船着場跡の発見
卑弥呼が中国魏の天使に朝貢として奴隷10人、娘壱与は奴隷30人と沢山の物を持って行った。玄界灘の荒海を乗り切るには頑丈な大型の船が必要であった。壱岐は対馬と共に中国大陸や朝鮮半島からの文物をいち早く取入、北部九州へ伝える役目を果たして来た。一支国に到着した船団は、原の辻遺跡の1.5Km東の内海に停泊し、小型の舟に物資を移し替えて、川を遡上し、船着場に至った。多くの渡来物が海を介して交流して来た。ここ原の辻が、『南北に市糴する』の証でもある。(発掘『倭人伝』より) |
昭和38年専門課程1年金関丈夫教授の解剖学講義風景を思い出した。真面目にみんな講義を聴いていた。一番前で講義を聴いているのは誰でしょうか?この後ろ姿は平岡君だ。しかし期末試験の合格者はなんと3名だった。難しかった!
当時土井が浜遺跡を精力的に発掘していた金関先生は、進化(縄文人が進化して弥生人になった)説を否定して、弥生人渡来説を提唱した。
原の辻遺跡は、土井が浜遺跡と同じ頃である。 |