たたる出雲(やおよろず)の神々
祟る出雲(八百万)の神々
出 雲 神話から青銅器・鉄器の王国へ

 学校の日本史の教科書は、ほぼ7世紀から始まっている。これは、『日本書紀の記述は6世紀以前は全く信憑性が無い、ましてや神話なんて、、』というのが史学会の常識だったからであろう。今山陰地方の考古学が進展したことにより、『出雲王国』が実在していたことが確証できた。古事記には、葦原中国(出雲王国)はわが子が支配する国だとして、神々を次々に降臨させるが、帰伏させる事が出来ず、ついに天照大御神は天鳥船神と建御雷(たけみかずち)神を大国主神のもとへ遣わした。そしてこの国は『天照大御神のご子孫に差し上げましょう』と言わせたのである(天孫降臨より)。8世紀の大和朝廷は、出雲王国の実在を知っていたからこそ、出雲を神話にしてしまい、日本の歴史を抹殺しなければ政権の正当性と正統性を証明出来なかったのだ。すなわち大和朝廷が出来る以前に日本には別の王国、出雲王国が存在していたことを、神話が語っているのである。この王国が倭国の中心として、日本海沿岸はもちろん遠く瀬戸内海や中国,朝鮮半島と盛んに交易が行われていた。
 日本で文字による記録が残されるのは奈良時代の古事記(712年稗田阿礼が暗誦していた帝記を太安万侶が編纂した)と日本書紀(720年天武天皇の命を受け、舎人親王らによって編纂された日本最古の国史)である。しかし古事記の内容は、大化改新(クーデター)を起こした天智天皇と藤原鎌足の正当性を主張し、蘇我氏と須佐之男命を悪者扱いにしているが、その内容からは古代の人々の考え方や習慣が読み取れる。古事記の神話の1/3は出雲に係わった神話で占められている。 出雲の神様は、大国主命(別名大黒様)、恵比須様などの現世利益の神様と、須佐之男命のように祟りと暴れん坊の神様がいる。何故出雲の田舎(?)に日本一大きな出雲大社が出来たのであろうか?
 出雲風土記は713年五月に中央政府から出された命令により製作に着手させ、733年に完成した。出雲の由来が『八雲立つ出雲』とか、国引き『新羅の岬が余っているから綱をかけて引いて縫い合わせた』とか記載されている。
島根半島と朝鮮半島は300Kmの距離である。冬を除けば波穏やかな日本海であり、大陸との往来や西は九州、東は東北ともつながっていた。lこのように出雲は僻地ではなく、大陸や半島との文化の玄関口であった。 紀元前600年頃中国大陸や朝鮮半島から稲作と金属器を持った弥生人が対馬海流に乗って出雲に渡来して来た。渡来系弥生人と縄文人との間で衝突が起ったが、青銅器と鉄器を持つ弥生人が優位に立ち、縄文人は東に追いやられ、須佐之男命と奇稲田姫のように混血も進んでいった。紀元160年の頃になると、新羅から渡来した須佐之男命の一族が出雲王国を作り上げ、山陰一帯を平定化すると、須佐男命は、今度は主力の一部を北九州に向わせ、不弥国、奴国を攻略し、次いで伊都国を攻撃した。これが倭国大乱(後漢書の146−189年)の始まりであり、ここ出雲は、北陸地方、近畿地方、東日本へ鉄素材を流通させる拠点となり、日本列島の中でも重要な地位を占めるようになった。弥生時代の出雲は、稲作農耕に関する祭祀に用いられた光り輝く銅剣、銅矛や銅鐸など青銅器の文化が華やかであった。魏志の倭人伝の邪馬台国と争っていた狗奴国が出雲王国ではないだろうか?卑弥呼の死後、倭国で最も繁栄していた出雲王国(須佐之男命の子孫の大国主神)は、4世紀中(350年頃)に倭建命(景行天皇の子、仲哀天皇の父)によって滅ぼされた。なのに古事記では戦いではなく話し合いで国譲りが行われたと記されている。これは
天照大神と須佐之男命の争いでもあり、中国長江流域(呉の国)からの渡来人と朝鮮半島(新羅)からの渡来人の争いでもあった。




素盞嗚尊(日本書紀)須佐之男命(古事記)−鉄と神話

 日本書紀では盞嗚尊、古事記では須佐之男命と記されているのであるが、日本書紀神代第八段一書第四によると、『高天原で乱暴狼藉を働いた須佐之男命は、追放され、子供のイタケルを率いて、新羅国のソシモリに舞い降りたという。ところが須佐之男命はこの地にはいたくないと言い出し、船を造って東に向い、出雲の斐伊川の川上の鳥上峰に至った』という(海峡を往還する神々より)。
 出雲風土記(733年完成)には、有名な国引神話が記されている、『出雲国は狭く出来て間もない国なので、よその余った土地をもって来て、縫い合わそう。新羅の三崎が余っているからと、網を掛け引き寄せた。それが日御碕だった』と言う。須佐之男命は新羅からの渡来人だろうと推測される。須佐之男命は砂鉄を求めて移動する韓鍛治(からかねち)だったのではなかろうか。そして出雲の砂鉄を独占支配して、勢力を拡大したのではないだろうか。

 一方魏志の東夷伝には『国は鉄を出す。韓国、倭、皆従て之を取る。諸市買うに皆鉄を用う』と記されている。また後漢書の東夷伝にも『国は鉄を出す。倭、馬韓、並び従いて之を市す。凡そ諸貿易、皆鉄を以て貨と為す』と記載されている。倭人も競って鉄を求めていた様子が伺える。鉄を手に入れた者が弥生時代を征したのではなかろうか?また多くの墳墓の中には朱(水銀)が塗られている。朱は不老長寿の薬と言われている。水銀を求めて倭国へやって来たのではないだろうか?
 須佐之男命一族は、鉄器、青銅器を鋳造する為に必要な木炭を生産する炭焼きを始めた。1回のタタラ製鉄で得られる鋼2トンの為に、砂鉄は24トン、木炭28トン、薪はなんと100トンを要すと言う。大量の山林を食べ尽くす製鉄の民は、新たな森林を求める。禿げ山が多い朝鮮半島と比べ、湿潤で樹木の成長が早い日本の気候と風土が是非とも必要であった。須佐之男命は、燃料を求めて来日した渡来人たちの姿と重なってくる。
 須佐之男命で有名な神話は、『八岐大蛇を切り倒すと、尾っぽから草薙(アメノムラクモノ)剣が現れ、クシナダヒメを助けて結婚した』という八岐大蛇退治だ。この草薙剣が天皇家の三種の神器になっている。そして古事記(天武天皇)からすれば悪者であり、出雲国では尊敬される須佐之男命は不思議だ!
 魏志の倭人伝には、『
その国(邪馬台国)はもともと男子を王としていた。七・八十年前、倭国は乱れ、何年もの間攻撃しあっていた。そこで、国々は協議して一人の女子を王にした。名前を卑弥呼という。鬼道を行って良く人々を惑わせた。歳はすでに長大であるが、夫や婿はいない。弟がいて政治を助けている。卑弥呼が王になってから、卑弥呼を見たものはいない』と記されている。239年の7、80年前、すなわち紀元160、170年頃、暴れ者の須佐之男命が北九州の奴国や伊都国を攻めて争っていたのだろう。それは朝鮮半島で鉄鉱石が精錬され、この鉄を北九州で鍛治(加工)していたからである。239年頃、『倭の女王卑弥呼と、狗奴国の男王は前から仲が悪かった。』とある狗奴国が、出雲の国ではないだろうか。3世紀後半にはヤマト王家が建国され、大国主命は草薙剣を差し出して忠誠を誓ったのであろう。他の三種の神器である勾玉、銅鏡も出雲の特産物である。
鉄歌謡博物館

斐伊川
ここが斐伊川の上流である広島と島根県との分水嶺 出雲おろちループ−国道314号線を3つのトンネルと11の橋で結ぶ全国最大規模の2重ループ方式道路

たたら跡の赤い川。  
八岐大蛇の流した血が川を赤く染めたと言うが、砂鉄の色だったのではなかろうか?
  あるいはタタラ製鉄集団と大和との抗争を意味する神話ではないだろうか?
  八岐大蛇の赤い目は、たたらの炎を、尾から現れた刀は、たたらによって作られる鉄ではないだろうか?
等という解釈もある。

 スサノオは「根の国」に行く前に、姉の天照大神に挨拶に行った。一時はスサノオをかばっていた天照大神でしたが、調子に乗ったスサノオが高天原で散々乱暴を働いたので、ついに怒って『天の岩戸』に隠れてしまった。天照大神が隠れてしまったので地上は闇になり、混沌となる。八百万の神々は天照大神の怒りを解こうと色々儀式を行うが、そのクライマックスが「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」の踊りです。
 この「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」は桶を伏せた上で半裸になり踊ると、その姿に周りの神々が大笑いしたので、この声を聞いた天照大神が顔を覗かせた瞬間、手力雄(タヂタラオ)命が手を引っ張り、天照大神を引き出し、この世に光が戻った。
 天照大神が復帰した事で高天原はもとの平静な姿に戻るが、神々は高天原を混乱させたスサノオを改めて、高天原より追放した。そこで、スサノオの命は地上に降って行くが、そこが出雲国の斐伊川の上流であった。
 斐伊川の上流にたどり着いたスサノオの命は、流れてきた箸を見て川上に誰か居るに違いないと、さらに上流を目指して歩いて行くと娘を中に泣いている老夫婦に会った。泣いている訳を聞くと、八頭八尾の途方も無く巨大な八岐大蛇(やまたのおろち)と言う怪物が娘(奇稲田姫くしなだひめ)を食いに来ると言います。そこで、スサノオは怪物退治をする事になった。
 まず、奇稲田姫を櫛に変身させ自分の髪に刺し、次に強い酒を作らせ、八つの甕(かめ)を用意した。やってきた八岐大蛇は酒を飲み酔っ払ってしまったので、やすやすと退治することが出来た。
 このとき、大蛇の尾から一本の剣が出てきた。スサノオの尊はこの剣「天叢雲剣(あめのムラクモのつるぎ)」を天照大神に献上した。これが天孫降臨に際して天照大神がニニギノ命に持たせ、
天皇即位で使う「三種の神器」の一つとなった。
 
         奥出雲たたらと刀剣館

  高天原から追放された須佐之男命は、斐伊川の鳥髪の地に降り、八岐大蛇を退治して、奇稲田姫(クシナダヒメ,すばらしい稲田の女神と言う意味)と結婚した。渡来の弥生人が、先住民の縄文人を妻としたことになる。
 
 斐伊川を襲う台風を八岐大蛇に、暴風雨が稲田を荒らすことを稲田姫を食い殺すことになぞったのではないだろうか?須佐之男命がこの稲田の女神を助けると言うことは、氾濫して暴れるこの川の治水を行ない、荒れ狂う自然を天つ神が征服し、農耕を定着させたことを意味すると思われる。
斐伊川の上流  横田駅前の稲田姫像
横田町は稲田姫生誕の地である
出雲国の炭焼きの煙が『八雲立つ出雲』と呼ばれるようになった。

須我神社:八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した須佐之男命が、宮を構えるため、この地を訪れた時、大変すがすがしい気持ちになったというので「須賀」と呼ばれるようになったという。

   八重垣神社
 須佐之男命と奇稲田姫を祀ってある。須佐之男命が、大蛇を退治したあと、稲田姫と新居を構えた地といわれ『八雲立つ出雲八重垣妻ごみに、八重垣つくるその八重垣を』の歌で有名です。社殿には日本最古といわれる神様の壁画が描かれています。社殿の奥の森の中には、稲田姫が鏡として使ったといわれる鏡の池があります。この池は、コインを紙に載せて浮かべ、その沈む速さによって縁談を占う占いの池として有名です。
 出雲の国名の起源といわれ、また和歌発祥の地といわれている。

国宝神魂(かもす)神社




たたら(鑪、踏鞴)で鉄を作る
 炎を吹き上げるたたらの炉と排出されるノロ(砂鉄の不純物と浸食された炉壁が混ざりあったもの)。

 
たたらとは、粘土で築いた炉に砂鉄と木炭を装入し、フイゴで空気を送り込み70時間かけてケラ(鉄)を生産する日本古来の製鉄技術を云う。これは、日本独自に発達した製鉄技術である。たたらは原料の砂鉄を木炭の燃料熱で還元して鋼を作る『ケラ押し法』と『ズク押し法』がある。ケラ(金偏に母と書く)はたたらで出来る鉄の塊だ。このケラを砕いて成分によって分類し。それぞれの目的にあった加工をして各種の鉄製品を作って来たのである。

 ヒッタイト(世界に先駆けて鉄器を使用した国、無敵の戦車部隊)で生まれた製鉄は、縄文時代末期に大陸を経て日本に伝わり、弥生時代の初期に伊都国や出雲の国で鉄器の加工が始められた。当時は鉄鉱石から作られた鉄素材は朝鮮からの輸入に頼っていたが、弥生時代中期には製鉄が開始され、砂鉄が主流になって行く。出雲国風土記にも『小川に鉄あり。諸郷より出す所の鉄、堅くして、もっとも雑具造るに堪ふ』と記されている。(鉄の道を行く)
 金属器を征した出雲王国が日本海側を征したが、それ以上に渡来人特に百済系渡来人を使って大量の鉄を作り、征した大和朝廷が弥生時代を統一し、また戦国時代鉄砲を征したものが全国を統一した。明治政府は富国強兵策として釜石と八幡に製鉄所を作った。


 たたらを経営していたのは、鉄山師(鉄師)と呼ばれる製鉄にかかわる産業の総合経営者であった。松江藩の最大の交易品であった鉄師を9人に限定したり、たたらや鍛冶場から税金を取ったりするなど鉄師を厳しく統制した。その一方で、炭を作る山の独占を許したり、また準武士として優遇し、たたらを主要な産業として育てた。鉄師には絲原家、桜井家、田部家などがあった。作られた鉄は、北前船にて大阪、小樽まで運ばれて行った。
絲原記念館-1636年たたら製鉄を開始し、松江藩鉄師頭取として栄えて来た絲原家伝承の美術工芸品とたたら製鉄資料が展示されてある。1923年までの280年間たたらの火を燃やし続けていた。。

たたらの建家は、四本の主柱(押立柱)があり、10間角にもなるものもあった。 桜井家−屋号を可部屋と称した松江藩鉄師頭取

     260年も遅れていた日本の製鉄
 隆盛を誇った出雲のたたら製鉄も、西洋式近代製鉄法が国内で普及すると経済性で対抗出来ず、衰退の一路を辿る。
 明治になり各地でたたらの火が消えて行く中、日本古来のたたらに西洋式製鉄法を取入た角炉による木炭銑の製造が昭和12年から20年まで行われていた。煉瓦造りの炉で、送風には水路と水車を動力源としたフイゴが利用され、1〜3カ月連続の操業が可能となった。
 たたら製鉄は、4昼夜毎にいたむ炉を築きかえて操業していた。日本の技術は、ヨーロッパに遅れること260年後に、やっと水車動力送風の角炉に到達した。その間ヨーロッパでは、燃料も石炭、そしてコークスへと進歩し、連続生産で銑(ずく)が大量に生産出来るようになっていた。しかし日本では未だ4昼夜かけて銑を作り、大鍛治技術でこれを熱して鍛えて(精錬)いたのである。(鐵の道を往くより)
 その当時の角炉を修理して、平成5年より伝承館として公開している。
奥出雲たたら角炉伝承館

 2世紀後半に須佐之男命は、新羅からたたら集団を率いて森を求めてやって来た。奥出雲の斐伊川で砂鉄を集め、炭を焼き、鉄を製鉄した。朝鮮から輸入した鉄素材を巡って北九州の国々と争った。これが倭国大乱である。
 弥生時代後期から始まった出雲のたたらの技術は6世紀頃から発達を初め、江戸時代に最盛期を迎え、松江藩では鉄作りの鉄師を9人に限定し統制と保護を行った。よって、日本の製鉄の八割を奥出雲で作っていた。明治になり釜石と八幡製鉄所が出来ると衰退の一路を辿った。




荒神谷遺跡

 紀元前1世紀作られた青銅器は、2世紀の中ばに集落から離れた見晴らしの良くない丘陵斜面に埋められた。昭和59(1984)年に銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見された。ここでは銅矛と銅鐸が一緒に出土した。これまでは近畿の銅鐸文化圏と九州の銅矛、銅剣文化圏の二大文化圏説が定着しており、同じ場所から銅矛と銅鐸は出ないと言うのが学会の通説であった。

昭和59年に発見された荒神谷遺跡  ここの斜面に銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が埋発掘された。 全国で出土している銅剣は300本であったことからすると、驚くべき数であった。よって平成17年に国宝に指定された。

島根県立古代出雲歴史博物館の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から発掘された銅剣、銅矛、銅鐸が展示されてある。   平成10年国宝に指定された荒神谷遺跡出土青銅器
 当時はこのような青い色ではなく、金と銀との中間のような光り輝く色であった。


             2006年10月6日開館した荒神谷博物館            国宝に指定された銅剣、銅矛と銅鐸のレプリカ。
 銅鐸のルーツは、中国や朝鮮半島で家畜の首に付けられた小さな『鈴』だと言われている。弥生時代前期の終わりごろ、日本に伝わるとしだいに大きくなり、『祭りの神を招くカネ』と言われている。上の孫が持っている銅剣と私が持っている銅矛は実用の武器として弥生初期に大陸から伝わり、出雲で作られるようになってから『悪霊を払う祭器』へと変った。

出土した銅剣、銅鐸や銅鉾の特徴は、
@銅剣の長さは、59.9cmから48.1cm。
A同笵の銅剣は、43組113本であった。
B製造は、出雲の可能性が強い。特に荒神谷の銅剣は同じ鋳型で製造されたものが多いことから、同じ場所で同じ時期に製造されたことが考えられる。また鋳型から取り出された後、研磨されることなく埋蔵されたものもある。よって出雲で製作された可能性が高い。
C銅剣の配合は、銅85%、錫10%、鉛5%が多い。
D鉛の分析の結果、銅剣A26には朝鮮の鉛が含まれていた。他の銅剣は中国(華北)産であることから、A26が製造モデルではないかと言われている。
銅剣と銅鐸が同一場所で同時期に生産された可能性が高いとされている。
E同笵の銅鐸は、2号銅鐸が京都梅が畑と、3号銅鐸が徳島県脇町出土と同じであった。出雲で制作された銅鐸が各地に広がったといわれている。
F銅矛は研ぎ分け模様から佐賀平野東部の地域に出土する銅矛の特徴であることから、北九州で製造された銅矛が荒神谷に運び込まれたと考えられている。
G何故出雲の地に、このようにたくさんの青銅器が埋められたのであろうか?祭祀説(雨乞い、収穫、地鎮など豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀)、保管説(儀式の時に取り出して使うために、普段は土中に保管した)、隠匿説(大切な宝である青銅器を外部者から奪われないために隠した)、破棄説(鉄器を持つ大和朝廷に征服され、青銅器を捨てさせられた。)、などが考えられる。

 弥生時代の初めに渡来人から銅と錫を混ぜて青銅という合金を作り、それから青銅製品を鋳造する技術を学んだと考えられる。銅を溶かすには1084度と言う高熱が必要である。
  荒神谷博物館展示ガイドブックより 荒神谷遺跡
鉛は全て5%、錫は1が0%、5%ずづ増えてN08は35%。錫の割合が多くなると、色は青銅色から金色を経て白色になり、硬くなる一方で粘りがなく、折れやすくなる。



加茂岩倉遺跡
 荒神谷遺跡の南東約4kmの地点で、史上最多の39個(奈良県から総数20個の銅鐸が出土している)の銅鐸が、平成8(1996)年に出土した。
2000年の眠りから覚めた銅鐸

銅鐸は、鳴らす物=聞く銅鐸から見る銅鐸=遠くから仰ぎ見る物へと変っていった。
 約45cm大のものが20個、約30cm大のものが19個の合計39個。そして大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を納めた入れ子状態が15組、同じ鋳型で作られた同笵銅鐸が39個の内15組26個、他の日本各地で出土した銅鐸の中にも14個の同笵銅鐸が確認された。銅鐸の表面には、シカ、トンボ、イノシシ、カメや人面などの絵が描かれているのものが7個、また×印が刻印された銅鐸が14個見つかった。
やはり古代出雲が青銅器王国あったことが証明されたことになる。環濠や集落が廃絶する時期と荒神谷や加茂岩倉遺跡に青銅器が埋納され、青銅器の祀りが終わるころと同じである。

 天皇家は最初は九州にあり、東征しながら近畿地方へ行った。大国主神が高天原にいた天照大神に国を譲り、自らは出雲大社に隠れる『国譲り神話』。青銅器を信仰の対象として栄えた出雲国は、鉄器を持つ大和朝廷に征服され、青銅器を捨てた。その真実の痕跡を『国譲り神話』は残しているのだと思う。3世紀半ばないし後半のことである。



須佐神社須佐之男命終焉の地
紀元160年頃から238年まで倭国は乱れ攻撃しあっていた、倭国大乱とは何だろうか?
 須佐男命は、出雲で生まれたとも、朝鮮から来て出雲を征服したとも言われている。山陰一帯のオロチ族と戦い、さらわれた奇稲田姫を取り戻して妃とし、出雲国王に納まった。これが倭国大乱の始まりであり、紀元160年の頃である。山陰一帯が安定して平定化すると、須佐男命は、今度は主力の一部を北九州に向わせ、不弥国、奴国を攻略し、次いで165年頃伊都国を攻撃した。当時の伊都国の男王高木神は大軍の前に如何ともし難く甘木方面に逃げ、若き女王大ヒルメは現地妻とさせられた。これが倭国大乱九州編である。九州を大ヒルメに一任して須佐之男命は出雲へ帰り、ここ須佐の地で死亡したとされている。
 須佐神社
−須佐之男命を祀る神社は、須賀(すが)神社、素鵞(そが)社と云う。須賀がなまってゾガに、宗我はスガとも読む。このように出雲のスガがなまってソガになったと考えられる。須佐神社の由来(須佐神社社務所発行)によると、須佐大宮司家が国造に命じられたのは、成務天皇30年(160年)のことであると記載されている。神社の由来と魏志の倭人伝の記載とが一致する。

 蘇我氏も須佐之男命も新羅からの渡来人であり、二人は親新羅派であった。大化改新後の大和朝廷は百済と結び、新羅−唐連合軍と白村江で戦い、負けて、倭国は朝鮮半島から撤退した。
 二人はどこか似ている。もしやして同一人物ではないだろうか?
天照社



勾玉伝承館
 出雲の玉造遺跡は、現在約100遺跡が知られており、弥生時代前期から平安時代にかけれ盛んに玉造が行われた。大和朝廷での祭儀に用いる玉とされており、その重要性が伺える。青メノウ(碧玉)は出雲石と呼ばれ、出雲しか産出しない。玉造の勾玉を須佐之男命が天照大神に献上し、これが皇位継承の印である三種の神器の一つ『やさかにのまがたま』となったことが記されている。


上:古墳時代前期の勾玉と管玉
碧玉、メノウで作られた玉類
松江市上野1号古墳
(古代出雲歴史博物館展示ガイドより)

勾玉とヒスイを購入し、自分でこのような羽織紐作った。
ワイヤーを通して、S字環でなくて、ビーズ工芸から選びました。

 ←テレビ『厩戸皇子(うまやどのおうじ)』に使用された出演者の勾玉が展示されてある。これを見て、孫たちは勾玉が欲しくなった。男の孫まで勾玉を買った。




神原神社古墳
 昭和47年川の拡幅工事によって発掘された。4世紀中ごろの前期古墳で、山陰で最も古い古墳と考えられている。25m×29m,高さ5mの方墳で、竪穴式石室であった。出土品の『景初3年の銘文がある三角縁神獣鏡』は邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝から賜った100枚の銅鏡の内の一枚ではないだろうか

     三角縁神獣鏡
 卑弥呼が魏に使いを出し、卑弥呼に銅鏡100枚を賜ったと言う。その239年の銘がある。全国で2面が発見されている。
 青銅文化が終わりをむかえる頃、日本列島では古墳文化(3世紀中頃〜)が花開く。村の祭りで使われた青銅器は役目を終え、新たに銅鏡が盛んに持ち入られるようになる。銅鏡は大和朝廷から各地の首長個人に配られ、彼らの権威に与えられた。さらにその死後には、共に古墳に副葬された。
島根県では56面が出土している。
棺内には多量の朱が塗られており、素環頭大刀,剣など多数の鉄製品が出土している。

西谷墳墓群

 青銅器の祀りをやめ、四隅突出型墳丘墓を作る社会に変わったようである。四隅突出型墳丘墓は、紀元1世紀初めに出雲で出来て、日本海側に広がった墓で、現在109基確認されている。倭国大乱の時代に盛んに作られた。これは九州北西部で作られた支石墓が起源だと言われている。出雲では木棺墓の上を石で覆った配石墓が、発展したと考えられており、朝鮮半島から渡来した鉄器製作集団とその集団の宗教が関わっているとの説もある。1世紀初め(弥生時代後半)から紀元3世紀頃(古墳時代中期)に作られた山陰地方独特の墳丘墓である。出雲から東北南部の会津若松までの日本海側で発掘されている。これは出雲勢力が日本海をまたにかけた交易と交流によって発展していたことの証拠である。鳥取県の青谷上寺遺跡と妻木晩田遺跡からは大量の鉄が発掘された。この遺跡が繁栄したのは大和建国直前である。出雲は、北九州を経由せずに、吉備、大和という鉄の流れを作り上げた。
 4世紀半ばには、出雲からも四隅突出墳丘墓がなくなり、前方後円墳30基(全国で140基)があることは、出雲王権が大和政権に服従した証拠である。

 四隅突出型墳丘墓。1辺は50mもある。出土した土器からは、吉備地方や東北地方と密接な交流を持っていたことも明らかになっている。出雲では2世紀後半に大陸や朝鮮半島から運ばれる鉄や先進的な品々の流通を押さえた各地の王の権力がピークに達したことを反映している。さらに荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した多量の青銅器が埋納された後に作られた墳墓群である。

上は修復中の3号墓と、下は平成24年修復後の3号墓52m×42m×2.5m
墓頂部からは8つの墓穴が発見され、第一埋葬からは大量のアクセサリーが、第4埋葬からは鉄剣が発見された。埋められた墓は2重構造の木棺で真っ赤な水銀朱が敷き詰めっれていた。
        左は修復された2号墓

西の谷墳墓群は、弥生時代の出雲王の代々の墓であろうと考えられている。
 斜面と裾まわりを大量の石で飾られている。地下には2号墓展示室が再現されている。
2百数十個の土器が出土し、出雲の土器は2/3で、残りは丹後から越前,加賀に見られるものが60個、吉備の土器が30個あった。
 四隅突出型墳丘墓は、丹後や若狭には築かれず出雲から福井、富山県と飛び石状に伝播されている。これは出雲と越の間で海人の交易が活発におこなわれていたのであろう。


 古事記によると、『第12代景行天皇の第2子(小碓命)、倭建命は熊曾(熊襲、くまそ)征伐を命じられ、熊曾を平定すると、帰路出雲の国にいらっしゃった。それは出雲建という服従しないものを殺そうとするためであった。倭建命は、彼とまず友達になられた。まずあらかじめ、密かにいちいの木でにせの刀を作って、その刀を腰に差しておられた。そして出雲建と一緒に斐伊川で水浴びをされた。倭建命は先に斐伊川からお上がりになって、出雲建がはずしておいた刀を腰につけて、”刀を換えましょうや”と冗談のようにおっしゃった。その後で、出雲建は川から上がって、倭建命のもっていた、偽の刀を腰につけた。ここで、倭建命は”さあ、刀合わせをしようじゃないか”とおっしゃって、そこで二人がおのおのその刀を抜こうとすると、出雲建はにせの刀を抜くことが出来なかった。倭建命は、すばやくその刀を抜いて、出雲建を打ち殺してしまった。このように服従しない人々を平定して、大和に帰って、その旨を天皇にご報告された。』とある。出雲王国を滅ぼしたのは、倭建命(仲哀天皇の父、応神天皇の祖父)である。この悲運の武将倭建命は九州の熊曾から、出雲、そして関東の蝦夷まで平定して、大和朝廷の基礎を築いた人である。



八雲立つ風土記の丘古代出雲の国造りの中心地『意宇おう』であった。
ヤマト政権下の墓
 6世紀中ごろの、全長24m,幅14m,高さ3.5mの前方後方墳である。出土した刀剣には、『額田部臣』を含む12文字が判明した。

 出雲風土記は733年に中央政府に提出された。

前方後方墳は、全国で400基を超える、そのうち出雲には40基あまりが作られている。前方後円墳は出雲には80基あまり築かれている。
            山代二子塚古墳
 島根県最大の前方後方墳で、6世紀中頃の築造で、出雲国造の墓とも言われている。1925年日本で初て『前方後方墳』と言う名称がつけられた記念すべき古墳。全長94m、高さ7.5m。出雲西部には全長90mの前方後円墳の大念寺古墳が出現しており、出雲の平野には、大きく2つの勢力が存在していたと考えられている。
           向山1号古墳
 30mを越える方墳で、加工した石を組み合せて造られた出雲地方独特の石棺式石室が良く保存されている。特徴ある石棺やかんぬき模様の浮き彫りが刻まれた扉石などもある。6世紀後半に造れられた。


装飾付大刀の興亡
 右:6世紀後半、出雲の豪族の装いを上塩治築山古墳の出土品から復元したもの。上:大和朝廷の工房で製作された環頭大刀。北部九州と越に集中している。(古代出雲歴史博物館より

 古墳時代中期から後期にかけて、刀剣の装飾は日本史上ほかに例を見ないほど豊かになった。この時代日本列島は大王や豪族を中心にまとまっていたが、装飾付大刀は最も高級な太刀で、彼らの権威を高めるための重要な道具であった。
 身につけた冠や大刀、馬に付られた馬具はいずれも大和朝廷で製作され、与えられたもので、彼が出雲での最高位の豪族であることを大和朝廷が認めた証拠であった。

 装飾大刀は、金、銀、銅、漆、玉、布などで飾られた大刀です。
 7世紀中頃、日本は律令国家設立に向けて動きだし、やがて装飾大刀は作られなくなり、律令社会に変って行った。



出雲大社

 国譲りを迫る天皇家に対して、巨大な住居が欲しい。だめなら祟ってやる!
出雲大社は出雲を滅ぼし、3種の神器を奪い、仏教を広めたヤマト(藤原氏)への大国主命と日本古来の神々の祟りだ。(天満宮は藤原時平の讒言により失脚した菅原道真の祟りだ。) 
 崇神天皇の段には、その時代に疫病が大流行して、人民が死に絶えようとしていたとある。そしてその時、天皇の夢に、大物主神が現れて、『この病気は私の祟りなのだ、だから私の霊を祭らせば祟りはやんで、国は安らかになろうとお告げになった。』と書かれている。そこで大物主神の魂を三輪山にお祀りした。すると、疫病はすっかりやんで、国家は平安になった。
 また垂仁天皇の御子は大人になるまで物が言えなかった。その天皇の夢に神が出てきて、『私の宮を天皇の宮殿と同じように整えたら、御子は必ずきちんと話せるようになるだろう』と言うので、そこで天皇は『その夢は出雲大神の御心によるものだ』と、御子を出雲に参拝させた。するとその御子は言葉が話せるようになり、天皇は出雲の宮殿を新しく造らせたとある。
659年斉明天皇は、新羅と唐の連合軍との戦いの戦勝祈願の為に、出雲大社を修厳(改めて造らせた、修理させたとも)させたとある。

神々の国ー神話

大国主命が国造りに悩まされたとき、海の向こうから光り輝く神が現れた様子です。その神は大和の三輪山に祀れと告げられたので、お告げに従った。 大国主命と因幡の白兎

稲佐浜:毎年旧暦10月に全国の神々が出雲に到着されるところで、神迎えの神事が行われる。またこの砂浜は国引き神話や国譲り神話など多くの神話に登場する古代からの神聖な場所です。


出雲神社対八幡宮
 古事記に記載されてある『大国主神の物語』は、大国主神(須佐之男命の6代後の子孫、出雲大社の祭神である)が作った出雲の国を天照大神の子孫に譲り、その代償として出雲大社を建ててもらったことになっている。出雲の国譲りは、一方的な侵略であり、非は天皇家の祖神にある。
 たたりだ!祟りだ!! 三種の神器を奪い、出雲の国も奪った祟りだ。極悪人は第10代崇神天皇かそれとも15代応神天皇か?そして藤原鎌足か不比等か?ヤマトの都は天災地変に襲われた。仏教を広めて収めようとするが、収まらず、大国主神(八百万神)を祀り、国内最大の神社を建てて、丁重に祀り、祟りを鎮めようとした。そして出雲王国の完成と繁栄を、高天原に比定される大和王国が強引に譲渡を迫ったと古事記は語っている。
 出雲では10月は神在月と言い、全国の神々が出雲に集まるという伝承がある。また諏訪大社の祭神は、建御名方神(タケミナカタノカミ)である。大国主神の国譲りに反対であった長男の建御名方神は諏訪まで逃れ、諏訪の地で王国を築いたという。
 また須佐之男命を祀ってある神社は、八坂神社(祇園社)、津島神社(天王社)、氷川神社、須賀神社、素盞嗚神社、八雲神社などがある。大国主神を祀ってある神社は、出雲大社、氷川神社、大神神社、大和神社などがある。武蔵野国の一の宮である氷川神社は須佐之男命と稲田姫、大国主神を祀ってある。氷川神社はさいたま市を中心に埼玉県下、東京都下、神奈川県下にその数280社を数えている。八坂神社(祇園社)は京都の八坂神社を本社として西日本に多い。津島神社(天王社)は愛知県津島市の津島神社をはじめ中部や東海地方に多い。約3千社ある熊野神社も。このように出雲王国は関東をも支配していたことが伺える。
 また一宮に大国主命や須佐之男命を祀ってあるのは、下野国の二荒山神社、近江の国の建部神社、能登の国の気多神社、越中の国の高瀬神社、越前の国の気比神社、丹波の国の出雲大神宮、播磨国の伊和神社、美作国の中山神社、備後国の素さ鳴神社、安芸の国の厳島神社などがある。このように全国に出雲の神々を祀ってあることは、かって出雲王国が存在していたことが想像出来る。出雲を滅ぼしたのは、八幡宮である。
 須佐之男命とその子孫である大国主神は、日本列島を豊かな土地に変え、米作を普及させて日本の基礎を作った偉大な国津神である。この国津神のトップである須佐之男命を高天原神話に取り込んだのではないだろうか?
 天つ神が来たら、潔く天つ神の子孫に国を譲らなくてはならない。これが古事記(日本国家の政治)の基本である。奈良時代の支配者が、この日本の国に古くからいた民族の子孫であったならば、こんな神話は伝えなかっただろう。これは明らかに外国から来て日本の国に君臨した支配者が、その支配を合理化するために作った神話であろう。

BC  3000 出雲平野に人が住み始める。
600 稲作青銅器、鉄器が伝わる
弥生〜平安時代 玉造で玉造の遺跡
50 荒神谷遺跡の青銅器が作られる
AD    50 四隅突出型墳丘墓
2世紀半ば 荒神谷遺跡の青銅器が埋められる。
倭国大乱。須佐之男命が出雲の王となり、北九州を攻撃し、邪馬台国の支配下に置く
160 須佐神社の須佐家が国造に命じられる。
239 卑弥呼魏へ使者を送る。三角縁神獣鏡
3世紀後半 大和政権の国内統一が進む。
4世紀半ば 倭建命により出雲は滅ぼされる。
以後出雲に前方後円墳が出現する
391 倭国は新羅、百済を従えて高句麗と戦う。以後両国は倭国へ王子の人質と朝貢をする。
405年 百済の阿直岐、博士王仁など応神天皇の招きで日本に渡来し、論語、漢字を伝える。皇子の教育をする。
418年 新羅国使殉難の碑(新羅王子を対馬から奪回する。)対馬
6世紀末 装飾大刀が大和で作られ、各地の王や豪族に配られた。
593 聖徳太子摂政となる
645 大化改新(蘇我入鹿、蝦夷を殺す)。親新羅派の蘇我氏が死亡し、倭国は百済支援に傾く
659 出雲大社を修造
663 百済と倭軍は新羅・唐連合軍に敗れ、朝鮮半島から撤退する。
710 平城京遷都
712 古事記献上される。


2007年3月10日開館の島根県立古代出雲歴史博物館
 祟る出雲は、巨大な出雲神社に良く現れている。出雲神を恐れて、これを丁重に祀るためにとてつもない大社を建立した。古事記によると、天照大神から国譲りの強要を受けた出雲の大国主神は、『私の住む場所は、天神の御子が住まわれる天の住居のように宮柱を太くして、高くして祀って下ださるのならおとなしく出雲にとどまっていましょう。』と、これは脅しである。

 現在の出雲大社の本殿は、高さ24mを誇るが、かってはその倍の48m,あるいは3倍の72mもあったと言い伝えられて来た。平安時代には、『雲太、和二、京三』と言う言葉があって、この時代の最も大きな建物は、1番目が雲太=出雲大社、2番目は和二=東大寺大仏殿、3番目は京三=平安京大極殿だったと言われている。
 200年4月発掘調査で伝承が真実となった。出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見された。これは、1248年造営された棟をささえる柱で、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれていた。
 鉄を制したものが日本を制した。弥生時代に、鉄の流通と青銅器を信仰の対象として栄えた出雲は、渡来人に沢山の鉄器を製造させて鉄器を持つ大和朝廷に征服され、衰退の一路を辿った。そして三種の神器も大和朝廷に奪われた。その後平城京は天災地変が起こり、人々は出雲の祟りだと恐れおののき、日本一(東大寺より)大きな出雲大社を作り、日本古来の神々(八百万神)を祀ったのだろう。
 日本の神話は、8世紀に権力を握った藤原不比等の自己弁護のためのお伽話が神話のもう一つの顔であった。神話は歴史を抹殺する為の道具に利用され、藤原不比等の創作物語りは見事に我々を騙し続けてきたわけだ。古代史は深い迷宮に入ったままとなり、学校の歴史教科書はほぼ7世紀から始まっている。日本人は大切な国家の黎明期の記憶を失ったままであった。最近の出雲をめぐる考古学の進展で、今までの常識が覆されてしまった。かっては、日本一の王国であり、近々その王都が特定されることだろう。そして日本国家成立が明らかにされることだろう。



 では誰が日本の歴史を粉飾したのか?  古事記、日本書紀編纂頃の天皇家系図
 700年頃に歴史書(古事記、日本書紀)を編纂し、神話が残された理由は、大和朝廷が7、8世紀に大転換を迎えた。すなわち大化改新(645年、中大兄皇子と中臣の鎌足が蘇我入鹿を殺し、改新の詔を発したり、百済復興の為に新羅遠征を行った。)と壬申の乱(672年、天智天皇の太子大友皇子=弘文天皇に対し、皇弟大海人皇子が反旗をひるがえし天武天皇となった。)そして藤原氏(中臣鎌足は、中大兄皇子と共に蘇我氏を暗殺し大化改新で活躍した。その子藤原の不比等は持統天皇と結び、再度天武系から天智系を再興した)の400年続く繁栄を正当化する必要があった。持統天皇は、天武天皇の正妻であり、天智天皇の娘でもある。

 天武天皇には多くの皇子がいたので、皇子が皇位を継承するのが自然だが、天武天皇の正妻という立場を強調して持統天皇(686〜697)が即位した。持統天皇は藤原不比等と手を結び、天智天皇系王家を再興したことになる。天武天皇系王家は48代称徳天皇で途絶えてしまい、50代桓武天皇は天智天皇の曾孫である。以後は天智天皇系が皇位を継承する。その一方で王家を交替させることで変らぬ繁栄を勝ち取った一族がいる。たんなる繁栄ではなく、天皇家を自由に動かし、権力を欲しいままにする一族、すなわち中臣鎌足、藤原不比等の末裔、藤原一族だ。神話は、この藤原氏一族を正当化するために粉飾された国書である。
   (神話に隠されている日本創世の真実)

 また日本書紀、古事記は中国や韓国に対抗して、神武天皇の即位を紀元前660年としたところから、歴史を粉飾し美化した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』持統天皇http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87


奥出雲オロチ号横田駅に停車中

古事記  古代史研究邪馬台国は出雲に


石見の夜神楽
 神様を祀る時に、曲に合わせて舞う神事を神楽と言う。起源は、民間信仰の農神にささげる田楽系の行事が石見神楽の原型だと言われている。それが平安時代末期から室町時代にかけて石見一円に普及した。神官が上演していた神楽は、明治維新の神職演舞禁止令により土地の人々に受け継がれるようになった。また元来は6調子の穏やかなテンポであったが、明治時代に快活な8調子と言う速いテンポに変えられた。大蛇、天神、八幡,塵輪、恵比寿、頼政、道返しなどの演目があり、夏から秋にかけて石見地方で毎晩演じられる。、
 大蛇:高天原を追われた須佐男命は、出雲の国の斐の川にさしかかると、老夫婦と娘が泣き悲しんでいた。訳を聞いた命は、大蛇に毒酒を飲ませ退治した。その時大蛇のお腹から出てきた剣を雨のむらくもの剣と名ずけて、天照大神にささげ、後に草なぎの剣と改名され、三種の神器の一つとなった。助けられた娘櫛稲田姫は須佐男命と結婚し、地の産業と治水に努力し、石見と出雲の国を発展させる。

囃子にもちいられる楽器は、大太鼓、小太鼓、横笛、銅拍手で加除はされない。 八幡:宇佐八幡宮に祀られている八幡神が、異国から悪魔王が日本に飛んできて人々を苦しめているので、自ら神通の弓に方便の矢をもって退治する物語。

古代史(日本人のルーツを訪ねて
天孫降臨薩摩天孫降臨日向 ・日向1. 日向2呉服の国 蘇州神話の国 出雲吉野ケ里渡来弥生人説 土井ケ浜魏志の倭人伝対馬壱岐末盧国伊都国八幡宮一の宮