えていた。赤線は朝鮮通信使の航路


室津(本州側)から上関海峡と上関(長島)を望む
 昔は、この海峡を遣唐使・遣隋使・朝鮮通信使・参勤交代・北前船など多くの帆船が行き交い、上関は風待ち、潮待ちの人で賑わった。 向かいは砲台跡
幕末、長州藩は大砲数門をすえ、幕府軍の攻撃に備えた。第2次長州戦争大島口の戦いが始まり、幕府艦船富士山丸が攻めてきて、室津に砲弾が打ち込まれた。



万葉の碑
 鳴きて騒きぬ
 鳴いて騒いでいる
 漁りする鶴

 餌を求めている鶴が
 可良の浦に

 可良の浦で
 潮満ち来らし
 潮が満ちて来るらしい
 沖辺より


 沖の方から
 同使節は、難波を736年4月に発ち、瀬戸内海で夏を迎え、唐津から壱岐へ渡った時は秋だった。通訳の雪連安満が壱岐で天然痘の為に急死し、対馬小船越を越えるころには晩秋になっていた。新羅までたどりついたが、外交的には何の成果もなく、翌年春1月に奈良に帰国した。
 大使阿倍継麻呂は帰路対馬で死亡した。この間、三度の嵐に遭遇したり、痘瘡(天然痘)の流行があり、一行のなかにもかなりの病死者が出たと想像され、全く不運な旅であった。

万葉集第15巻3642
 736年遣新羅使、阿部継麻呂の一行がここ可良の浦に船泊まりした時に詠んだ歌。
ここは、古くから風待ち、潮待ち、補給、給水も出来る良い港であった。




皇座山(おうざさん)稲荷
 1185年(文治元)屋島の戦いで源義経に敗れた平家は、赤間関の壇ノ浦へと向かう途中入り組んだ海岸線に船を隠し、皇座山中に兵を置き待ち伏せ、上関海峡を通過する源氏に反撃を試みる。しかし源氏が上関海峡に近づいたとき空に鴎が現れ、平家の隠れ場所を教えたため、平家は敗れ、さらに西へ落ち延びて行ったと言う。
  安徳天皇はこの山で一休みされたので、皇の座する山と云われるようになった。山頂に稲荷神社がある。

源平合戦  (屋島〜壇ノ浦)
 1185年2月19日屋島で合戦から3月24日壇ノ浦の合戦までの空白の1カ月余りの期間はどうだったか?
 『吾妻鏡』によると、瀬戸内海における三合戦として、屋島、壇之浦とともに「周防国合戦」が記されている。
 皇座山東南麓の池の浦(現柳井市)近辺には、大量の刀剣が発掘された勝負ヶ迫をはじめ、平家坂、平家神社、陣屋などの地名が残り、古戦場としての足跡を数多く残している。
 3月21日、大雨に妨げられ一日延期した義経は、いよいよ壇之浦へと進発の準備をしていた。そこへ三浦義澄が参陣し、23日総勢八百余隻の船が、周防国大島津から壇之浦へと向かった。一方、源氏の水軍が接近したことを知った平家も、23日の夕刻に行動を開始する。総勢五百余隻、知盛がこれを指揮して彦島の本営を発し、急潮の早鞆の瀬戸を抜け、流れのゆるやかな豊前国田ノ浦沖へ集結した。
 いよいよ明日は決戦の時。源平の命運をかけた壇之浦の戦いへと進む。


ジャコ天、ゲソ天、えび天、鯛天と
いろいろな魚のすり身を使った名物”むろつの天ふら”
町の観光パンフレットの真似をして、てんぷらを食べながら港で、


          五卿のの宿”肥後屋”跡
 1863年8月18日京都の政変で、京都を追われ長州に下る途中、8月24日七人の公卿の内三卿がこの肥後屋に宿泊した。翌年1864年7月、五卿(三条実美、三条西季知、東久世通とみ、壬生基修、四条隆歌)は、長州軍と共に京都に攻上る途中も、ここに宿泊した。五卿は、広島の鞆ノ浦に18日入港し太田家20日まで宿泊した。21日多度津へ出航したが、京都蛤門の戦いで長州軍が敗戦したとの報を聞き、再び長州に引き返した。7月22日から24日は御手洗港の竹原屋に宿泊し、翌日ここ肥後屋に着いた。 
 また肥後屋は室津の本陣として、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允ら多くの勤皇の志士たちの世話をした。



四階楼とその内部
1879年第2奇兵隊参謀小方謙九郎が建てた木造四階建ての建物。当初は住兼汽船宿として利用されていた。県有形文化財
モダンな姿と豪華な内装。
外観は白壁に縦長の窓のモダンな姿に、壁の隅に施された塗り彫刻が洋風らしさを引き立たせる。
4階の部屋はドイツから輸入したステンドグラスが、天井には塗り彫刻の鳳凰が翼を広げている。
3階の部屋の壁の唐獅子と牡丹の塗り彫刻。
3階4隅にある椿の彫刻
1階の菊水紋の塗り彫刻



   上関大橋のたもとにある吉田松陰の詩碑

舟を発し、家室を過ぎ、室津に至りて泊す。
詩あり、云はく。帰郷夢断えて涙散々、
舟子喚び醒す是上関と。
蓬窓怪しむなかれ起き来ること晩きを、
国を去りて看るに忍びんや故国の山
吉田松陰

 1853年脱藩の罪を許され江戸への遊学の途中、室津に立ち寄り、砲台場を見学した。浦賀で黒船を見た松陰は、同年長崎にロシア船の入港を聞き、長崎に向かう途中、ここ室津に寄り、歌を詠んだ。その詩碑がここにある。


上関(長島)からみる上関大橋と向かいは本州の室津
上関漁港 僅170mの海峡に昭和44年に上関大橋がかけられた。

住吉神社
住吉神社はお茶屋の守護神として、お茶屋裏手に祀られていたのを
航海の守護神として港の入口、1767年現在地に移された。




御番所
港の警備、見張りのほか、越荷会所で扱う積荷の検査や税金の徴収などを行った。


朝鮮通信使

 1719年第9回朝鮮通信使(対馬藩真文役雨森芳洲や『海游録』を書いた製述官申維翰も随行)は、『8月18日の早朝一行は再び赤間関へ向けて船を出した。やがて小倉城が右手に見え始めると、小倉藩の船団が現れ、相ノ島からの黒田藩護衛船団と交替した。小倉を過ぎ、巌流島(船島)に近付くと、長州藩の迎護船団が待ち受けていた。藩の出迎え役人船や水路案内の指揮船、警護船や曳舟百二十隻の大船団である。長州藩は船島から上関まで護衛する任務が負わせていて、そのために徴集した船は六百十隻、人員二千九百名を越えた。赤間関と上関の摂待要員を加えると五千名の大部隊である。赤間関で5日間を過ごした一行は、8月24日の夕方、出航し折からの西風を利用して一気に三田尻迄進み、西浦に船を泊めて一泊した。翌25日も順風だったので、通信使船と対馬藩の諸船および長州藩の護衛船など1千隻の大船団は、飛ぶような早さで徳山、笠戸沖をかすめる、上関には日没前に着いた』と、海游録に記してある。
  8月26日の早朝、一行は屋代島の南をかすめ、津和地島、橋倉島の東岸を経て、夕刻までに蒲刈の三ノ瀬港へ入る予定で出航した。
           朝鮮通信使上関来航図(超専寺蔵)
  1711年には上関入港の長州藩の関船、通船、小早船など合計655隻、総人員4566人、藩士、藩民の延べ動員数9700人でもてなしたとある。
 この絵は、上関の超専寺に伝わるものである。先頭を行く対馬藩の船団は桟橋に近づいており、その後に従船を従えた3使の船団が続いている。海上護衛の村上水軍の舟が囲み、上関に入港する様子が対岸の室津から描かれている。しかし落款の1821年には朝鮮通信使の来日はなく、1821年に作者が想像により描いたものとされている。
       お茶屋跡
 ここから海岸線までの3000坪に、お茶屋(迎賓館)と呼ばれる御殿や客館、長屋敷、番所が建てられた。江戸時代萩藩の迎賓館として使用され、藩主はもとより参勤交代の諸大名、幕府の使者、朝鮮通信使なども宿泊した。
 現在は熊毛南高校上関分校(全校生徒数41名)となっている。
 朝鮮通信使によれば、第1回1607年復路『6月13日終日風が吹き雨が降る。波濤は盛んに沸き立ち、船を出すことが出来ず、そのまま室津に逗留する。14日朝雨。遅くなって晴。朝食後、風勢が順風のようなので、帆を上げて船出する。牛窓、下津井などの村を過ぎ午後8時に鞆ノ浦に到着して泊まる。15日曇あるいは晴。夜明け頃船を出す。東風が続いて吹き、帆船ははなはだ速く、三十余海里進んで日が既に暮れた。風はかすかに吹き、海は静かで、月の光りは昼のようであった。櫓を漕いで行き、上関に到着して泊まったが、夜明けの鶏が既に鳴いていた。』
 第5回1643年には『鞆ノ浦の水辺にある人家は千戸を下らず、灯火の明かるく輝くさまも上関に次ぐものがある』と書かれており、上関が当時栄えていたことが伺える。
 第9回1719年申維翰の海游録には、『館宇は新築ではなく、周防太守の茶屋である。屏帳や器具は赤間関に及ばず、左右の民屋もきわめて少ない』と記されている。毛利藩では、お茶屋は朝鮮通信使専用ではなく、迎賓館として使用していた。

 下の絵は、私が2006年9月韓国国立中央博物館(2005年10月28日開館)に行き、1階歴史館の対外交流室に展示されていたものを写真撮影したものである。
 朝鮮通信使には毎回必ず1名、時には2名の画員が随行した。彼らは朝鮮の代表的画家ばかりである。槎路勝区図は1748年第10次朝鮮通信使画員李聖麟が寄港地の風景を釜山から江戸まで描いたものであり30図2巻に収められている。上記の超専寺に保存されている画と比較すると、残念ながら朝鮮人画家李聖麟の優れた才能を認めざるを得ない。
韓国国立中央博物館蔵    国立中央博物館  国立博物館



超専寺
 この山門は、明治3年、お茶屋払い下げの時、お茶屋の福門を移築したもの。
 1615年村上水軍の家臣、鈴木藤右衛門は、僧侶となり初代住職となる。

 ここは、朝鮮通信使来島の時に摂待する萩藩主名代の本陣として使われた。この寺には、『朝鮮通信使上関来航図』の貴重な資料やオランダ商館長の江戸参府に同行したケンペルやシーボルトの記述が残っている。


明関寺と竈八幡宮

 以前は真言宗で「千坊寺」と称していたが、1580年ごろ、曹洞宗に改宗して寺号も「明関寺」に改めた。、
 また裏手には竈八幡宮がある。非常に古い歴史を有している。朝鮮通信使が、上関通過の時無事を祈って、萩藩主名代や岩国藩主名代によって2泊3日の祈祷が行われた。

明関寺の石段 阿弥陀寺
後の石段が、朝鮮通信使来航当時の面影を今に伝えている明関寺への石段。この石段の上に、対馬藩主の宿舎に当てられた明関寺があった。明治初頭の神仏棄釈令の犠牲になり、跡地は今は上関小学校が建っている。学校を取りまく高い石段や21段の石段が当時の面影を今に伝えている。  阿弥陀時には、通信使に随行した以酊庵の僧が宿泊したところでもある。

遊女の墓もここにある。


上関の町並み       
上関が最も栄えたのは江戸時代から明治時代にかけてである。
江戸後期に上関や室津にも北海道や東北からニシンや米、昆布などを運ぶ北前船が立ち寄り、瀬戸内海の海産物や木綿、煙草を運ぶ中型帆船の往来も頻繁となると、大阪商人が上関に倉庫を構えて、大阪での値動きをみて積み出す、中継貿易の拠点となって繁栄した。町並みには、今も北前船で栄えた商家が残り、往時を忍ぶことが出来る。

安村家、大谷家 坂田家



木綿について
 木綿の原産地はインドとアメリカとされ、インドでは紀元前2000年頃から綿の栽培が行われていたようだ。
 中国への伝来は800年とも1000年頃とも言われている。1364年、中国に外交使節として出かけた文益漸(ブンイクチョム)が種子を持ち帰ったのが朝鮮での綿栽培の始まりであった。そして綿栽培はたちまち朝鮮南部一帯に広がり、15世紀になると綿布が対日貿易の主役として登場する。三浦(サンポ)では毎年50隻の倭の貿易船が綿布(一度に数万匹も)を買い取って帰っていた。大量に輸入された綿織物は、公家や武家のあいだに広まり『モンメン』と呼ばれて珍重された。モンメンは朝鮮語の木綿がなまったもので、今ではモメンという。
 16世紀以降、交易を通じてインド産などの綿が、主にイギリスにもたらされ、18世紀ごろにはイギリスの羊毛業をおびやかすまでになった。1780年代になると、自動紡績機や蒸気機関が相次いで実用化され、イギリスは綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換した。この綿産業の発展を主軸にした産業構造の変革は産業革命ともいわれる。なお、イギリス産の綿の原綿は、主にアメリカで栽培されたものであった。
 15世紀の後半になると朝鮮から綿布が大量に輸入されるようになり、16世紀には明からの綿布(唐木綿)の輸入が加わって、上流階級では木綿の着用が流行した。さらに南蛮貿易によって東南アジア諸国から縞木綿がもたらされ、その中にはインド産のサントメ縞(唐桟)やベンガラ縞、セイラス縞などが含まれていた。これらは近世日本の模様染や縞織の発達に大きな影響を与えた。
 1549年、国内で木綿の栽培が始まる(風土記日本読売新聞)。木綿は丈夫で耐久性にすぐれているため、戦国時代の武士たちは幕や旗差物、袴などの衣料に用いた。需要の増加にともなって三河などで木綿栽培がはじまり、またたく間に近畿、瀬戸内海地方でも栽培されるようになった。江戸初期には農民の着物も麻から木綿へと転換し、江戸中期になるとほとんど全国的に木綿織物が生産されるようになって、各地で特色のある銘柄木綿を産出した。さらに縞や絣、型染や筒描、藍染など文様と染色技術の進歩とともに、多様な綿布が生産されるようになった。木綿以前の庶民の生活は、まさに寒さとの戦いであった。下層社会の人々は厳寒期にも麻や葛、楮などでつくった衣服のみで過ごすため、疫病(流行性感冒)で多くの人が死亡したと伝えられている。暖かくて丈夫で肌触りのよい木綿は、庶民の生活にも心にもやすらぎを与えたのである。
 瀬戸内沿岸の塩分の多い砂地や島の段々畑など稲作に適していない土地が綿作地帯へと化していった。米作の二倍以上の収益を、加工して木綿にすればさらに綿作の二倍以上の収益をあげた。綿の需要の増大とそれにともなう綿作の発展により、これを扱う商人たちが集散地に問屋を形成した。こうした商業的農業の発展は、年貢米の徴収を財政の基盤とする幕藩体制を変容・崩壊させていく。木綿は庶民の衣生活に画期的な変化をもたらしたばかりではなく、日本の封建的社会経済構造を根本的に変革させる要因にもなったのである。

 木綿の普及は、帆船を発達させ、それが瀬戸内海航路発展と航路の変更となった。綿布以前の帆は、コモやムシロだったので、雨に会うと重心が上がり転覆する危険があり、また風を一杯に捕らえることが出来ず速度が遅かったり、風の細かな整流調節が難しかったり、風の弱い日には櫓を漕ぐ大勢の水夫を乗せねばならなかった。。しかし17世紀後半に綿布が普及するようになると、殆どの船は綿布帆となり、少々の雨でも転覆せず、速く、横風でも走れるようになった。よって地の乗り航路から沖乗り航路へと移って行く。上関から瀬戸内海の真中を御手洗港に走り抜けて行く。また30反の布を縫い合わせた帆を張る千石積みの大型外洋船が生れ、1672年河村瑞軒によって酒田から下関をまわって大坂を結ぶ航路が開拓された。後に北海道から日本海廻りで大坂を往復する大規模な商船を弁財船(漕ぎ人が要らなく風だけですすむ)、千石船、北前船とも言う。北前船の寄港により、上関は繁栄を極めた。
 また木綿帆の普及は、木綿や塩、日常雑貨を運ぶ中型船の回船業が盛んになり、そればかりか地引き網や船曳網で大量の鰯を取るようになった。その鰯が木綿栽培には最良の肥料でもあった。18世紀中頃から、瀬戸内海の島々での綿栽培は急速に伸びる。
 明治以降、政策により綿布の生産が強化されたこともあり、1930年代には輸出量が世界一となった。戦後復活し、再び世界一になったが、その後は安価なアジア産の綿布に押され、生産量は減少している。

 瀬戸内海は、朝鮮伝来の木綿と深い係わりを持って発展して来た。しかし、瀬戸内海から朝鮮にも計り知れない恩恵をもたらした。唐辛子、トマト、カボチャ、サツマイモなどがある。
 特に唐辛子は18世紀に朝鮮人の食生活に革命を起こす。キムチの防腐剤としてまた旨みを醸し出している。唐辛子の原産地はメキシコで、征服者のスペイン人がヨーロッパへ、やがてアジア、日本に入ってきた。
 サツマイモも原産地はアメリカで、日本には17世紀初頭に薩摩地方に伝わり、九州で栽培されていた。1732年享保の大飢饉で、日本全国に広がった。1764年第11回朝鮮通信使が栽培方法とサツマイモを持ち帰り、栽培させたと、(正史の書いた海槎日記)記されている。朝鮮では、度重なる飢饉から人々の生命を救った。



瀬里家(山口県最南端の喫茶レストラン) 上関商工会のHPより


上盛山展望台

展望台から東方の瀬戸内海を見る

北東方向を望むと、正面遠方には大島大橋と周防大島が、 長島より東方向を望むと中央が上関、、正面奥に平郡島が、左に皇座山が見える。


村上水軍と上関
 14世紀の南北朝の争いの時、南朝方に味方した海賊に村上氏がいた。その根拠地は来島海峡付近の芸予諸島であった。その後、村上氏は3家に別れ、能島、来島、因島を本拠地としたが、この3家を総称して村上三島水軍とも呼んだ。瀬戸内海を航行する船は、尾道と今治を結んだ線上で、村上水軍に見つかる。そこを通る船から帆別餞と言って積荷の1割を徴収し、警護をし、これに応じない船からは積荷を没収したという。
 この能島村上水軍がここ上関に城を築き、上関海峡を支配していた。そして周防長門の大内氏支配下の宇賀水軍と勢力争いをしていた。
1555年大内氏が滅び、陶晴賢と毛利元就との厳島合戦の時、村上水軍は毛利氏に味方して、陶−宇賀水軍を滅ぼした。この結果村上水軍は瀬戸内海の西部も押さえ、毛利水軍となって戦国時代にも活躍した。
 1600年関が原の戦いで、豊臣方に味方した毛利輝元は中国8カ国から周防、長門の2国に減封された。江戸時代は、毛利藩は水軍を御船手組と称し、村上水軍がこれを預かった。
潮待ちの港・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐呼子末盧国伊都国相島門司港赤間関室積上関沖の家室津和地蒲刈御手洗・鞆ノ浦下津井塩飽本島牛窓赤穂室津兵庫津