風待ちの港 室積
北前船で栄えた商業の港ー室積
 光市室積港は、天然の良港として室町時代から栄えた。江戸時代、萩(毛利本家)藩は、上関を公式の接待場所と決め上関に御茶屋(迎賓館)を作って、使節を接待した。
 江戸時代の中期1763年、藩の財政改革の一環として、室積港を商業港として整備し、北国や九州の廻船を迎え入れ、港の建設、町並みの整備に力を入れた。毛利藩が瀬戸内海側の年貢米を売りさばくためと、越荷商い(他国の商品の売買)を行う役所(長州藩撫育方(ぶいくがた)会所をここ室積に置き、北前船を初め藩内外の多くの船が出入りして、商取引が盛んに行われた。1842年には室積には廻船持ちが76軒、船大工が24軒もあったと記録されている。室積の廻船は、塩を売っていたそうです。幕末には南奇兵隊がここで結成され、鳥羽伏見の戦の物資は室積の廻船が運搬した。1893(明治26)年には大阪との定期汽船の航路が開かれ、繁栄を誇った。しかし1893(明治30)年山陽鉄道が広島〜徳山間開通したが、室積村は鉄道設置に反対し、室積通過を断固反対した。その後、海上交通の時代は終わり、陸上交通の発展と共に衰退していった。


西から室積(東)へ向かう船は、正面に祝島を見て左に下松市笠戸島日振灯台を廻ったら進路を北に取り、室積港へ入る。(朝に撮影) 室積を出航して西へ向かう船は、下松市笠戸島日振灯台を目標に進み、日振灯台を右に見て、正面の防府市野島目指して航行する。




御手洗湾
                 御手洗灯籠堂(平成3年復元)
1702年に我国24番目(我国で最初に設置された灯台は1596年能登国羽咋郡福浦灯台)に建てられたもので、『港内の見入りよろしく、夜中にも回船が出入り出来るようにしたい』というもので、元禄ごろには室積港が諸国回船の出入りで賑わったいたことが伺える。

          長州藩撫育方(ぶいくがた)室積会所跡
長州藩は、1769年藩の財政改革の一つとして、当時全国的規模で盛んになってきた海上輸送による商品流通に係わり、利益を上げるために、ここに会所を置き、北前船等と商取引を行った。主に藩の年貢米をここに集めて売りさばいた。さらに藩の資金やこの米蔵を使って、越荷商い(倉庫業や金融業)を地元商人に行わせたので、港や町は多くの廻船や商人が出入りし賑わった。
 明治時代にはこの跡地に熊毛郡役所が置かれ、明治36年県立工業学校が、さらに大正3年女子師範学校、山口大学教育学部、現在は付属小学校がある。
              長州藩中熊毛宰判勘定場跡
長州藩は、1763年に藩の財政改革の一環として、室積港を商業港として整備し、北国や九州の廻船を迎え入れた。

今はお食事処と和雑貨の”ささのや”がある。
 

仁王門前にある参道の灯籠
海から参道を通り、山門をくぐり、本堂へ行ける。
                        普賢寺正面の2つの灯台(上)

1006年建立といわれる普賢寺は、『海の菩薩』として広く信仰を集めている。

普賢寺仁王門
 1798年の建立といわれ、雄大かつ怪奇な焼く6mの木刻の仁王像が両脇に安座し、棟上には16羅漢が安置されている。


普賢寺本堂(江戸時代は毛利公の祈願所であった)本尊は普賢菩薩 普賢寺雪舟の庭
雪舟が造ったと伝承されている室町時代後期の枯山水庭
海商通り
江戸時代から栄えた豪商”礒部本家”の建物。左本館と右別館木造2階建。
廻船を持ち、江戸、大坂、琉球などとの交易により栄えた。また醤油、木材や米などを商い、金融業や塩田経営と多くの小作地を持っていた。

光ふるさと郷土館
本館建物と中庭 船箪笥や弁才船の模型、絵馬、引札などが展示されている。


あいご(昔の狭い路地) 高札場

     恵光寺(1615年建立)
 中世大内氏の時代から外国の使臣や高官を
接待したところで、”外来館”または”官の館”と
いわれていた。
 毛利氏の時代になってからも”渉外館”として
利用されたという。1865年この寺を本拠として
南奇兵隊が結成された明治維新にもゆかりの寺
である。

  松岡洋右(1880〜1946昭和21年)生誕100年記念碑
室積に生まれ、満州鉄道総裁、1940年外務大臣として
日独伊三国同盟を締結した。翌年には日ソ中立条約を結んだ。
     三谷薬局。松岡洋右氏の家であった。
氏は代々続いた回船問屋に生まれたが、11歳のときに家が倒産し、13歳の時にアメリカに渡り、21歳でオレゴン大学法科を卒業して、日本に帰国した。帰国後外交官試験に合格した。昭和7年国際連盟会議に日本全権大使として出席したが、連盟を脱退することとなった。

潮待ちの港・風待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐呼子末盧国伊都国相島門司港赤間関室積上関沖の家室津和地蒲刈御手洗・鞆ノ浦下津井塩飽本島牛窓赤穂室津兵庫津