豊島
                
潮待ちの港
瀬戸内チャータークルーズ
多島部美巡り3日間
この度クリスタル主催の瀬戸内チャータークルーズ船でしか行けない離島の宿に泊まる多島美巡り3日間に参加した。

12時に三原駅に集合、徒歩5分で三原港に着く。
チャーター船に早々乗り込み佐木島へ。
     

 佐木島 
三原市の南約3kmの瀬戸内海に浮かぶ小島「佐木島」。江戸時代は島内に2藩の境界線が存在し、200年にわたって争いが絶えなかったといわれている。

 JR呉線が走っている    
 桟橋からの写真。磨崖和霊(まがいわれ)石地蔵、県の重要文化財波打際の独立した巨岩の蓮華座の上に舟形の輪郭を彫り沈め、その中に地蔵坐像が彫られてる。頭部の後ろに円光背を浮き彫りにし、右手に錫杖を持ち,左手に宝珠をのせている。正安2(1300)年仏師念心の刻銘がある。  島の至る所に石仏が祀られており、石仏の宝庫とも称されている

 岩城島 

 岩城郷土館(旧島本陣):愛媛県越智郡の岩城島にある松山藩の旧伊予松山藩の島本陣として建てられた、歴史的建造物「旧島本陣」。 
「本陣」とは、公家、大名、幕府の役人などが宿泊するための施設のこと。島本陣は、松山藩主の参勤交代の宿泊所となっていた旧三浦邸です。当時、塩田の開発や回船業などで繁栄した豪商であった三浦家が本陣の役割を果たしていた。
 

 大崎下島 
御手洗地区街並み…平成6年1994年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。

   大島御影で有名。庵治石に次ぐ高価な墓石、最近は墓じまいが増加  
   丸形赤ポスト  天満宮
   満舟寺  大東寺の大楠
   17世紀の中頃形成されて以来、江戸時代を経て昭和初期に至るまで、瀬戸内海交通の中継港として発展した痕跡を、今も町並みに残している。

右は、1937年に芝居小屋として建てられた。
  大崎上島 
 
 ホテル清風館の露天風呂からの眺めは最高!今治方面を望む  清風館の料理  


 豊島 

 左が愛媛県岡村島.右が広島県大崎下島  大崎下島の小長(おちょう)港には広島市から来たバスが待っていた。  豊浜大橋を渡ると豊島(1958年には3953人が現在750人、
小学校は2014年閉校し、現在なし)
 あび資料展示館:あび(鵜によく似た鳥)  いかなご、小いわしのいる所の下に鯛が寄ってくる、そこで鯛を釣る  豊島大橋で下鎌苅島へ


 上下鎌苅島 

   白い砂浜と穏やかな瀬戸内海の美しい風景が広がる『県民の森』   赤線が17世紀後半まで主に使っていた陸地沿いの地乗り航路
黄線が17世紀後半から明治時代の沖乗り航路。
  周囲16Kmの小さな島、下蒲刈島は広島県呉市の南東方に位置し、古くから瀬戸内海の要衝として栄えた町である。1389年足利義満が厳島参詣をした際の紀行文において”安芸国かまかりに御船をとどめられる”とある。
 蒲刈島三之瀬は、幕府の全国統一にともなって航路が整備され、要所には海駅が設けられ、さらに継船の制度が設けられ、江戸幕府によってさらに発展し、本陣、番所、茶屋の3点セットを備えた海駅に指定された。この航路を利用して、西国大名の海路による参勤交替、長崎奉行の江戸への連絡、オランダ、琉球使節、朝鮮通信使の往来が行われた。その他諸国廻船の来泊も盛んであった。
 朝鮮通信使は12回のうち11回往復ともに寄港した。浅野藩では、第8回の来日に警備や輸送、出迎えのために135隻の舟と接待役付759人を三ノ瀬に用意した。港の整備、本陣、御茶屋の新築、往復で改修するなど力を入れていた。住民に対しては触書を発している。第5次朝鮮通信使は”設備された物や接待のすべてが華麗でぜいたく。ここが最も優れている”。第11次朝鮮通信使は”波止場と桟橋が、上関、下関よりはるかに優れていた。行閣の左右の欄干には赤い毛氈が敷かれていた。”と、また”安芸蒲刈御馳走一番。其の飲食器皿も皆金色。日本好酒皆此州。安芸州之酒味為日本第一。”等と記録されている。このように日韓両国の資料から、浅野藩が想像を絶するような饗応をしていたことが伺える。
 1764年第11回朝鮮通信使節を最後に、又17世紀後半から木綿帆が使われるようになると、船は蒲刈島の沖を一気に駆け抜けるようになり、三ノ瀬の港は衰退して行った。ここに代わって大崎下島の御手洗港が潮待ち、風待ちの港として栄えるようになった。
  松涛園 

左から蒲刈島御番所(復元)
左2、あかり館(山口県上関の商家旧吉田家を移築復元)
左3御馳走一番館(富山県の代表的な商家造りである旧有川邸を移築復元)
右端は陶器館(広島県宮島町の町屋旧木上邸を移築復元)
   
三汁十五菜
  石人を配した庭園  朝鮮通信使が”安芸蒲刈御馳走一番”と云われた当時の
食事を再現してもの。他に七五三の膳も展示されてある

 『日本好酒皆此州。安芸州之酒味為日本第一』
  と朝鮮通信使に云わしめた蒲刈忍冬酒の漢詩が刻まれている。
忍冬の美酒は蒲刈に出で 玉椀に盛り来れば琥珀のごとく浸む
頃刻も唇に入れなば大道に通ず 
   
   山口県上関から移築復元した、あかり館
瀬戸内海独特の平入り入母屋型本瓦葺屋根の古い土蔵造り建築屋
 蒲刈御番所(復元)」:江戸時代に海上の番にあたった

 倉橋島 

 音戸の瀬戸    清盛塚:音戸の瀬戸を一日で切り開いたといわれる平清盛公が、人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈め、難工事を完成した。1184(元暦元)年にその功績を称え、供養のために清盛塚を建立したといわれている。
 長門の造船歴史館  
 桂浜を望む海岸に、1992(平成4)年に開館した「長門の造船歴史館」には、古代から現代までの木造船模型をはじめ、造船と海運業に関する資料などが数多く展示されている。
 長門の造船歴史館には、1200年以上前の遣唐使船が実物大で再現されているが、近々閉鎖し、破壊されることが、決まっている
 
 石走る滝(いはばしるたぎ)もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ

 山川の清き川瀬に遊べども 奈良の都は忘れかねつも

わが命を長門の島の小松原
 幾代を経てか神(かむ)さびわたる

月よみの光を清み夕凪に
 水手(かこ)の声呼び浦廻漕ぐ(うらみこぐ)かも

山の端(は)に月かたぶけば漁(いざり)する 海人(あま)の燈火(ともしび)沖になづさふ

これらの歌は「万葉集」に収められている。

 遣新羅使は、天平8年(736)6月、備後の神島(かしま)・水調(みつぎ)郡長井浦、安芸の風速(かざはや)から長門(ながと)島に至っている。長門島は、現在の倉橋町に比定される。同地には、桂浜長門崎・長門口の地名が残り、船泊りに適していたこと、「日本書紀」の時代から造船の地として栄えていたことなどが、その理由に挙げられている。
 遣新羅使の万葉集に8句

 江田島 

 江田島壮からの眺め    

 呉市 

     
   アレイからすこじま:
世界でも珍しく、潜水艦をまじかで見ることが出来る公園。海上自衛隊の潜水艦と護衛艦が錨を下ろしている。ここはその昔、呉が海軍の本拠地だったことを偲ばせるエリア。戦艦大和もここで建造された。、
 海上自衛隊の呉基地に所属する潜水艦と         護衛艦が停泊している。                                                    
歴史の見える丘  
歴史の見える丘…明治22(1889)年呉鎮守府開設以来の歴史を感じることができる代表的な場所  左右は戦艦大和の砲弾
   大和ミュージアム 
「呉の歴史」と造船・製鋼を始めとした各種の「科学技術」を紹介する博物館。2026年4月リニューアルオープン。
 戦艦大和の主砲   戦艦大和の1/10の模型:戦後60年にあたる2005年にオープンした  零式艦上戦闘機六二型(ゼロ戦)
 鉄のくじら館:海上自衛隊の活動が理解できる。  海上自衛隊呉地方総監部:明治40年に建てられた美しいレンガ建築  
潮待ちの港
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