風待ちの港・北前船
潮待ちの港 富山
風待ちの港

 北前船とは、@北を前にして進んだから、北前船と呼んだA北回り船の呼び名が変わって北前船になったB北海道松前から来る船を略して北前船と呼んだ。C北の米(きたのまい)が変わって北前船になったなど、いろいろな説があるようだが、北前船とは、近江・加賀・越前・能登・大阪等の廻船問屋が大阪に根拠を定め、大阪と松前間の貨物の運搬に使用していた船を言うようになった
 古代から北陸以北の貢物は、海上を敦賀に送り、琵琶湖を渡って京都に入るのが正式のルートだった。加賀藩の米を、富山港から福井の敦賀まで船で運んで行き、そこから陸にあげて琵琶湖を渡り大阪に運んでいたが、荷物の積み卸しが大変だったことと、運賃が高くついたという理由で、加賀藩前田利常は1638年に、少し遠回りだが、試しに津軽海峡を回って大阪に船で運んでみたところ、無事に大阪の堺の港に着くことができた。その東回り航路(太平洋航路)は、江戸まで近いという利点はあるが、東北沖の速い潮の流れに流されてしまう危険があるため、あまり使わなかった。そこで1639年加賀の前田利常が初めて下関廻りで大阪に廻米した。幕府も木綿帆が使われるようになった1672年、江戸の商人・河村瑞軒を用いて酒田から下関をまわって大坂を結ぶ西廻り航路を開拓した。
 この船の形を”弁財船(漕ぎ人が要らなく風だけですすむ。反面、風が吹かないと何日もその場所から動けないという欠点。 また、荒波に押し流され、もう助からないと思った時、最後の手段として、船の中の荷物をすべて海に投げ捨て、帆柱を切って、転覆しないようにしたそうです。)”などとも呼ばれ、また、俗称”千石船”とも呼ばれていた。
 北前船の商品は、夏に北海道の昆布、鰊を積んで、酒田では米、紅花などを積んで、秋に瀬戸内海に入り、各地で売却し、大坂で一冬越した後、翌年春には米、塩、砂糖、干鰯、木綿、古着、畳表、米、煙草など産物を買い入れて北国へ向かう。晩秋には北国に戻る船もあった。北前船の最大の特徴は、それぞれの寄港地で積荷を売り、新たな仕入れをもする、云わば総合商社であったと云う点です。遠く北海道の産物を積んで群れをなすように来航し、それを買い入れようと各地の港が一気に賑わう姿は、季節の風物詩であった。北前船によってもたらされたものの中には、商品だけでなく、文化も風に乗り、潮に乗って各地に伝わった。明治の半ば、汽船や鉄道によって速く、多量の物資輸送が可能となり、衰退して行った。

 17世紀には、越前、加賀、能登の船乗りは近江商人の船に雇われて乗っていたが、やがて自立して大坂〜蝦夷地を結ぶ廻船を経営するようになった。大船主には、越中、能登、加賀、越前、若狭に多かった。彼らは各地で商売をしながら航海をするので利益は大きかったが一度遭難すれば損害も大きかった。

富山市岩瀬 
北前船の船主として栄えた回船問屋、森家
 日本海で活躍した北前船の船主が富山では、岩瀬に多い。岩瀬では、バイ船という。利益が倍々に上がったのでこのように言われていた。

囲炉裏端は商取引の場であった。畳の敷き方も工夫されている。 船は日本型の1枚帆であった。

全国から持ち帰った石。緑色の四国石もある。 土蔵

 船主たちは、明治になり北陸銀行や岩瀬銀行を設立した。


越中富山の薬売り

                       富山売薬の総元締ともいえる薬種商を営んでいた金岡邸
 売子はあらかじめ幾種類かの薬を家庭に預けておき、半年後または一年後に再びその家庭を訪問し、使用した分の薬代を徴収する、「先用後利せんようこうり」と呼ばれ、現金収入の少なかった当時の一般庶民に大いに受け入れられ、売薬発展の礎となった。
 この代表的な漢方薬が「反魂丹」という丸薬であった。懐かしい『熊の胃』もある。


越中八尾

おわら風の盆
諏訪町通り。白壁の格子の町家が連なり、石畳の緩やかな坂が続く江戸時代の町並みのたたずまいを残す情緒ある通り。
越中八尾は、和紙と生糸で栄えた町である。
勇壮な男踊りと艶やかな女踊り2009年のポスターより

室堂から見る立山

潮待ちの港・風待ちの港
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