天孫降臨   日向(ひむか)王朝   NO.1

 高千穂に天孫降臨した、ニニギの命一行は、先住民の居ない、稲作に適した、豊かな土地を求めて移り住んで行く。そして縄文人(先住民)と結婚して勢力を拡大し、4代で薩摩と日向を支配下に治め、さらに良い国を求めて大和へと攻め登って行く。ここ日向にも鹿児島と同じ伝承がたくさん残っている。
 神話の頃には、九州一円は『筑紫の国』と呼ばれていた。古墳時代には、現在の鹿児島と宮崎は、『日向国』と呼ばれ、国府は西都原に置かれていた。703年に分割されて薩摩国が出来、国府は川内に置かれた。713年には薩摩国がさらに分割され、大隅国が出来、国府は国分に置かれた。

@ニニギの命の代

西 都 原
  日本で最も古いと言われている『古事記』、『日本書紀』には、日本神話の根幹をなす出雲神話と同じく日向神話のことが書いてある。その伝承の中心になっているのは、高千穂の峰に降臨したニニギの命が豊かな国を求めて海路で笠狭の御崎に着く。そしてここ西都原地方に本拠地を定め、ここで山の神である大山祗神の娘、コノハナサクヤ姫と出会い結婚する。この出会いから出産にまつわる伝承が、西都原一帯に色濃く残されており、古事記の『記』と日本書紀の『紀』から名ずけた『記紀の道』を訪ねてみた。西都原は出雲に匹敵する神話の町であると同時に、古墳の町でもある。

  都万神社:天孫ニニギの命の妃、コノハナサクヤ姫を祀ってある。
 837年官社になったと言われる。3皇子生誕の地とされ、縁結び、安産の神様として有名。
 結婚はコトカツクニカツナガサの神が媒酌を取り持ち、華燭の式典を挙げられた。日本最初の結婚式とされており、古来からこの結婚の喜びにあやかりたいと崇敬の篤い宮です。
千年楠の洞木:木洞を通ると、夢がかなう、幸せ招く、願がかなうと言われている

山の神大山祗(ずみ)神社
コノハナサクヤ姫の父大山祗神を祀ってある。
 大山祗神は、ニニギの命に二人の姉妹と共に多くの献上品を差し出した。妹のコノハナサクヤ姫は美しかった。ニニギの命は姉のイワナガ姫が余りの醜くかったので、大山祗神の元へ送り返した。
コノハナサクヤ姫が3皇子にお乳代わりに甘酒を作って育てたと言われることから、ここが日本酒発祥の地。

   御舟塚
 ニニギの命は、高天原から船に乗ってこの地に着いた。古事記には『そししの空国を行き去り吾田の笠沙の御前に至ります。』とある。かってはこの地まで海が入り込んでいたと言う。

 ニニギの命は、痩せた不毛の土地を通って、先住民のいない稲作に適した土地を求めてやって来たことが伺える。

逢い初め川:ニニギの命が、この小川で水汲みをしていたコノハナサクヤ姫を見初め、結婚を申し込んだ場所だと伝えられている。
鹿児島県の野間半島と並んで二人の合った場所の比定地とされている。。

   ハ尋殿(やひろでん)跡
 ニニギの命がコノハナサクヤ姫との新婚生活のために建てられた御殿の跡

  無戸室(うつむろ)跡:1夜の契りを交わしただけで懐妊したコノハナサクヤ姫が夫ニニギの命に疑われて、戸のない産屋を作り火をかけて無事に3皇子を出産した場所。これは国つ神の王者の娘としては最大の屈辱である。親子共々焼身自殺を試みたのであろう。

 児湯の池:コノハナサクヤ姫は炎の中で3皇子を無事出産した。皇子の産湯として水を使った池。今でも泉がこんこんと湧いている。 石貫神社と西都原古墳群を結ぶ石段。(昭和15年頃に寄進されたそうです)

大山祗神が鬼の窟から投げた石は、1Km離れたここまで飛んできたと言われている。
この場所に石貫(いしぬき)神社を作り、コノハナサクヤ姫の父、大山祗(ずみ)神を祀っている。

西都原古墳 西都原古墳

東西2.6q、南北4.2qの広い地域に点在する古墳群は周囲が大自然に包まれ、311基の古墳がある。古墳の形態は、円形墳、前方後円墳、方形墳、地下式古墳等からなり、3世紀後半から7世紀前半に造られた。西都原古墳群の存在は、古代から相当な規模の国がこの地にあったことを思わせるが、 その古墳の大部分はいまだ発掘されないまま、多くの古代の謎を秘めて千数百年もの時を眠り続けている。

 鬼の窟(206号)古墳:外堤と2重の周溝を有する直径37、高さ7.3mの円墳で、開口した横穴式石室を持ち、3回以上の埋葬が行われている。西都原古墳最後の首長(6世紀後半〜7世紀前半の飛鳥時代)の墓と考えられている。
 この地方に住む悪鬼がコノハナサクヤ姫を嫁にと請い、これを断る為に父の大山祗神は、一夜で石造りの館を所望した。鬼は夜を徹して朝日の出る前にこの窟を完成させたが、鬼がうたた寝をした隙に、父神は早速窟の天井石を1個抜き取り、谷間に投げ飛ばし未完成として、鬼の申し入れを断った。との伝説に由来して名づけられている。
 土塁で囲まれた古墳の石室は、大きな石を使って横壁を内側に傾け、天井は巨大な石で覆われており、明日香の石舞台と同じである。石舞台は中大兄皇子と中臣足鎌によって滅ぼされた蘇我馬子の怨霊鎮めである。ならば鬼の窟も祟りをなす霊の封じ込めであろう。それは誰であろうか?熊襲(大和朝廷に従わない者)か?大和から逃げ帰った神武天皇の子供たちの子孫だろうか?

男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚
築造は5世紀の前半とされている。

 明治28年にニニギの命とコノハナサクヤ姫の陵墓参考地をして治定された。

 

男狭穂塚:墳長160m,円径部直径132m,後円部高さ18mと日本最大の帆立貝式古墳。
 第12代景行天皇は、日本書紀によると6年間日向の高屋宮に滞在した時、その地のミカハシ姫を娶って皇子が生れた。皇子の名をトヨクニワケノミコトを言い、『これ日向の国造が始祖なり』と記されていることから、景行天皇の子の墓だと言う説もある。
女狭穂塚:墳長176m,後円部高さ15mの前方後円墳で、九州一の規模
仁徳天皇の妃であった日向命髪長姫の墓という説もある。

記紀の道を歩くと、町おこしにしては生々しい神話が生きている思いがする。また出雲王国に匹敵する日向王国が有ったことが伺える。



木花神社(宮崎市):ここにも都萬神社と同じコノハナサクヤ姫を祀る神社があった。
上:木花神社。コノハナサクヤ姫を祀ってある。荒れ果て訪れる人はほとんど無い。
左上:無戸室(うつむろ)、その跡とされるもの。
左下:霊泉桜川。コノハナサクヤ姫が3皇子を出産されたとき産湯に使ったと伝えられる霊泉


大御(おおみ)神社(日向市)
3代の亀。約100万年前、神社のおきにある海底火山の活動により、この海岸一帯は多量の火砕流が押し寄せて堆積した。そして固まったのが柱状節理です。 大御神社:天照大神を祭ってあり、日向のお伊勢さまとして親しまれている。

   神座(かみくら)  
 ニニギの命が当地に遊幸され、この岩にて絶景の大海原を眺望されたと伝えられている。(大御神社より)



可愛山(えのさん)陵。ニニギの尊陵墓伝承地(延岡市)

  延岡市の可愛岳(えのたけ・かわいだけ)の東麓に古墳がある。日本書紀によれば『、ニニギの命は「筑紫日向可愛之山陵」に葬られる』とある。陵墓伝承地として指定されているが、明治政府により鹿児島県川内市の可愛山陵が陵墓と定められた。宮崎にとっては「長州、薩摩の政府には反論出来なかったのであろうか。
 西南戦争の時、2万の西郷軍は田原坂の激戦で敗れ、人吉の攻防戦でも敗れ、8月15日ここ可愛岳に落ち延び、ここで西郷軍の解散をした。その後わずか500の兵と共に西郷隆盛は9月6日城山へとたどり着く。


Aニニギの命の三男のホオリ(火遠理、山幸彦)の命の代

青島神社

   ホオリの命(山幸彦)は、天孫ニニギの命の三男です。
 古事記によると、『兄のホデリの命は、海幸彦として、弟のホオリの命は山幸彦として暮らしていた。ある日ホオリの命は兄のホデリの命に、”互いに獲物をとる道具を換えて仕事をしてみたいと思うがどうだろう”と言って、道具を交換した。ホオリの命は兄の釣針を借りて、魚を釣ったが、一匹も釣ることが出来ないばかりか、その釣針を海の中に失ってしまわれた。兄は元の釣針を返せと言うので、ホオリの命は船に乗ってワダツミの神の宮殿に行き、宮殿の門の井戸のそばの桂の木に登っていると、やがて出てきたワダツミの神の娘豊玉姫は、井戸に映った山幸彦の姿を見つけて、一目で好きになって男女の交わりをされた。そして家の中に入って父のワダツニの神に報告すると、ワダツミの神はホオリの命と豊玉姫をすぐに結婚させた。その後手厚いもてなしを受けたので3年間その国に住んでいた。ある夜ホオリの命はここへ来た本当の目的を思い出し、豊玉姫に話をした。魚たちが”この頃赤鯛が喉にとげが刺さって、食べものが食べられないとぼやいています”と言った。そこで赤鯛の喉を探すと、釣針があったので、取り出した。ホオリの命は地上に帰って、その釣針を兄に返した。』。釣り針を持って陸に帰って来たのがここ青島だったと伝えられている。

ホオリの命(山幸彦)が海神のワタツミの神の宮から帰ってきた際、青島にたどり着き、当社がその住居跡と伝えられている。
ホオリの命(山幸彦)、豊玉姫、塩筒大神(しおづつのおおかみ)を祀ってある。


鵜戸神社
 山幸彦(彦火火出見尊)が、ワタツミの神の宮から帰られた後、青島から鵜戸の地に移り住んでいたら、 その後、豊玉姫はホオリの命の所へ来て、『私はすでに身ごもっているのです。いまが丁度お産の月です。天つ神の子を海の中で産んではいけないと思って、わだつみの宮からここへ来ました』とおっしゃった。そこでさっそく産屋を建てた。霊窟に急いで産殿を造っていたが、屋根の鵜の羽の茅も葺き終らぬうちに御子(御祭神)はご誕生になった。故に、御名を『鵜茅葺合不命うがやふきあえずのみこと』と名づけた。

ご本殿:産殿の跡とされる洞窟内の朱塗りの色鮮やかな建物  亀石(桝形岩)がある。豊玉姫が出産の為に乗って来た亀であり、急に豊玉姫が竜になって帰ってしまったので、亀はここに取り残されて石になったという。この亀石に四角い穴があり、この枡形の穴に男性は左手、女性は右手で「運玉」を投げ入れ、見事入ると願いが叶うといわれている。

                  お乳岩とお乳水
 豊玉姫が息子ウガヤフキアエズの命のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える『お乳岩』。いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産・育児を願う人々の信仰となっている。お乳岩から滴り落ちる水でつくった飴を母乳がわりに、お育ちになったといわれている。現在のお乳あめもお乳岩から滴るお乳水で作られている。


 豊玉姫は、産屋に入られて産もうとされる時に、夫のホオリの命に、『一般に、他国の人は、子どもを産む時は、元の国の形に戻って産むものです。だから私も、いまは元の形に戻って、子を産もうと思いますので、どうかわたしを見ないでください。』とおっしゃった。それを聞いて不思議に思われたホオリの命は、そうとのぞき見をすると、わが妻は大きな鮫となって、腹這いになって、這い回っておられた。ホオリの命は、それを見て、驚き恐れて、逃げ退かれた。豊玉姫は『はずかしくて、もうお目にかかれません』とおっしゃって、産んだばかりの子を置き去りにして、わたつみの国に帰ってしまわれました。』 この子が神代3代のウガヤフキアエズの命である。
 天孫族は、国つ神(縄文人)と積極的に混血を図ったが、民族の違いは出産に於いてもっとも顕著に現われ、その風習の違いが多くの不幸を生んだ。日向での生活に耐え難いと考えた豊玉姫は去って行ったが、豊玉姫の妹タマヨリ姫がウガヤフキアエズの命の養育として残った。

    吾平山上陵(鵜戸神宮):神代三代の第3代目のウガヤフキアエズの命とタマヨリ姫の命の御陵、
 日本書紀に「葬日向吾平山上陵」とある。宮内庁御陵墓は鹿児島県吾平町の吾平山陵とされ、明治28年に鵜戸神宮の陵墓は伝説の地と指定されたが、こちらの方が本当の陵墓だと言う声もある。第3代目のウガヤフキアエズの命の事については、記紀は殆ど記載がない。


鹿野田神社(西都市)
神社の祭神はホオリの命(山幸彦)。海神から「潮満玉・潮干玉」をもらった山幸彦が、この玉で兄・海幸彦を懲らしめたという、「潮満玉・潮干玉」が御神体として祀られている。 潮満の井戸:日向灘から12Kmも離れているというのに、この潮満の井戸は海の干満に同調して水面が上下する。またこの水は、塩辛く昔から胃腸が丈夫になる水として利用されてきた。この御神水を求めて療養にやってきたのが和泉式部と言われている。

ホオリの命(山幸彦)は、日向王朝第2代目にして山、田、海の三つの支配を完成した英雄である。

Bニニギの命の孫のウガヤフキアエズの命の代については記紀は殆ど記載されていない。ウガヤフキアエズの命は母の妹のタマヨリ姫と結婚し、4人の男の子を産んだ。そして母と妻の里であるワダツミの神(隼人)の国に住んでいたのではないだろうか。日向王朝と隼人王朝の絆を強固にし、東征を可能にするほどの経済的、軍事的基盤を作った。


飫肥城下
1587年伊藤氏は、豊臣秀吉から飫肥藩6万1千石を与えられ、以後城下町として栄えた。

日向の小京都と言われる。
着物を着て行くと入場料はすべて無料であった。

   飫肥城跡

豫章館:明治2年飫肥藩主が飫肥知事に任命され、ここに移り住んだ 武家屋敷

ひむか神話街道
古代史(日本人のルーツを訪ねて
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