四国遍路No4 高野山
 80歳を過ぎ、同級生の訃報を聞くようになりました。今日まで多くの方々に助けられて、健康で満足な人生が過ごせたことに感謝をして、四国遍路に行くことを計画しました。弘法大師の修行の足跡をたどる旅が『同行二人』と言われるお遍路の旅です。空と海に導かれ、自然と触れ合い、心して手を合わせてお経を唱える八十八ヶ所巡拝の旅は私たちの疲れた心を癒し、感動を与えてくれる信仰の旅です。
 四国四県1周すると1400Km、2023年八十八ヶ所の内徳島県の第1番札所霊山寺から高知県を周り、愛媛県の43番札所明石寺まで6泊7日で巡拝しました。四国霊場公認先達資格を有する穴吹トラベルの徳野ドライバーさん(歴史、建築、人類学、文学、日本哲学に精通した経験豊かな「先達」と呼ばれるガイド)に同行をお願いしました。多くのことを懇切丁寧に教えてくれました。2024年4月には44番大宝寺から香川県の88番大窪寺まで6泊7日再度徳野さんにお願いして巡りました。
 2024年11月にはワールド航空の3泊4日【語り部と旅する 世界遺産 高野山の旅】に参加しました。関空に13時25分、11名が集合しました。バスで4日間、3日間は語り部の木下浩氏の詳細な資料にもとずきながら丁寧な説明を聴いた。高野山は1972年ユネスコ世界遺産に登録された。日本には世界遺産が26カ所(2024年現在)、2002年12番目に『紀伊山地の霊場と参詣道』が登録された。今回のツワーは、白衣、数珠、半袈裟など持参している人はなく、般若心経さえも1度しか唱えなかった。添乗員の辻林さんにはお世話になりました。
 弘法大師(空海)は真言密教を中国から日本に伝えた真言密教の開祖です。774年讃岐の国で生まれ、20歳で出家し、805年31歳で遣唐使船で長安の都に渡り、恵果阿闍梨から密教の教えを授かり、帰国後、鎮護国家と済世利民の祈りの道場として、合わせて修行者の為の道場として、818年高野山(海抜850m東西4Km,南北2Km)を開かれた。現在は117カ寺、宿坊52カ寺、人口3000人、1972年ユネスコ国際遺産に登録された。
 第1日目 
橋本開基の恩人木喰応其(もくじきおうご)は荒れた里寺を再建し、応其上人はこの地にまちを開き、1587年紀の川に橋を架けた。これが橋本の地名の由来となった。高野中興の祖でもある。
織田信長は、1580年から高野山と小競り合いが始まり、高野攻めをしていた1582年本能寺の変が起こり死亡した。
1585年豊臣秀吉の紀州攻めにより、根来寺が滅ぼされた後、高野攻めの折、応其上人は、1591年秀吉陣地へ赴き、和睦を訴えて、高野山を救った。高野山は武装解除し、1万石の所領を安堵し、
木食応其個人に1千石が与えられた。

 応 其 (おうこ) 寺
 
 応其寺の住職から秀吉からいただいた寺宝の「唐子織袈裟」 を見せたいただいた。また4日間の中、般若心経を聞いたのはここのみであった

織田秀信終焉の地 
織田秀信は信長の孫で、1580年生まれ幼名三法師、3歳の時本能寺の変で祖父信長と父信忠を亡くした。清須会議にて3歳で織田家の家督を継ぎ、秀吉に育てられた。9歳の時秀吉から秀信と命名され岐阜城13万石を与えられた。
1600年21歳の時石田三成に誘われて西軍に加わたが、岐阜城で降伏した。
その後高野山に出家するも、信長が高野山攻めをしたことから、高野山を追放され、橋本で1605年26歳で死亡した。
木下語り部からは「高野山麓歴史物語」を拝聴した。

    慈 尊 院
真言宗は大日如来を中心に、その深い教えをより身近に感じてもらうため、観音菩薩や不動明王など、多くの人に親しまれる仏像を用いている。
この宗派の核心には、「即身成仏」という教義がある。これは、私たちがこの生きながらにして悟りを得ることができるというもの
身体、言葉、心の三つの要素を通じて、日々の生活の中で仏の教えを実践することにより、悟りへの道を歩むのが真言宗の修行です。「慈尊院HPより」
  高野山開祖の際、816年に庶務を司る政所として創建された。                       おっぱい絵馬。安産、育児、授乳を願って多くの女性が訪れる     
高野山を開いた息子空海を一目見ようと会いに来た母玉依御前は女人禁制の高野山に入山出来ず、お母さんは亡くなるまでここで過ごした寺と伝えられている。
17時30分かつらぎ温泉八風の湯に着く

 第2日目 
尼生都比売(にうつひめ)神社 は天照大御神の妹稚日女尊とされている、元寇の折、ご神託にて出陣してその功により鎌倉幕府は国宝の太刀を献じて紀伊国一之宮とした。
     
静かな美しい山里に突然赤い鳥居が現れる。ここが高天原かと思う、  かっては仏堂、仏塔が建てられて、高野山詣での時には最初に
当社にお参りするのが習わしでした。しかし神仏分離令で壊された。
 輪橋が地上界と天上界を分けている。紅葉がきれい!
     
桜門(室町時代) は、女性の神様らしく優しく、
清々しいご神気が漂う神社。農耕の神様
 真言密教の根本道場を探していると、白と黒の神犬を連れた比売の
化身の狩人が空海の前に現れて、高野山へ導いたと言われている。
5輪塔婆の中に、 光明真言がサンスクリット語で書かれている石板
「おん あぼきゃ べいろしゃのおまかむ、、、
    大 門  
 
”CAFE客殿”にて地元野菜中心の定食、卵が特徴、築80年の古民家 開山以来、表玄関の役割を果たす高野山の総門。
九度山町の慈尊院から続く町石道の表参道を登ると、ここからが山内となる。
 左右には金剛力士像が安置されている。この仁王像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国二番目の巨像と云われている。
壇 上 伽 藍  
弘法大師・空海が高野山を開創した際、最初に建立したのが壇上伽藍といわれている。
     
 三鈷の松:空海が唐から帰国する際に、明州の浜から「密教有縁の地」を求めて三鈷杵を投げた。その三鈷杵が高野山の松にひっかかっていたことから、高野山を開いたとされる。三葉の松葉を拾って持ち帰る人  高野山全体の総本堂である「金堂」。高野山開創当初に弘法大師が建設したお堂で、古くは講堂と呼ばれていた。現在の建物は、7度の再建を経て昭和7年(1932年)に完成したものです。薬師如来は高村光雲作  読経する僧侶たち
 
根本大塔:真言密教の根本道場である伽藍の中心たる建物。
本尊の大日如来を中心に金剛界四仏を安置している。
16本の柱絵と壁画は堂本印象画伯の筆による。
東に胎蔵界を表す根本大塔を、西に金剛界を表す西塔を置くという真言密教の教義を現した独特の伽藍配置を持っている。
816年着手し887年に完成した、高さ50m、30m四方、

   
   
 
西に金剛界を表す西塔
887年光孝天皇の勅命により、建立、1834年再建された
左右の石灯籠は花岡青洲の寄進による。

⇦大火での類焼を免れた持国天像(東)と多聞天像(北)が再び安置され、その期に増長天像(南)と広目天像(西)が新造された。
現在は四天王像が伽藍全域を守護している。
   五間二階の楼門・中門:天保14年(1843年)に大火で焼失し、平成26年(2014年)に高野山開創1200年を記念して再建された。 
金 剛 峯 寺
高野山末寺3600カ寺、信徒1千万人の総本山
     
 歴史に名を残す絵師の筆による豪華な襖絵で飾られた部屋、秀次自刃の間などを拝観できる。  1593年秀吉が母堂の菩提の為に応其上人に命じて寄進したが、
火災で損失し、1863年に再建された
 国内最大級の石庭「龍(ばんりゅう)庭」:雲海の中に左に雄、右に雌の1対の龍が向かい合ている。石は四国の花崗岩、雲海を表すのは京都の白川砂
40分で はなぞの温泉 花圃の里に着き、連泊した。
 第3日目 
奥 の 院  
     
 中の橋にて、語り部(ブラタモリをも案内された)木下氏と 
気温は4度寒い、時にあられが降った、
奥の院参道2Kmに 20万基を超える諸大名の墓石や、供養塔、慰霊碑の数々が杉木立の中に立ち並んでいる。  御朱印はここでもらった。
     
 御供所:での生身供(しょうじんく)の儀式。 毎日6時と10時30分の2回弘法大師の食事を作り、       御廟の燈籠堂へと運ぶ。    
今もなお弘法大師が高野山に生き、世界平和を願って瞑想を続けていると信じられている
 語り部から説明を受ける
  
       
宗派を問わず 多くの有名人の慰霊碑がある  織田信長  豊臣家菩提所の中に  徳川秀忠夫人のお江の五輪塔がある、高さ8m
1574年前田利家・まつの四女として誕生し、秀吉の養女となり、宇喜多秀家の正室となるも、関ヶ原の戦いで志位文の宇喜多秀家と子供たちは八丈島へ流罪となると、豪姫は高台院(北の政所)に仕えた。八丈島へ仕送りをし続けたそうです。
九度山  蓮 華 定 院 1199年に創建された。
     
関ヶ原の戦い後に、真田昌幸、幸村親子が蟄居をめいじられ4年間仮寓していた真田家ゆかりの寺です。  表庭に描かれた「砂紋」は梵字の”キリク”という一字、
蓮華の華とその上で禅定に入る阿弥陀如来を表している。
 
蓮華定院での精進料理の昼食  中庭  真田家墓所:大阪冬の陣が始まると、真田幸村はここを抜け出し西軍
として戦い、出城真田丸を築き猛烈に戦うも死す。徳川家に味方した
兄信之(幸)が家督を継き、永代供養として当時1千両を寄進した。
   
 高野槇:高野槙は空海より真言宗の仏花として選ばれた大変神聖な切花です。花の用途だけでなく、その硬くて保存性・耐湿性の高い特性から
出節の磨丸太や浴槽・桶、棺桶にも使われています
。 森林の芳香も魅力がある。 百済の武寧王の棺も高野槇です。

 第4日目 
金 剛 三 昧 院  
 
金剛三昧院は、1211年源頼朝公の菩提をともなう為に妻の北条政子が創建した。  国宝多宝塔:北条政子が創建した禅定院の規模を拡大し、金剛三昧院と改名した1222年に時に造営した。
位牌堂は、毎朝の勤行での読経、住職の法話、阿字観体験に使われる
永代供養をされた方々3万基もの位牌を預かっている。その中には北条家、足利家、長曾我部家、伊予の河野家、信州諏訪家などの位牌がある
   阿字観:位牌堂で住職から呼吸法や、塗香(ずこう)のお話を1時間聞いた。足がしびれた。
 座禅のように警策でたたかれることなく、屏風の中に大きな月輪を描き、その中に梵字の「阿」が蓮華の花の上に鎮座している図を見ながら瞑想法を行った。
瞑想の前段階の「数息観」は、息を吸いゆっくりと長く吐く、「阿息観」は、息を吸いゆっくりと長く吐きながら阿といい、大日如来を観じる瞑想法を教えていただいた。
 6本杉  大広間:1400年代足利義政お抱え絵師小栗宗丹による襖絵  
   昼 食
 
名物 ゴマ豆腐の角濱での昼食  見事なゴマ豆腐料理5品に、ゴマ豆腐の茶碗蒸しとお吸い物  バスは高野山を下山し1時間で関空に到着し、解散した。
御朱印帳は0番札所の青龍寺、一番霊山寺から八十八番大窪寺、そして金剛峯寺、奥之院まで91ケ寺一年余りで全て記していただいた。
四国遍路が終わると、また巡り、始まりに戻る。しかし、次回の巡礼を考えるとき、1から新たに繰り返すといったものではない。むしろ階層を深めていく。そして、もう一度廻ることで、感謝、理解、自己認識、そして最も重要な感謝がより深まるのだ と言われている。
第一礼装 準礼装 新春 新緑
初夏
盛夏
晩夏
ゆかた 初秋
初冬