隼人と熊曽(熊襲)征伐

 クマソと隼人は共に南九州に住んでいた部族と言われ、クマソは古事記では『熊曽』、日本書紀では『熊襲』と、風土記では『球磨贈於』(球磨地方と霧島地方)と表記されている。クマソは大和朝廷に従わず征服される部族である。熊のような荒々しい人々と言うイメージから熊が襲うという表記が当てはめられた。
 隼人は、猛禽類の隼(はやぶさ)のイメージからすぐれて速く、猛勇な人々と表現されており、大和朝廷に仕えていたとされる。
熊曽(熊襲)


 古事記には、『そこで天皇(景行)は、”西の方に熊曽建という二人のものがある。この男たちは、まったくわが朝廷に服従しない、無礼な男たちである。この男たちを殺してくれ”とおっしゃって小碓(おうす)命をお遣わしになったのである。そのとき、小碓命は、まだ15、6歳で、その髪もあげまき、すなわち子どもの髪形であった。小碓命は叔母の倭姫の命の衣裳を貰われ、剣を懐に入れてお出かけになった。
 熊曽建の家に行って、様子を見ると、その家のほとりは、兵士たちが幾重にも囲んでいたが、どうやら家を新しく作っているらしかった。家も出来上がり、人々は新築のお祝いをしようと言い騒ぎ、ご馳走の用意をしていた。小碓命はその付近をぶらぶらしてから、その祝いの日を待った。
 いよいそ、その祝いの日がやって来た。小碓命はその髪をばらばらにして、少女の髪のようにお下げ髪にし、倭姫の命から借りた着物を着て、すっかり少女の姿になってしまわれた。女たちの中に混じって、その家の中に入ったが、誰も怪しむ人はなかった。熊曽建の兄弟二人は、その少女を見て、いい女だと言って、二人の間の席に座られて、じゃれ楽しみ、興も尽きない有り様であった。
 宴会の喜びが最高になろうとするときに、小碓命は、懐から剣を出して兄の建の着物の衿をつかんで、剣でその胸を突き刺すと、剣は背中まで通った。弟の建はそれを見て、びっくりして、逃げ出した。小碓命は、部屋の階段の下で追いついて、その背中の皮をひっつかんで、剣を尻から刺し通した。すると弟の建は、”どうかその剣を動かさないでください。私は、言いたいことが少しあります”と言った。それで小碓命が、しばらくお許しになって、建を押し伏せになると、彼は、”あなたはどなたでしょうか”と尋ねた。そこで、小碓命が、”わたしは、まきむくの日代宮で日本を治めになっている景行天皇の子で、名前はヤマトオグナノミコトというものだ。おまえたち熊曽建の二人は、大和朝廷に従わない無礼なものだと思いになって、天皇が、おまえたちを殺せとご命令になって、遣わされたのだ”と言うと、熊曽建は、”西の国には私達二人以外に、強い者はおりません。しかし、大和の国には、わたしたち以上に強い人があることが、今わかりました。だから、私達の名前をあなたにさし上げましょう。今から後は、倭建命と名乗ってください”こういい終ったので、小碓命は、弟建の身体を柔らかい瓜を切るように、剣を振るって、切り裂いてしまわれた。
 だから、このときから、小碓命を倭建命と申し上げるのである。この九州の地から大和に帰られるとき、途中の山の神や川の神、また穴戸の神を皆平定して、上京されたのである。』と記載されている。

熊襲の穴(妙見温泉石原荘の西側の斜面にある)
険しいけもの道を登ると熊襲の穴に着く。ここが熊曽建兄弟の家だ。倭建命が女装して兄弟を征伐した

 第一洞窟は奥行き22m,幅10m,百畳の広さがあり、更に右正面は第2洞窟につながっている。第2洞窟は300畳の広さと言われている。
昔はその奥に千畳敷もあったという。ここに居を構える熊襲族の首領、川上タケルの石の寝台が完成し、その祝いに熊本、鹿児島、宮崎の南九州にまたがる55の部族の首領がお祝いに集まり、酒盛りが催された、と伝えられている。内部は芸術家萩原貞行氏の幻想的な壁画が描かれている。

熊襲建の事件以降、熊襲族に関する記載,は日本の歴史上見当らなくなる。大和朝廷は以後蝦夷征伐に専念出来るのである。


隼人
 隼人とは、大隅半島には大住隼人が、薩摩半島には阿多(吾田)隼人が住んでいた。薩摩半島は明治時代まで阿多半島と言っていた。
 古事記には、『ワタツミの神の国から帰ったホオリの命は、その釣針を兄のホデリの命に与えられたが、それから以後は、だんだん貧しくなり、そのうえ、荒々しい声を起こして、攻めて来られた。、、このようにして、さんざん悩ませ、苦しめたときに、とうとうホデリの命は、頭を地につけて、”もうこれ以後は、あなたの守り人となって、昼も夜も、あなたを守って差し上げましょう”と申し上げた。だからホデリの命の子孫の隼人たちは、今でもホデリの命が溺れたときのさまざまなしわざをして、昼も夜も天皇にお仕え申し上げるのである。』と記されてある。
 また『カムヤマトイワレビコの命は、日向にいらっしゃった時、阿多のアヒラ姫という女を妻として、お産みになった子が、タギシミミの命であり、次にキスミミの命であり、この二人の男がいらっしゃった。この子も大和へ同行した。』、と日本書紀には『年15にして立ち太子となりたまふ。日向国の吾田邑(あたむら)の吾平津姫(あひらつ)姫を娶き妃としたまふ。タギシミミの命を産みたまふ』と記されている。
 阿多(吾田)隼人は、薩摩半島の南西に住んでいた隼人で、イモガイやゴホウラガイを南方から輸入し、それらを加工して貿易していた。おそらく大きな船をたくさん持ち、南方から本州や四国にも船を出していたに違いない。カムヤマトイワレビコの命は、航海術にたけた阿多(吾田)隼人の娘と結婚することによって、遠く海上に活路を求めようとしたのだろう。当時もっともすぐれた航海術を持ち、また武勇にも優れた種族だあった阿多(吾田)隼人の援助を得て東征の軍を起こし、大和を征服しようと考えたのではないだろうか。そして一族郎党と何千人もの大住隼人と阿多隼人が武装船団を組んで大和へ向かったのであろう。

隼人塚(霧島市隼人町)
、神武天皇に従軍した大住隼人と阿多隼人は大和朝廷の警護に当たったのはもちろんであるが、奈良時代律令制による薩摩国、大隅国建国以前から、南九州の隼人は、大和朝廷に服従の証しとして都に上がり、貢ぎ物を差し出したり、歌や踊りを奉っている。これらの隼人の中には、強制的に奈良や京都あるいはその周辺に移住させられ、大和朝廷にさまざまな奉仕をした人々がいた。これらの隼人を畿内隼人と呼ぶ。畿内隼人は、6年に一度の交替で都に上り、産物を貢ぎ物として差し出し、天皇の前で相撲をしたり、隼人の歌や踊りを披露した。また天皇の警固、護衛や工芸品の製作や天皇が遠征の時は、山陰や道の曲がり角で犬の声を出して悪魔払いをする。大相撲は初代隼人族の相撲文化を継承しているとも言われている。このような制度は、大化改新頃までであった。
 早くから大和朝廷に服従した大隅隼人や阿多隼人とは別に、大和朝廷に従わない隼人がおり、713年大隅国設置のときに反乱を起こしている。中でも720年の隼人の乱は最大で、国守を殺した。これに対し大和朝廷は征伐軍を送り込み、神々への信仰は厚く、征伐軍には敵対するものを倒す神力が授かれるとして宇佐八幡(宇佐神宮)の神輿とが同行されたそうである。戦いは1年を超える長期に及び、隼人の軍は制圧された。
 景行天皇に討たれた熊襲と、その後奈良時代に反乱を起こして大和朝廷軍に討たれた隼人の霊魂を供養して災危を免れるために、建てた供養塔だと伝えれてきた。最近の調査では、平安時代中期に建立されたと推定されている。

五重塔三基を四天王が囲んでいる。

隼人の盾
逆S字渦巻き模様
隼人塚史跡館



倭姫命 K景行天皇
日本武尊
神功皇后

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M仲哀天皇
N応神天皇

古代史(日本人のルーツを訪ねて
呉服の国 蘇州神話の国 出雲吉野ケ里渡来弥生人説 土井ケ浜魏志の倭人伝対馬壱岐末盧国伊都国奴国天孫降臨薩摩天孫降臨高千穂日向1日向2神武東征隼人熊襲八幡宮百済飛鳥朝倉宮一の宮