2008年のクラス会

2008年10月12,13日壱岐平山旅館にて13名が参加しました。
(当日急用が出来た玉井君、関君が急遽欠席で残念でした)

幹事は長島正明君(壱岐市民病院副院長)
来年の幹事は富山市の山本英樹君に決まりました。
2次会は長島君の豪邸に押し掛けて零時まで大いに騒ぎました
磯部 橋本 中島 松下 木下 石川 小林
石丸 長島夫人 長島 石川 石丸夫人 木下夫人


 神功皇后が応神天皇を出産し、産湯を使ったとされる湯ノ本温泉のここ平山旅館
 山口県には下関の亀山八幡宮、宇部の琴崎八幡宮、周南市の遠石八幡宮、山崎八幡宮、下松の花岡八幡宮など沢山の八幡様がある。山口県には八幡様が異常に多い。
 壱岐にはインターネットに記載されてある神社仏閣が50余もある。また天照大神から出雲の神々、八幡宮など八百万の神が仲良く合祀されているのが特徴である。
  神功皇后は三韓征伐をし、百済と新羅の王子を人質として大和へ連れて帰ったと言う。そして皇子の家庭教師として、405年応神天皇は王仁(わに)を招き、王仁は、百済新羅から織工、縫工、鍛工、船匠などの優れた技術者を伴って来日し、論語10巻と千字文を献上したと言う。
平山旅館の男風呂には、”神功皇后が応神天皇に産湯を使う”絵が描かれている。


 長島君のお世話でバスを1台貸し切っての壱岐観光
 壱岐は、東西20Km,南北15Km、面積138Kuの本島と大小26の島々からなる。『三国史・魏書・東夷(東の未開人国)・倭人の条』(280年〜290年に書かれたとされている)には『対馬国からまた南に海を渡る一千里、名づけて瀚海(かんかい対馬海峡)と言う。一大(支)国に着く。官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑狗母離(ひなもり)という。四方三百里ばかり、竹林や雑木林多く。3千戸ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せども、なお食するに足らず。また南北に市糴(してき:商売をして米などを入手して暮らす)する。』と記載されている。ここに出てくる『一支国』の王都が『原(はる)の辻遺跡(紀元前202〜紀元後350年頃)』で、大陸と倭国を結ぶ中継地として、又海の王都として島全体が大いに繁栄していたことが伺える。倭人伝に出てくる国の中で、その王都が判明したのはここだけである。壱岐は小さな島だが、かっては大陸文化が運ばれた街道であり、また外敵の侵略を受けた受難の地にもなり、その歴史を語る遺跡が数多く見られ、正に歴史の宝庫と言える。
 
15時30分博多発のジェットフォイールヴィーナスは時速80Kmの巡航速度で76Kmを1時間10分で郷ノ浦港に着く。
長島夫妻が出迎えてくれた。


まずは猿岩を見物して
、今晩の宴会場の湯本温泉、平山旅館へ行く


岳の辻
朝9時ホテルを出発し、まずは壱岐で一番高い岳へ登ると、
郷の浦港が眼下に見える。
岳の辻から北東を見ると稲穂が黄色く見える所が原の辻遺跡


壱岐のむぎ焼酎を見学する。
 日本に蒸留の技術が伝播したルートとして東南アジアから琉球経由の南ルートと、大陸からの壱岐経由の北ルート説がある。
 壱岐の焼酎は、16世紀に大陸から焼酎作りの蒸留技術が伝わり、米の少ない壱岐では麦を使った焼酎作りが芽生えた。
麦2米1の割合で仕込み、米麹を使い、レギュラー品でも3〜4年熟成させて、常温蒸留させる壱岐焼酎として完成した。現在は7つの酒蔵が切磋琢磨している。また壱岐焼酎は、平成7年に産地ブランド指定を受け、『琉球泡盛』、『球磨焼酎』と共に、原産地名『壱岐』を冠することが世界貿易機関から保護産地指定を受けている。早朝から試飲した。



紀元前202年から紀元350年頃にかけて栄えた海の王都、原(はる)の辻遺跡  
 1993年長崎県教育委員会は壱岐島の原の辻遺跡が、『魏志』の『倭人伝』に書かれている一支(いき)国の王都跡であると発表した。倭人伝に記載された国々の中で、中心集落が特定出来たのは原の辻遺跡が初めてである。2000年11月国の特別史跡に指定された。弥生遺跡としては、静岡県登呂遺跡、吉野ケ里に次ぐ3番目である。竿秤や重りらしき物も出土し、7世紀だとされていた度量衡整備が、さらに400年以上も遡ることになる。また船着場跡の発見は、世界最古を300年以上も遡る紀元前1世紀に出来たものである。また大陸の土木、建築技術を使った構築物や中国、朝鮮半島の土器と日本国内の土器等も出土しており、、『南北に市糴する』の様相が伺え、海の王都の証である。
原の辻遺跡
の盛衰
@紀元前202年原の辻遺跡で弥生人が居住を始める。
A紀元前82年大規模な環濠集落となる、船着場が建設される。これは航海技術を持ち込んだ有力な集団がいたから出来た。又倭(奴国)による後漢への朝貢と北九州地域の連合体が再編成され、連合体の後ろ盾によって交易基地としての整備が実現した(第2次整備)。このことを知って壱岐島のあちこちの集落から原の辻遺跡に移り住む者が多くなり、一支国と呼ばれるほどの勢力に成長した。。
B170〜210年倭国大乱が終息し、卑弥呼共立による邪馬台国連合体制へ編入し、城塞化した集落の環濠が埋められ、邪馬台国の一員としての国の役割を果たして行く。
C350年頃原の辻集落は解体していった。楽浪郡は313年に、帯方郡は314年高句麗に滅ぼされた。一支国は中国との外交場所である楽浪郡、帯方郡を失ったことが、交易システムの崩壊が起こり、大集落としての存在意義を失い解体して行った。原の辻遺跡(一支国)は大陸との交易の中継地であり、海の王都であったのだ。
C原の辻が衰退しても、壱岐では、古墳時代(3世紀末から7世紀)になると、豪族によって原の辻周辺に古墳が256基も次々に造られた。ヤマト王権の元に繁栄した。

原の辻遺跡では、楽浪郡や帯方郡そして狗奴国の製品も出土している。経済交易活動によって培れた航海術は、邪馬台国が帯方郡を通じて魏と外交関係を結ぶとき、その架け橋としての役割を担うことになる。その際の食料や水の補給の中継地点としての機能も発揮した。

竿秤や重りらしき物も出土し、7世紀だとされていた度量衡整備が、さらに400年以上も遡ることになった。 人面石:これは祖先の霊を祀るものであろう
 船着場跡の発見
 卑弥呼が中国魏の天使に朝貢として奴隷10人、娘壱与は奴隷30人と沢山の物を持って行った。玄界灘の荒海を乗り切るには頑丈な大型の船が必要であった。壱岐は対馬と共に中国大陸や朝鮮半島からの文物をいち早く取入、北部九州へ伝える役目を果たして来た。一支国に到着した船団は、原の辻遺跡の1.5Km東の内海に停泊し、小型の舟に物資を移し替えて、川を遡上し、船着場に至った。多くの渡来物が海を介して交流して来た。ここ原の辻が、『南北に市糴する』の証でもある。(発掘『倭人伝』より)
 昭和38年専門課程1年金関丈夫教授の解剖学講義風景を思い出した。真面目にみんな講義を聴いていた。一番前で講義を聴いているのは誰でしょうか?この後ろ姿は平岡君だ。しかし期末試験の合格者はなんと3名だった。難しかった!
 当時土井が浜遺跡を精力的に発掘していた金関先生は、進化(縄文人が進化して弥生人になった)説を否定して、弥生人渡来説を提唱した。
 原の辻遺跡は、土井が浜遺跡と同じ頃である。


古墳時代−大和朝廷の支配下に入る。
 壱岐では、3世紀から7世紀の古墳時代になると、豪族によって、次々に古墳が256基も造られた。、円墳が主で、県下一の前方後円墳もある。原の辻遺跡が解体しても、小さな島に、6〜7世紀に何故このような大型の墳墓が次々と築造されたのだろうか?
 その背景は大和王国と大陸との関係において、壱岐が重要な海の中継地としての航路の掌握や天候予測などにおいて大きな役割を担っていたと推測される。当時の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅が勢力を争い、それに大和政権も進出して、非常に緊張していた。倭国からも大軍が派遣され、壱岐の豪族は大和政権に加担(磐井の乱も)したので、大和政権は壱岐の豪族たちを支配下に置き、経済的援助をしていたと思われる。占いに用いる亀甲も、大和政権との関係を裏づける畿内系の土師器や、新羅系の有頸土器も出土している。大陸との中継地という重要性は、8世紀の律令体制になってからも引き継がれ、国郡制度の中で、壱岐は国としての扱いを受け、国府が置かれた。大陸の先進文化をいち早く吸収しながら、南へ北へと活動し、経済力を持った豪族たちは、自分が永眠する墓こそが自らの権威を示すことが出来る場所と考えたのではないだろうか?突如巨大な墓を作り始めた。
鬼の窟古墳 掛木古墳



6世紀末から7世紀前半頃の築造。円墳で、墳丘は直系30m
直径45m,高さ13mの大型円墳。6世紀後半から7世紀前半


少弐公園
  ここ瀬戸浦一帯は、4万もの蒙古東路軍が攻め込んで来た弘安の役の古戦場跡である。
 弘安4年(1281年)元東路軍は6月6日から博多湾で戦いをしたが、疫病が流行し、13日壱岐へ退いた。瀬戸浦、芦辺海上にいる元軍をめがけて薩摩軍、肥前軍などが攻撃を仕掛けた。7月2日まで戦いは続いた。4万もの蒙古東路軍に対して、壱岐守護である19歳の少弐氏は激戦の末討ち死にした。7月30日江南軍も博多湾に到着した。14万、5千艘の元軍に大型台風が襲い、元軍には10万の溺死者を出し、壊滅した。蒙古の大軍に対して、国境の島には何の防備も増強されず、鎌倉幕府は、はじめから壱岐、対馬を見捨てていた。
 元寇が残したものは何か? @このような鎌倉幕府や太宰府の無策の怒りと生活苦が壱岐海賊衆の活動に発展して行くことになる。A神風、神の国という幻想を遺産として残し、終戦まで多くの日本人をしばり続けた。(壱岐の風土と歴史より)
壱岐神社:1281年元寇で戦死した少弐資時を祀ってある


昼食は豊月のウニ丼
美味しかった。

14時15分芦辺港発のジェットフォイールに乗り込む、
歴史を探索し、美味しい壱岐の魚を沢山食べ、綺麗な空気を胸一杯吸って一路博多へ
長島君お世話になりました。
皆さん、来年富山でまたお会いしましょう。

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