後漢書、魏志の倭人伝と古事記

 後漢書には、『57年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。光武賜うに印綬を以てす。』と、また『107年倭国王帥升、生口160人を献じ、請見を願う。』とある。
 3世紀頃の倭国の様子を記録してある唯一の資料が魏志の倭人伝である。魏志の倭人伝は、魏の後継の晋の国の著作朗という官職にあった陳寿がまとめた書物で、正史だから、信頼性が高いとされている。 陳寿は蜀の国で233年に生まれ297年に65歳で亡くなっている。邪馬台国の女王の卑弥呼とほぼ同時代の人である。正式には「三国志」魏書巻30東夷伝倭人条の略称で倭国の様子を2008文字の漢字に記録してある。
  600年から614年まで6回遣隋使を派遣した隋の隋書には、『倭国はヤマトに都する。則ち魏志のいわゆる邪馬台国なる者なり』という記述があり、この隋書によれば邪馬台国は大和にあったことが伺える。
 一方日本で最初に文字による記録が残されているのは奈良時代の古事記(712年稗田阿礼が暗誦していた帝記を太安万侶が編纂した)と日本書紀(720年舎人親王らによって編纂された日本最古の国史)である。皇紀元年を紀元前660年としているのに、239年頃の邪馬台国や卑弥呼については故意に削除し、また蘇我氏と須佐之男命を悪者扱いにしている。それは、藤原不比等と持統天皇が大化改新を正当化するためと壬申の乱によって奪われた皇位を天智天皇の孫に継承する正統性を主張するために、粉飾された国書ではないだろうか。
 よって古代史は深い迷宮に入ったままとなり、学校の歴史教科書はほぼ7世紀から始まっている。日本人は大切な国家の黎明期の記憶を失ったままである。早く日本国家成立が明らかになって欲しいと期待している。
 この度旅ワールド航空より『邪馬台国の謎に迫る 古事記と日本の古代史探訪の旅』2020年7月17〜24日8日間が計画され、参加して来ました。伊勢から、明日香山の辺の道出雲、博多(奴国金印宗像神社)、吉野か里へと中谷添乗員と15名の旅でした。

紀元前219〜4回 徐福と数千人が船出した。
紀元前2世紀末 前漢は楽浪郡という植民地を朝鮮半島北部に置き支配する
紀元前1世紀 北九州の倭国の100余りの小国が楽浪郡と交易していた
57年 奴国王の称号と金印が奴国王に与えられた。(後漢書)
107年 王師升が倭国王にされた。(後漢書)
220年〜265年
239年 卑弥呼が魏へ使者を送る。親魏倭王の称号と金印紫綬をもらう。
247年過ぎ 卑弥呼死す。
266年 壱与が西晋へ最後の使者を送る
413〜478年 倭の5王が中国に使者を送る。(晋書、宗書)
600年 遣隋使
645年 大化改新(中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼす)
646年 薄葬令により前方後円墳は廃止となる。
710年 平城京に遷都する

呉越の民と日本の統一

 紀元前1世紀から紀元後3世紀の日本列島では、国々が樹立し、国家形成へと歩み始めていた。それらの国々が大陸の王朝と政治的外交を持ち始めた時代でもあった。倭国の首長らは中国文物とりわけ銅鏡に高い価値を見い出し、積極的に中国王朝に朝貢して銅鏡を獲得した。そして従属する人々に鏡を下賜することによって政治的秩序を手に入れた。
  後漢書には、『建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬』と記載されている。これが志賀島で発見された『漢委奴国王』の金印である。
 通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。漢と通じる者は30余国。107年の倭国王帥升から倭国大乱までは国々に王がいたと解釈出来る。
 紀元後1世紀まで、初期筑紫連合政権と呼ばれる連合国家が出来ており、その中心が、北部九州であった。北部九州連合を樹立した国々は、甕棺墓という共通する墓制の文化圏を形成していた。その中で盟主たる人物の墓が『奴=須久岡本遺跡』、『伊都=三雲南小路遺跡』の二大王墓であった。この両墓には、30面以上の前漢鏡やガラスへきをはじめ豪華な副葬品があった。中でも伊都国王墓に副葬されていた金銅製の四葉座金具は、前漢の皇帝が倭国の王と認めて下賜した木棺の飾り金具であった。この二大盟主は威信財として銅鏡をたくさん副葬していて、その威厳を誇示している。この二大盟主を中心として他の国々が結集し部族連合のような階層的秩序があった。
 この2大盟主から舶載品の銅鏡に象徴される品々を下賜された地方の首長は、その見返りとして剰余物を差し出すことと部族連合を保持することに力を注いだ。この舶載品の配布と剰余物の収奪の構図が、部族連合を維持していた。しかし実質的な行政力や政治支配は、祭祀者が司るのではなく、別の人が握っていた。

 魏志の倭人伝には、『倭人は、帯方郡の東南の大海の中にいる。山の多い島で、国や村で成り立っていて、もとは百余りの国があって漢の時代には朝貢する者もいたが、今は使者や通訳など通ってくるのは、30カ国である。』、『その国、本また男子を以て王となし、住まること(238年の)七・八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年、及ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。歳すでに長大なるも、夫や婿なく、男弟あり、たすけて国を治む。王になってから、卑弥呼を見たものはいない。二三八年大夫難升米を派遣する。郡に来て、中国の皇帝に貢物をしたいと申し出た。』とある。倭国は乱れ攻撃しあっていたが紀元160年〜170年頃に大和王権によって統一され、男王の統治が数代続いていたと推測される。『共に一女子を立てて王となす』をしたのは邪馬台国の首長(大人)であり、邪馬台国以外の国々は卑弥呼の選出には関与出来なかったのではないだろうか?邪馬台国は一大卒、大倭を派遣して他の国々を監視する措置をとっており、他の国々に対して権力的に優位の立場にあったと思う。そこで邪馬台国は男王の世襲制と決別して、女王を擁立した。
  『倭国は乱れ何年もの間攻撃しあっていた』とは、須佐男命は、出雲で生まれたとも、朝鮮(新羅?)から来て出雲を征服したとも言われている。山陰一帯のオロチ族と戦い、さらわれた奇稲田姫を取り戻して妃とし、出雲国王なった。これが倭国大乱の始まりであり、紀元160年の頃である。山陰一帯が安定して平定化すると出雲の須佐男命は、当時鉄を半島から輸入して加工して栄えていたいた不弥国や奴国そして伊都国を、165年頃攻撃した。当時の伊都国の男王高木神は大軍の前に如何ともし難く甘木方面に逃げ、若き女王大ヒルメは現地妻とさせられた。九州を大ヒルメに一任して須佐之男命は出雲へ帰り、200年頃に死亡したと推定されている。須佐神社 出雲王国の支配下に入った各地の首長は、四隅突出型墳丘墓を造って。これは紀元1世紀に出雲で始まり、紀元3世紀まで日本海側の東北地方まで造られていた。
 100余りの小国が境界や利権をめぐる争いが倭国大乱であり、倭国大乱を経て30カ国に統合され(もとは百余りの国があって漢の時代には朝貢する者もいたが、今は使者や通訳など通ってくるのは、30カ国である。)、その中で急速に台頭したのが、邪馬台国を盟主として連合政権の形を取る北九州連合政権である。さらには、敵対する狗奴国を盟主とする連合国が有り、別の倭人の国々も数多く存在した。それらの中で魏と外交関係を持っていたのが邪馬台国連合国であった。 邪馬台国と敵対する狗奴国こそが出雲王国であろおう。

 中国から天孫降臨(渡来した)天照大神の孫たちは、九州から大和へ東征し橿原に居を構えた。そして独自に半島や大陸の情報と新たな文物を絶えず導入していた。その文物の中に鉄器も含まれていた。優位な武力を背景に倭国大乱と称される幾多の戦乱を経て、ヤマト政権を確立した。ヤマト政権は、武力を全面に押し出し、他方では、中国王朝の権威を背景に、神仙思想を基軸にした支配を確立した。また祭礼権と武力を両輪としたヤマト政権が主体となった政治的統合は各地で急速に進行した。ヤマト政権は、各地の首長から労働力、特産物、資源などを収奪し、その見返りに、神仙思想が付加された前方後円墳を造らせ、大陸の王朝から下賜された舶載の品々を与えた。地方の首長らにとっては、前方後円墳はヤマト政権から認知された結果と見なされ、またヤマト政権に服属した結果であった。このように前方後円墳の地方への拡散は、政治と宗教がセットとして下賜されたことを意味している。

では邪馬台国はどこにあったのだろうか?
魏志の倭人伝には、
千余里程海を渡ると末盧國に至る。四千戸余りあり、、、
陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に到る。千戸余りある。代々王がいるが、みな女王国に属している。帯方郡使が来るときは必ずここに滞在する。
東南の方に百里行くと奴国に至る。二万戸あまりある。
東へ百里行くと不弥国に至る。千戸余りの家がある。
南へ水行二十日程で、投馬国に至る。五万戸余りある。
南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に至る。女王の都である。七万戸余りある。
女王国より北にある国々の、その戸数や道のりは簡単に記載できるが、それ以外の国はとても遠くにあるため詳しく調べることは出来ない。
   と記載されたある。
 卑弥呼は『邪馬壹国女王』と言う表現はなく、卑弥呼は『倭国女王』なのである。邪馬壹国は、21の旁国を含めた連合国盟主で、その連合国を魏は、倭、倭国と認識していたと思う。ヤマト王国を邪馬壹国とあるが、倭人の発音をこのような当て字にしたのだろう。
 魏志の倭人伝記載の方位と行程から解釈すると、邪馬台国は鹿児島の南の海上にあることになる。よって国学者本居宣長は九州説と朱子学の新井白石は畿内大和説を唱えて以来、古くから論争されているところである。吉備説もある。
 この文章から陳寿は実際には邪馬台国へ行ってないことは、伊都国以外は『』と書いているのに、伊都国のみは『』と表現していることから解る。『到』は行程の終点を意味するものと解せられる。また文章があいまいで、彼が伊都国以外は行っていないことを証明している。となると、方向は不確かではないだろうか?実際に行っていたなら、北極星や太陽を測定しながら方向が確定されたはずである。ならば、伊都国以後は想像で記載されてあると解釈出来る。

13〜14世紀、元代に朝鮮で作られた地図によると、倭国の位置は九州を北にして南に伸びていると考えられていたのである。
 当時の中国人は、日本列島を九州が北に位置した南北に細長い島と認識していたようだ。
 魏志の倭人伝にも、『邪馬壹国は会稽の東治(今の福建省)の東に位置して居る』と記されているから、魏では倭国を揚子江流域の呉の国の東にあると認識していたようである。それは鹿児島になる。天孫降臨のニニギの尊は、南薩摩市に上陸したと言われているのと、ほぼ一致する。

 ならば、3、4世紀では左のように考えられていたと想像出来る。
 西洋の大航海時代でさえ、地球は平らで海の向こうには滝があり、落ちると考えられていた。そしてガリレオの地球は丸く、地動説は否定されていた。
 このように考えると、鹿児島の南の島になる邪馬台国は、近畿地方となる。

 では、投馬国は、どこにあったのだろうか?
 魏志の倭人伝には、北九州より『南して投馬国に至る水行20日。5万余戸なるべし。』また『南して邪馬壹国に至る。女王の都する所なり。水行10日、陸行1月なり。』
と記載されてある。
 距離と方向からすると、投馬国は出雲か吉備の玉野である。
 古代に繁栄した国には必ず焼き物がある。末盧国には唐津焼、大和地方には信楽焼、吉備には備前焼がある。
(古代天皇系譜の謎より)

投馬国は出雲であり、投馬国を出て水行10日で敦賀に着き、1月の陸行で大和にある邪馬台国に至ることになる。(魏志の倭人伝と邪馬台国より)
 魏志の倭人伝には『倭の女王卑弥呼と、狗奴国の男王は前から仲が悪かった。倭国では、載斬(きし)、鳥越(うえつ)などを郡に派遣して、戦況を説明させた。郡は、塞の曹幢史(そうえんし・国境警備の属官)の張政らを倭へ派遣して皇帝の詔書と黄幢を難升米に与え、中国が仲介にのりだしたことを、回状をつくらせて触れまわらせた。』と記載の狗奴国とは、出雲王国ではなかろうか?
 位置の確定には、魏から卑弥呼に贈られた238年『汝を親魏倭王となし、金印紫綬を与える。』の発見が待ち望まれ、発見されれば、議論は確定する。

 一方放射読み(伊都国までは方位、距離、到着国の順で記載されて、その先は方位、到着国名、距離の順と変わることから、伊都国までは行程、伊都国以降はすべて伊都国を起点に記述したと読む)にすると、奴国から船なら10日、歩いたら1か月と解釈すれば、ここ平塚川添遺跡こそが、邪馬台国であると言われている。



 魏志の倭人伝によると、景初二年(西暦二三八年)の12月皇帝から倭の女王に詔が下される。『親魏倭王卑弥呼に詔を下す。帯方郡の太守の劉夏が、使いをよこして汝の大夫難升米と、副使の都市牛利(としごり)を送ってきて、男四人女六人の奴隷と、斑文様の布二匹二丈献上するため、都へ到着させた。汝のいるところは遥か遠いにも関わらず、わざわざ使節を派遣して貢ぎ物を持ってこさせた。私は汝に好意をもった。そこで、汝を親魏倭王となし、金印紫綬を与える。包装してから帯方太守に託し、授けるとしよう。汝は、国民を教えさとし中国の皇帝に忠誠をちかうよう、努めるがよい。そこで、紺地の模様のついた綿を三匹、斑模様の毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹それぞれ五十斤を与えるとしよう。みな包装して、難升米、牛利に託しておく。』とある。

 卑弥呼は何故中国王朝に使者を派遣しただろうか?
 当時倭国では覇権をめぐって邪馬壹国と狗奴国など周辺国との緊張が続いており、卑弥呼が大国の後ろ盾と権威を切望したためであろう。220年後漢が滅びると魏呉蜀の三国時代に入ったが、238年魏が公孫子を倒し帯方郡を支配して異民族との協調に努めた。魏が帯方郡を併合すると即座に卑弥呼は魏へ使者を送ったことになる。さらにもう一つの理由は、朝鮮半島に産出する鉄の確保である。当時のハイテク技術である鉄や銅による武器類を製造する者が争乱の倭国を統一出来ると考えられた。三国志魏志の韓伝には『朝鮮半島南部には鉄を産出し、韓、倭の人々が、この鉄を求めてしきりにやって来る。』と記されており、親魏倭王となった卑弥呼は魏公認でこの鉄を入手出来ることになるのである。
 これにより、邪馬壹国(大和王国)は、鉄器の製造工場を建設し、鉄器の保有は出雲を抜くことが出来た。大和王国に朝貢する王や豪族には、刀剣や冠を与え、臣下の儀式を行った。

男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到とは何だろうか?
 それは戦争で捕らえた奴隷とするのが定説である。また潜水漁夫、留学生、中国の戦火を逃れて来た難民や航海中遭難した漂着民で帰国を希望していた人々ではないだろうか。同道すれば道案内や通訳にもなるし、倭国の善意の行為として感謝されただろう。

 卑弥呼の貧弱な朝貢品(奴隷10人など)に対して、魏は何故破格の詔書をしたため、親魏倭王の金印紫綬と過分な品々を下賜したのだろうか?
 魏に反抗的で呉と通じている朝鮮半島を牽制するために、遠交近攻策の意味があった。そして朝鮮半島が有事の際には、軍事的な行動を倭国に期待していたのだろう。それとも呉から多数の人々(天孫族)が倭に渡来しているのを知っていたので、魏の冊封体制下に入れたかったのだろうか?そこで魏は、親魏の冠称と金印紫綬を238年に倭国に与えた。

 銅鏡を百枚とは、どの鏡を指すのだろうか?
 魏皇帝が卑弥呼に与えた銅鏡百枚は、三角縁神獣鏡だと考えられている。これは中国の神話に出てくる神仙や霊獣を浮き彫りにした鏡類のうち、縁断面が三角形をなすもので、直系が22cm前後ある。鏡面には景初3(239)年か正始元(240)年という魏の年号があるものが多い。卑弥呼に与えられた銅鏡100枚と記されているが、500面も出土している。また景初4年と記された銅鏡も発見されている。これは魏王明帝35歳で景初3年1月に亡くなっているので景初4年は存在しない年号である。この銅鏡は中国では殆んど出土していないので、詳細が不明である。銅鏡が中国製か倭国産説か、倭国内中国工人製造説、中国呉工人説など確定されていない。銅鏡の分析では、銅、錫、鉛の合金比率が中国産鏡と一致との科学分析が公表され、中国製の可能性が一段と高まった。

 一方、コロンブスの新大陸発見1492年の頃でさえ、海の向こうは地獄で帰って来れないとも思っていたのに、どうして貢ぎ物が奪われず、魏の都へたどり着けたのだろうか?言葉は通じたのだろうか?などの疑問が沸いてくる。結論は、たくさんの渡来人がいて、言葉も通じるし、道も良く知っていたのだろうと推測出来る。

 ”男子は大小無く皆鯨面分身す”とは何だろうか?
顔や体に刺青をしていると記載されているが、これは縄文人(先住民)に見られる伝統的なものであろう。3世紀には男のみの風習となっていたようである。埴輪にも文身が見られる。鯨面は目の周りをを強調する弧線である。3世紀に山陰で制作された木偶には鯨面が表現されたものは1つも無い。古事記には、カムヤマトイワレヒコの命(後の神武天皇)の妃にイスケヨリ姫を推薦している場面に、家来の大久米命には目尻に刺青を施していたと記されている。このように身分の低いもの、原住民に刺青があったと推測できる。


中国の冊封体制
 秦、漢の時代から、中国民族は中華思想を持ち、冊封(さくほう)体制が出来た。異民族の君主はすべて、優れた文化を持つ中国を治める皇帝の支配を受けねばならず、皇帝は異民族の君主に対して、王号や称号を与えた(冊封体制と言う)。この体制は清朝1912年まで続いた。魏は朝鮮や倭国を中国の属国として、朝貢(入朝して貢ぎ物を奉る)を要求し、印授を授けることにより、間接的に支配をした。一方倭国においては、邪馬台国は敵対する狗奴(くぬ)国などに対して、魏を後ろ盾にしようとする外交論理が働いたと考える。
 3世紀の時点では多くの民族はまだ統一国家を持たなかった。ヨーロッパでは牧畜生活をする部族が分立する情況で、4世紀末のゲルマン民族大移動によって民族国家が生まれる。アラビアでも7世紀のサラセン帝国の出現まで国家は作られなかった。3国時代の南ヨーロッパではローマ帝国があった。しかしローマ帝国には冊封体制に似た発想はなく、ローマ人は周辺の民族を力で征服して帝国を拡大していった。
 中華思想と冊封体制が東アジアの歴史に大きな影響を与えた。いち早く中国と交易を持った集団を中心に民族がまとまって行く。中国から王号や位を与えられたことがきっかけとなって、それまでの小領主が民族統一を企てるようになってゆく。朝鮮半島の高句麗、百済、新羅も中央アジアの鮮卑も中国があったから一つの国にまとまることが出来たと言える。
 この時代に倭国では、武器として農具としても極めて有効な鉄器を知り、朝鮮半島との鉄の交易により鉄を握った小国が、小国連合の盟主となった。

人と刀剣とのかかわり
 中国では、刀剣が武器として使用されるようになったのは3000年前である。実践用の武器として発達しただけでなく、権威の象徴として重要な役割を果たした。中国では、正装した貴人の人物画には刀剣が描かれている。刀剣の形や飾りの違いには人々の地位などが表されていた。
 日本でも弥生時代中期以降、大陸で作られた刀剣が輸入されるにしたがって、このような考え方が広がった。やがて古墳時代になると、鏡と並んで刀剣は、首長を権威ずけるシンボルとして、主要な古墳には必ず副葬されるようになった。
 弥生時代中期になると、日本列島に鉄製の武器が伝えられ、北部九州では、鉄剣、鉄戈(てっか)や鉄矛が甕棺に副葬され始め、少し遅れて、柄頭がループ状になった素環頭大刀が副葬品に加わる。
 弥生時代中期から古墳時代前期にかけては、長大な刀と大刀の出土が全国的に増加する。これらは中国大陸からの渡来品であったと考えられる。しかし古墳時代中期になると、大量の大刀が古墳へ副葬され始め、大刀が剣にかわって重要な武器の位置を占める。この頃から国内でも大刀の生産が本格的に開始されたようだった。国産大刀の特徴は、朝鮮半島諸国の渡来系大刀の影響を受けて、柄頭や柄の部分を鹿の角や木で製作し直弧文様をいれるなど、独自の装飾付大刀が生み出された。
 6世紀後半(古墳時代後期)から7世紀(飛鳥時代)には、統一された数多くの装飾付大刀が大和の大王のもとで作られた。大和朝廷は朝貢したものに対して、大刀や冠を与えて、その国の王であると認めた。装飾付大刀は権威を高めるための重要な道具であった。
 大刀と太刀の違いは、@大刀は弥生時代末から奈良時代に作られた。太刀は、平安時代から室町時代に作られた刀の長さが60cm以下のものである。A大刀は、刀身が真っすぐなので直刀とも呼ばれている。太刀は、刀身が反り返っている。B大刀は、杖を付くように立てる持ち方と刃を下に向け腰に吊り下げるという二つの身に付方があった。一方太刀は、刃を下に向けて腰に付ていた。
 7世紀中頃、日本は律令国家設立に向けて動きだし、やがて装飾大刀は作られなくなり、律令社会に変って行った。

前方後円墳
 弥生時代の末期には、倭国争乱を経て、統合が進んだ。その社会の中核を担ったのがヤマト政権を構成した首長層であった。ヤマト政権は、地方支配を願望する首長らの要求を吸収すると同時に、中国の埋葬観念を取り入れた神仙思想を取り入れたのが前方後円墳であった。これは、ヤマト政権が各地の首長らと軍事権、外交権をめぐる政治的同盟を結び、その頂点に立つことを目に見える形で示す効果は絶大であった。具体的には、現世と死後との世界を相似形に考えたのである。彼らの願望は、霊魂の不死を獲得するための昇仙行為で、死してなお神に昇華するために無くてはならないものと考えられていた。前方部から後円部へ、葬送儀礼のために人が古墳へと登って行く道であり、そこで粛々と葬送儀礼が執行され、緩やかな道を通って、時の権力者たちが死者を弔問したのである。このように前方後円墳は、今までの墳墓とは全く異なるものであった。
 前方後円墳の最も高い後円部中央に長方形の墓を掘り、木棺を置き、木棺に遺骸を入れ、生前に愛用していた遺品が収められ、死者を保護する水銀朱が塗られる。木棺の外の石の間隙に三角縁神獣鏡や武器、工具などが置かれた。埋納儀礼が終了すると、割石を積み上げた石室に魔除けの意味をこめた朱が厚く塗布される。天井には板状の大きな石材で封鎖し、その上を粘土で密封する。これらの葬送儀式は、中国から伝播した神仙思想にほかならない。
 葬送儀礼で最も重要な威信財が、武具の冑と神仙思想そのものが刻印された三角縁神獣鏡である。三角縁神獣鏡は、中国王朝の権威に加え、鏡そのものが持つ呪力が相乗してその威力を発揮する威信財であった。つまりこのような威信財は、現世の権力を保持したまま、被葬者が神に昇華するための道具立てとして死者のかたわらに副葬されたのである。前方後円墳の副葬品は、その配置から棺内と棺外に大別される。棺内には、被葬者が生前愛用した装身具など品々が置かれる。それに対して棺外に置かれた品々は、葬儀に参列した首長たちが被葬者に対して敬意を表すために威信財を置いたと推察される。
 このように完成した葬送儀礼は、畿内で確立され、地方へ伝播された。葬送儀礼には、各地の首長らが弔問に訪れた。この前方後円墳と威信財と葬送儀礼の3点セットの配布を通して、ヤマト政権の基礎が完成したのであった。
 以後400年にわたって、中央、地方を問わず競って墳墓を作り続けた。古墳の数は30万基とも言われている。646年大化改新で薄葬令『我が民がひどく貧しいのは、もっぱら墓を営むことによっている』が出されて墓は簡素化することとなった。これだけのエネルギーを農地の開発や潅漑用のため池の増築に費いやしたら農業生産も農民の生活も向上していたであろう。結果的には、権力の1極集中的な専制君主国家の成立を回避することとなった。


 『二四七年この時、卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。直径は百歩余りで、男女の奴隷を百人以上殉死させた。あらためて男王を立てたが、国中は不服として、そのため殺し合いになった。当時千人余りを殺した。倭人たちはまた、卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(とよ)を王に立てた。国中はようやく、定まった。』。266年台与が使者を送ったが、魏はなく西晋が出来ており、通交しても大した利益は得なれなくなっていた。そして316年この西晋も滅び、中国の国力低下が、朝鮮半島や倭国では諸国家の成長が促された。
 卑弥呼の墓はどこにあるのだろうか?
 奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡の石塚古墳は93mの前方後円型墳墓がある。201年から225年に築造されたと言われる。また同遺跡の箸墓古墳は全長278mの前方後円墳で280年頃と言われ卑弥呼の死亡年代に近付く、卑弥呼の墓と有力視されている。
その後の邪馬台国はどうのようになったのであろうか?
 1998年奈良県天理市の3世紀末に造営されたとされる黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土した。130mの前方後円墳。これによって大和説が優勢になった。 大和説を取ると、@邪馬壹国がそのまま大和盆地内で大和王権へ発展し、そして天皇制国家体制を確立して大和朝廷へとなると考える説が一番多い。A邪馬台国は仲哀天皇の死後、神功皇后と八幡宮(応神天皇)の新勢力が九州から大和盆地に攻めのぼり、仲哀天皇の嫡子を殺して、征服王としてヤマト王権を確立すると言う説。一方九州説をとるとB邪馬壹国が倭国の争乱に敗れて、東へ逃げて行き、大和盆地でヤマト王権になってゆくとする邪馬壹国東遷説、などが考えられるが、私はAを指示したい。
 4世紀になると、百済、新羅が独立し、他は加耶と呼ばれる小国に分裂していた。その加耶の中の金官加耶(きんかんかや)国(任那)を支配して朝鮮半島に進出して行く。

 
では、魏志の倭人伝に出てくる国々を対馬から邪馬台国まで訪ねてみよう。

邪馬台国大研究
古代史(魏志の倭人伝)
蘇州対馬壱岐呼子末盧国伊都国土井ケ浜出雲一宮