南米ワールドクルーズNo4 イースター島
 三井造船は『MITUI OCEAN FUJI』をデビューさせた。今回JTBがチャーターした2025年1月9日〜4月9日90泊91日の旅に参加しました。                      
イースター島はS27度、W109度、時差GMT-5、日本とは―14時間(遅れ,、チリの首都サンチアゴW70.6度.)。人口は8千人、面積は小豆島、利尻島と同じくらいの面積。
AD400年頃に東ポリネシアからやって来た人々が定住を始める。 700年頃アフの上にモアイが建てられるようになった。1300年頃最初の王マツマツア王の時代にはモアイ作りが盛んになる。
1700年人口が激増し、森林資源が枯渇し、食料危機になり、モアイ作りも衰退し、食料不足により部族間の争いが激化する。モアイ倒しが始まり19世紀まで続いた。
1722年オランダ人が4月5日復活祭の日にこの島を発見して、イースター島と命名した。人口は約4000人、1862年ペルーの艦隊が来て奴隷狩りをして1000人の島民を誘拐し、最後のモアイが倒された。翌年誘拐された15人が島に戻ってきたが、天然痘に感染して人口は600人になった。1877年には全人口は111人となった。
1960年チリ地震、津波でアフ トンガリキのモアイ像はバラバラに崩壊した。1995年高松市の株式会社タダノがクレーンでモアイ像15体を修復した。 モアイ像は、日本には宮崎県日南市アフ アビキの7体の復刻像、、宮城県南三陸町2011年の三陸沖地震後2013年にイースター島から本物のモアイ像が贈られた。香川県女木島は株式会社タダノが復興の練習用に造った模造のモアイ像、札幌市の霊園にも模造のモアイがある。
ふじで20日間、飛行機ではホノルルかタヒチ経由でマタべり国際空港へ  テンダーボートでハンガロア村に上陸し、バスでアフ・トンガリキへ  JTB久松添乗員によるイースター島の説明会
 朝5時過ぎイースター島沖に投錨する。
ここからテンダーボートで上陸
 ハンガロア村に上陸する。チリへの入国検査はバックのチェックのみ。歓迎を受ける 滑走路3,300mの長大なマタべり国際空港にはチリーのサンチエ、ペルーのリマ、タヒチのパペーテから定期航路がある
 アフ・トンガリキ: モは「未来」、アイは「生きる」を意味する、モアイは「未来に生きる」守護像として作られたのでは? モアイの高さは平均4〜5m、重量20トン、部族長や先祖の霊を願ったのでは?1960年のチリ沖地震で発生した津波によってアフもモアイも倒れた。1995年高松市のタダノ株式会社が100mの祭壇に15体のモアイを並べた。  7〜17世紀の1千年の間に造られた。その間高度な技術と戦争がなかったよう。
  モアイ像が17体に成っている  20人の石工が1年間で1体を作ったと言われている。
右から2番目のモアイはプカオと呼ばれる帽子のようなものを被っている。これは男性の髭をのばし結髪を再現したもの
  向かいのラノララク山で造られて、運ばれた
 島の牧畜、小豆島の面積に14千人  ラノララクと呼ばれる石切り場  
イースター島には 加工しやすい疑灰石があり、石器(黒曜岩や玄武岩)でも容易に加工できた。   ラノララク山(標高200m)の石切り場には作りかけのモアイが約400体ほど残されている。
 切り出し途中の物、削りかけの物、麓への運搬途中で放棄された物  ここが山の石切り場、作りかけのモアイもある  
 海に背を向けたアフ・トンガリキのモアイ像  村のメーンストリート、飲食店が集まっている。  絶海の孤島なので強風と波浪が高い。船は島に近づけない。
 テンダーボート(船の救命ボート)で船へ 19時抜錨しイースター島を後に、6日後にペルーのカヤオに向かった  今日はセミフォーマルの日JTBの添乗員の方々と
 レストラン”富士”の前でギターリスト ジオバニーの演奏  部屋のベランダで、南太平洋を背に  船内の教養講座”南米の世界遺産”から
黄色がスペインの植民地、緑色がポルトガルの植民地