日本人のルーツを訪ねて 吉 野 ケ 里 魏志の倭人伝の世界
 吉野ケ里歴史公園は、昭和61年から本格的な文化財の発掘調査が行われた結果、我が国の弥生時代(紀元前3世紀から紀元後3世紀)最大の環濠集落であることが確認された。また魏志の倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせる建物跡などが発見された。吉野ケ里とは、当時30カ国あったと言われるどこのクニの都かは、未だ不明であるが、弥生後期の終わりごろに壊滅したと考えられている。考古学上の大きな謎であった『日本の国はどのようにして出来上がったのか』という謎を説き明かすのに必要な弥生社会600年間の流れを、吉野ケ里は1つの遺跡だけで辿って行ける。
 弥生時代の大きな特徴は、中国大陸や朝鮮半島から稲作農耕文化と金属器文化が伝わり、戦い(大量虐殺と労働奴隷)が行われた600年間でした。
 ここ吉野ケ里は、北は1000mの背振山が要塞の役目をしており、温暖な気候と豊富な水に恵まれた標高10〜26mにある肥沃な土地にあり、穀倉地帯に適している。また南は有明海に面している。有明海は、反時計回りに時速10Kmの潮流があり、波穏やかで、航海には安全である。干満潮差が国内最大の約6mあり、満潮時には平野の奥深く潮が上り、大量の物資運搬に適している。

吉野ケ里の弥生人に扮した孫たち
木の鎧を着て、盾と鉾を持った兵士が集落を守っていただろう。
 敵の侵入を防ぐために、先を尖らせた杭(乱杭)や、鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて(逆茂木)、敵の侵入を防ぐバリケードの役割をはたしていたと考えられる。吉野ヶ里では、東の正門の他にも、一番重要な区域に近い門の左右などに、こうした設備が見つかっている。


南内郭

桜観(物見櫓) 朝鮮系無文土器。これは新しい文化(青銅器作成)を携えて渡来した人々又はその子孫が住んでいたと推測される。

出土した甕棺.大きいものは高さ125cm,外径90cmもある 石庖丁と石鎌−稲の穂を摘み取る

 11基の甕棺から絹布や麻布が出土している。絹布はすべて国産であった。弥生時代の中期以後になると、緯糸によりをかけて織られている。これは中国の高級な絹織りの技術が伝わっていたと思われる。また日本茜で染めた経糸と貝紫で染めた緯糸を織った2色の存在も確かめられている。
 麻についても細い糸を密に織り上げられている。上質の絹布を生産する技術が存在し、下着や上着の違いや、衣服の種類によって麻布と絹布の使い分けもあったものと考えられる。
 まつり縫いを施した後、方向を違えた布を縫い合わせており、後生の衣服の縫い合わせと同じである。袖付きの衣服が存在していた可能性も高い。
 麻の服の上に染色された多様な絹の衣をまとっていた人や、絹を重ね着したり、多種多様な絹や麻の衣をまとった人が埋葬されている。

魏志の倭人伝と吉野ケ里

 正始(せいし)四年(二四三年)倭王は、また大夫の伊声耆(いせき)、掖邪狗(ややく)など八人をつかわし、奴隷、絹織物、赤と青の混じった絹織物、綿いれ、しろぎぬ、丹、弓の部品、短弓の矢などを献上した。』
魏志の倭人伝と吉野ケ里 『住民の風俗は淫らではない。男は髪をお下げにして、冠はかぶっていない。木綿の布を頭からからかぶり、束ねて結んだだけで、ほとんど縫うことはない。婦人も髪は垂れたところを曲げて、束ねている。一重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服とする。』
  と記されているが、木綿は倭国には存在しなかったので、麻のことだろう。

竪穴住居:ここは、吉野ケ里の集落をはじめムラムラを治めていた王や大人(リーダー)たちが住んでいた場所と考えられている。

大人の家のベットで寝る孫。
僕のベットの方が気持ち良い。

     魏志の倭人伝と吉野ケ里
 『倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みんな裸足である。家には部屋があり、父母、兄弟、別々に寝る。朱丹を体に塗るのは、中国の人が白粉を塗るようなものである。食事は竹の器を使い、手で食べる。』



北内郭
ここは、吉野ケ里を中心とする国全体にとって最も重要な場所とされている。2重の濠に囲まれており、一般の人は中に入ることを許されていなかった。
主祭殿:2階は吉野ヶ里の指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、
                 3階は最高司祭者(巫女)がお告げを授かる様子が再現されている。これが卑弥呼か、それとも天照大神か? 
 

               魏志の倭人伝と吉野ケ里
 『その国はもともと男子を王としていた。七・八十年前、倭国は乱れ、何年もの間攻撃しあっていた。そこで、国々は協議して一人の女子を王にした。 名前を卑弥呼という。鬼道を行って良く人々を惑わせた。歳はすでに長大であるが、夫や婿はいない。弟がいて政治を助けている。卑弥呼が王になってから、卑弥呼を見たものはいない。千人ぐらいの召使が身の回りの世話をしている。 男一人が、食事を差し入れたり、命令を伝えたりするために、出入りを許されている。
 
宮殿には楼閣(たかどの)や、城柵などが厳重につくってあり、警備兵が常に武器を持ち守衛している。』
−−と記載されているが、宮室は北内郭を、楼観は物見櫓を、城柵は環濠を指していると考えられており、これらが初て具体的な形で見つかったのが、吉野ケ里遺跡である。
 『この国の風俗は何かを命令したり、おこなったりする時はまず骨を焼いて、卦をたてる。そして、吉凶を占って、その結果を告げる。この占いの方法は中国の亀卜に似ています。焼いてできる裂け目を見て占いをたてるからである。



北墳丘墓
ここは吉野ケ里の歴代の王が埋葬されている特別な墓と考えられている。
甕棺墓列:甕棺は北部九州に特有の棺である。大型の素焼きの土器に、亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋葬する。その上に、土饅頭を設ている。埋葬品の中には、中国後漢時代の銅鏡や鉄刀などが人骨と共に出土した。内部からは硫化水銀と考えられる赤色顔料が確認された。大陸文化流入の玄界灘側の地方だけでなく、この地方でも既に交易が行われていた。ここには200基を越える甕棺が600mにわたって埋められている。また吉野ケ里全体では15千基以上の甕棺が埋められていると推定されている。甕棺は佐賀県と福岡県が多く、大分県や熊本県には少ない。鹿児島県は1基のみであり、山口県にはない。
 弥生時代の前期になると、甕棺の中に武器とか鏡などの副葬品を入れるようになる。これはそれまでの社会に無かった来世観の転換があったのだろうか。中国では、原始的道教の思想が風靡し、秦の始皇帝が不死の仙薬を求めて徐副を東方の海上に遣わしたことが伝えられるし、不死思想が日本に及んて来たのかも知れない。

    北墳丘墓(奥の台形の土地)
  中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもあった。このお墓は、弥生時代の中頃、紀元前1世紀の弥生時代の首長の墓である。その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として、人々から大切にされていた。

    魏志の倭人伝と吉野ケ里
 『死ぬと棺に入れるが墓室のようなものは無い。土をもって塚をつくる。喪にふくすのは、十日余りで、その間は肉を食べない。喪主は号泣し、他の人は飲酒をして歌った踊ったりする。埋葬が終わると、家中の人が水中に入り、洗い清める。それはまるで中国の練木のようである。
 この時(正始八年、二四七年)、卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。直径は百歩余りで、男女の奴隷を百人以上殉死させた。あらためて男王を立てたが、国中は不服として、そのため殺し合いになった。当時千人余りを殺した。』



中のムラ
 
 高床式倉庫が建てられている。  ここは、北内郭で行われる、祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを、神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられている。神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられている。



倉と市
海外や日本各地の国々の特産品が集まる盛大な市が開かれていた。またさまざまな品物が保管されていた倉庫が集まっていた。
環濠と土塁
環濠に囲まれた規模は40haを超え、外環濠の総延長は2.5Kmにも及ぶ
国の大倉   高床式倉庫群

蚕を飼って絹を紡いでいた。

  魏志の倭人伝と吉野ケ里
 『稲と麻など繊維をとる植物を栽培したり、蚕に桑を与えて糸を紡いで、絹糸や綿糸などを作る。
 牛、馬、虎、豹、羊、鵲などはいない。武器には、矛、楯、木弓などをもちいる。 木弓は、上が長く、下は短く、鉄の矢じりを使う。(海南島の)耳や朱崖などの都と同じである。』



武器庫  弥生時代には、鉄板を曲げて鉄製品を作っていた。その鉄板は朝鮮半島や中国から輸入されていた。鉄鉱石や砂鉄から鉄を作り出す技術は、弥生時代には無かった。鋳型は、銅剣、銅矛など13個が発見されており、青銅器工房も発見されている。国内における青銅器生産の先進地が佐賀平野であった。

 魏志の東夷伝には『国は鉄を出す。韓国、倭、皆従て之を取る。諸市買うに皆鉄を用う』と記されている。 倭人も競って鉄を求めていた様子が伺える。鉄を手に入れた者が弥生時代を征したのではなかろうか?また鉄をめぐる紛争も多かったものと推測される。

  魏志の倭人伝と吉野ケ里

 『身分の低い者が、身分の高い人と道で出会うと、ためらいがちに草むらに入る。何かを話したり、説明したりする時は両手を地に付けてひれ伏せる。これを、尊敬の態度としている。返事をする時は「おお」という。それは同意したということのようだ。』


 倉と市の中心的な建物である市楼と、海外や国内のクニグニと取り引きされた物資などが収められている倉庫群があったと考えられている。また、市を管理する「市長[いちおさ]」と呼ばれる人の住居もここにあったようだ。
魏志の倭人伝と吉野ケ里
 倭人伝には、『租賦を収む、邸閣あり、国々に市あり、交易の有無は大倭をしてこれを監せしむ』とあるように、租賦を収める。収めた税を入れる大きな倉もある。国ごとに市があり、お互い、あるものないものを交換し合う。また租賦を収むる邸閣がある国々には、市が存在するとも解釈出来る。
 国ごとに交換は大倭が監督して行わせる。この『大倭』とは、ヤマト、大和ではないだろうか?でも6世紀までは『倭』であり、7世紀終わりから『大倭』と書くようになり、『倭』を嫌がって『大和』に変えたのは8世紀半ばに養老律令(藤原仲麻呂)が行った。『大倭』の意味は不明である。
 『その人たちは皆長生きで百年、若しくは八、九十年生きたりする。この国の風俗は、偉い人はたいてい四、五人の妻があり、庶民でも、二、三人は妻を持っている。婦人は、淫らでなく、嫉妬もしない。泥棒や訴訟などはあまりない。もし法を犯すと、軽い罪ならその妻子を取り上げる。重い罪はその家を滅ぼし一族までも罪が及ぶ。身分の上下にはそれそれ等級がついている。お互いの上下関係は上手くいっているようである。』と記されており、当時の暮らしが想像出来る。

 中期前半(紀元前200年前後)までは、朝鮮半島の青銅器文化の影響が強く感じられる。集落跡、甕棺墓、朝鮮系無文土器、銅の鋳型などがある。これらの文物は朝鮮半島からの渡来した人々またはその子孫によって製作されたのだろう。
 中期前半以後になると中国楽浪文化の影響を強く感じる文物が出土している。青銅製素環頭付き鉄製刀、鉄製蝶番、鉄製斧、漢式鏡、貨泉などがある。
 沖縄や奄美の南海産貝殻で作った腕輪を大いに好んでいたようで、ゴウホラ貝も2個発見されている。
 倭や韓の首長は、地域社会統合のために、中国王朝の傘下にあることを、環濠集落の構造や象徴的な建物などの施設によって示す必要があったものと推測する。
 どうして縄文時代の終わりごろに、人々が急に日本にやって来たのだろうか?
稲作栽培は、揚子江流域から伝わって来た。その時期は、中国の政治的な混乱。例えば、漢の武帝が朝鮮半島の北部を占領して植民地楽浪郡を作った。秦の始皇帝が国家を建設した紀元前221年のころその戦乱を避けてやって来たとか、呉越の乱のようなときに戦争を逃げた人々がやって来たと言う説である。

魏志の倭人伝と吉野ケ里
 『正始八年、二四七年)、郡の太守の王(おうき)が、報告のため(魏国の)官に到着した。この時、卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。あらためて男王を立てたが、国中は不服として、そのため殺し合いになった。当時千人余りを殺した。倭人たちはまた、卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(とよ)を王に立てた。国中はようやく、定まった。張政は前の回状を使って、台与を励ました。台与は、倭の大夫で率善中郎将の掖邪狗(ややこ)ら二十人を派遣し、張政らを帰国を送らせた。ついでに彼らは、魏の中央官庁に生口三十人を献上し、白珠五千、大玉の青メノウ二枚、異国の模様のある絹織物二十匹を貢いだ。』とある。その後吉野ケ里は、弥生後期の終わりごろに壊滅したと考えられている。

吉野ケ里公式HP
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