2003年 秋の木曽路(中山道)を行く
 天下を統一した徳川家康は、1601年東海道53次を定め、翌、1602年に江戸日本橋を起点に京の3条大橋までの中山道(530Km)69次も定めた。木曽路は、江戸から33番目の贄川(にえかわ)宿から馬籠(まごめ)宿までの木曽11宿(22里、90Km)だが、現在もその面影を残すのは奈良井、福島、妻籠(つまご)、馬籠の4宿だけとなった。東海道のように頻繁な川止め、そして海の旅や川越などの危険がない木曽街道は、変化に富み、美し景観は、旅人を楽しませたに違いない。かってこの道を伊勢詣、善光寺参りの旅人が行き交い、参勤交代の大名が、正装した武士たちが連なり、和宮を初め江戸へ嫁ぐ姫たちが、そして俳人芭蕉が、絵師の安藤広重が、通り過ぎて行った。木曽路は旅人の憧れでもあった。当時の人は2泊3日で旅したという。
今回は、名古屋へ新幹線で、特急しなので多治見へ、ここからレンタカーにて松本へ。孫3人連れての旅でした。














京へ五十二里
江戸へ八十里
江戸から33番目

木曽路の紅葉 2階の屋根が50cmほどせり出した出梁(だしはり)造の2階屋と堅繁(たてしげ)
格子の家並みが続く妻籠の宿は現在も江戸時代の面影を色濃く残す

馬籠宿(まごめじゅく)山の尾根のため水に恵まれておらず、火災が多い、明治28年の大火で殆どが焼失したが、新しく再現された。小説”夜明け前”で知られる島崎藤村の生誕地で、11宿の最南端。
名古屋から特急”しなの”にて
多治見へ、ここからレンタカーにて松本へ
馬籠の宿。             築100年の農家の建物を改造して宿を営む但馬屋
没落に瀕した馬籠の本陣、問屋、庄屋の任にあった父島崎正樹をモデルにした歴史小説が”夜明け前”である
宿場は600mの石畳が敷かれた「坂のある宿場」で、常夜灯、水車小屋等が残り、格子造りの民家が並ぶ。

馬籠峠(馬籠へ2.2Km,妻籠へ5.5Km) 馬籠峠の茶屋にて

妻籠宿(つまごじゅく) 街道全体が歴史博物館のよう。伊那への清内路街道の分岐でもあった妻籠は、旅籠31軒をはじめ80軒もの商家が軒を並べる宿場として発展した。その後、明治23年に、国道19号が、さらに明治43年に中央本線が宿場を除けて木曽川沿いに開通すると、急速に衰退の道を辿る。
そのうち、”えらい、歩けない”by一樹
出梁(だしはり)造の2階屋と堅繁(たてしげ)格子、卯建(うだつ)の上る家が続く妻籠の宿は現在も江戸時代の面影を色濃く残す
”智君も肩車”by智規、足にしがみつく一樹 二人とも歩くこととなりガッツポーズの二人
福島宿戦国時代の覇権を握った豊臣秀吉、徳川家康が木曽全域を自ら直轄地としたのは、日本の中心に位置する木曽の軍事的要衝としての重要性と、木曽山林のもつ経済的価値を高く評価したからである。秀吉の聚楽第、伏見城造営に続き、家康の江戸城大改修や名古屋城の造営に木曽材を使った。

山村代官屋敷の玄関↑と、書院造りの書斎↓ 上段の宿場用水の水場
この水は木曾川となって太平洋へ注ぐ
往時を忍ばせる高札場
村人や旅人に法令を徹底さける手段として設けられたもので、宿場の入り口にある


御嶽山(3067m)の夜明け
”いわや”にて
多くの宮家、文人墨客がお泊りになられた、総檜造りの琥珀の間


木曽路 福島関所。1977年に復元された。上番所と下番所からなる。

江戸4大(東海道の箱根と新居、中山道の碓氷と福島)関所の1つで、”入り鉄砲に、出女”を厳しく取り締まった福島関所。

奈良井宿(ならいじゅく)標高940m、水田が1枚もない地に1Kmにわたって、”奈良井千軒”とうたわれ、木曽路一の賑わいを誇った宿場町

総桧造りの木曽の大橋。長さ33m,,幅6.5m信濃川水系の奈良井川

美味しい
木曽のそば

木曽谷はそばの産地。挽きたての地粉と清らかな冷水を使うことで、香りが豊かで腰のしっかりしたそばが生まれます。


2階の屋根が50cmほどせり出した出梁(だしはり)造

木曽漆器の町平沢寒冷地で田畑のとぼしい奈良井村では住民の生活を支える主要な手段として近世初頭から檜物細工がおこなわれ、18世紀中頃に塗櫛製造が本格化した。明治時代に入って錆土が発見され、本堅地漆器の基盤ができ、さらに挽曲物の技法の発明による宗和膳の生産、そしてその後、堆朱塗の技法の開発普及など、原材料の確保や技法の進歩が、産地として発展した。
昔からの漆器店が軒を連ねる木曽平沢本通り 堆朱塗、春慶塗などが特徴山加萩村漆器店 長野マラソン優勝者のトロフィー

 天下に知られた木曽美林と多湿と澄んだ空気という好条件が漆産業を盛んにした。
 飛騨の春慶塗の系統で、木地の美しさを生かすため透明漆を塗る方法。
親切に説明して頂いた店主さんと 山加萩村漆器店の漆蔵を改造した”ギャラリー蔵”

旅人の喉を潤し、住民の生活用水に利用された水場
奈良井宿では7カ所設けられていた。

贄川(にえかわ)宿
贄川口留番所
ここは北方の固めとして、戦国時代より番所が設けられていた。通行人の取り調べと同時に、
木材の闇搬出を防ぐ”白木改め”の役を担っていた。
中山道は、皇家や摂家の女性が東下して将軍家へ嫁ぐ街道でもあったため、別名”姫街道”とも呼ばれていた。
”これより南 木曽路”の碑 白樺湖畔にて
internavi中山道 馬籠宿(まごめじゅく) 木曽路の宿いわや 山加萩村漆器店
第一礼装 準礼装 新春 新緑
初夏
盛夏
晩夏
ゆかた 初秋
奥の細道

秋の京都
第5会おとこの着物大全会