高野山 ・ 吉野 ・ 山の辺の道

 弘法大師、空海は、774年讃岐の国善通寺に生まれた。804年遣唐使として入唐し、【遍照金剛】の号を授けられ、816年高野山を賜り、835年高野山に入定した。空海、62歳であった。
 空海には、奇跡があった。@803年第14回遣唐使船は還学僧(げんがくそう)最澄らを乗せて難波津(大阪港)を出航したが、日本を離れてから嵐に遭い、引き返して来た。最澄は九州に留まり国東半島などで布教をした。遣唐使船は、修理して、翌年804年に再度難波津を出航した。空海31歳は、留学僧として第一船に乗って、7月6日肥前国五島列島の田浦から東シナ海へ、途中暴風に遭い、舵を取られ34日間漂流の後、8月10日赤岸鎮(せきがんちん)に漂着した。もし、803年の遣唐使船が嵐に合わなかったら、空海は唐へ行くことは出来なかった。
A805年第1,2船は最澄らを乗せて対馬を経由して帰国した。空海は20年間の留学の予定で勉学し青龍寺(しょうりゅうじ)東塔院で恵果(けいか)から潅頂を授戒され、真言密教の奥義を伝授され、「遍照金剛(へんしょうこんごう)」の潅頂名を授かった。806年3月17日桓武天皇が崩御し、第51代平城天皇が即位した年、新皇帝の即位を祝う使節として高階遠成(たかしなノとおなり)らが長安にやって来たので、空海は、留学期間20年の短縮を請い、許され、同年4月空海は遣唐使船に便乗し、帰国の途に着いたが、第4船は五島の玉之浦に帰国し、五島各地を巡り数多くの伝説を残している。もし、20年間留学をしていたならば、空海の生涯遣唐使船は来なかったので、日本へ帰ることは出来なかった。



高野山
高野山は弘法大師(空海上人)が816年真言密教の根本道場として定められ、国の平和を祈り国民に安らかな生活への道を伝えるなど崇高な目的をもって開創せられた。



総本山金剛峯寺


ばん龍庭:日本最大の石庭


根本道場大伽藍
壇上伽藍の根本大塔:真言密教の根本道場として建立された多宝塔。
中央に金色に輝く大日如来が、その四方に四仏が鎮座し、巨大な柱には十六大菩薩が描かれている。
この内部は胎蔵曼荼羅の世界を表していると言われている。
伽藍中門と影向(対面)桜
桜の美しさは人々を魅了します。しかしその花びらは儚くも散りゆき、
泡沫の春は夢のように一瞬で過ぎ去る。
盛者必衰の理をそっと語り掛けているように、美しく咲いています



奥の院
高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地です。

菩提樹の数珠と半袈裟をして
数珠玉は、108が基本であり、これは人の煩悩の数を表し、約数の27,36、54でも作られている。

 南無大師遍照金剛とは、お大師さまを心から信じてお大師さまの教えに順います、と言う意味です。【南無】とはインドの言葉で帰依と訳される。お辞儀をする。真心を込めて礼拝する。【大師】とは偉大なる師という意味で、朝廷から贈られた称号です。【遍照金剛】とは、空海が中国の青龍寺の恵果から伝法潅頂(密教の奥義を授かる儀式)を受けたときに頂いた名前です。この世の一切を遍く照らす最上の者を意味している。

五輪塔 徳川秀忠夫人(お江)

織田信長 豊臣家の墓



一乗院にて


8時から瞑想・阿字(息)観体験をした

                     写 経
上は右下の小学1年生の孫の写経

写経:般若心経を1時間かけて写経をした。般若心経 般若心経
孫(左の小学3年)は、『習ってない字が多い、書き順は知らないが自分で考えて書くよ』と頑張って1時間で般若心経を写経した。
朝6時から勤行(ごんぎょう)の時に御祈祷してもらった。


精進料理:三の膳まである


福知院
福智院の本尊である愛染明王の名を冠した庭

登仙庭:登龍門の故事で名高い龍門の滝を模した庭。背景には、蓬莱連山の石組がなされている。前景の池泉には、鶴島亀島と日本古庭園の伝統的手法をモダンな感覚で表現している。


総寺院
玄関 方丈の庭息を呑むほどの広大で美しい1千坪の庭園が隣接された特別室。 大広間
登龍藤と桜 本堂での朝のお勤め


日本一の桜で有名な吉 野
広大な広さと力を頼りに、671年大海人皇子は、出家して吉野に下り、壬申の乱を起こして天武天皇となった。
兄頼朝に追われた義経主従は吉野へと下り、静御前はここで捕らえられて、義経は奥州平泉へと落のびて行く。
また後醍醐天皇はこの地に南朝を築いた。

金峰山寺(きんぷざん)7世紀後半に役行者がこの金峰山で修行され、人々を迷いや苦しみから救い、悟りの世界に導くために作られた。以後修験道の中心道場として多くの修行者が修行をしている。
蔵王堂の金剛蔵王権現立像は青黒色の肌をして高さ7mの秘仏は必見であった。
採灯大護摩供は、罪や穢れを焼き清め、再生への道を歩ませる。併せて様々な願いの成就を祈る修験道
後醍醐天皇は、ここを南朝皇居  と定めた。
吉水神社: 吉水院庭園:秀吉が吉野の花見をしたときに本陣となった。鶴亀蓬莱の庭
子授の神と言われ、秀吉が祈願に訪れると、秀頼を授かったと言われている 3社を一棟に連結した独特の建物

金峰神社:ここまで来ると桜がまだ咲いていた(4月10日今年は桜の開花が早かった)

義経が追ってから逃れるために静御前と共に隠れたという、義経隠れ塔

  橿原神宮 
神武天皇は橿原の宮で即位したという日本書紀の故事にちなみ、明治23年に創建された。
御垣内特別参拝をした。 この先で玉串奉天し、お神酒を戴いた。した。 53万uの広大な神域

   壺阪寺  


天竺渡来大石像
壺阪大仏、
普賢菩薩 千手観音 文殊菩薩

うぶすなの郷  



2012年惜しまれながら閉館した富本憲吉記念館。
富本の生家であり陶芸の原点であった家を『うぶすなの郷』として2室に
生まれ変わった。

三輪そうめん:細くて腰があり、美味しい


 大 神 神 社   
三輪山麓に立つ、日本で最も古い神社の一つ、三輪山をご神体とするため本殿はなく、拝殿をとうして三輪山を遥拝する。

2の鳥居

『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山にまつられることを望んだとあります。
延喜式えんぎしきの社格は官幣大社かんぺいたいしゃ で、後に大和国一之宮やまとのくにいちのみやとなり、明治時代にはその由緒によって官幣大社かんぺいたいしゃとなりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて
一の鳥居:日本一高い。
鈴木宮司よりお話を伺った 昭和天皇の御親拝を案内する藤田宮司の写真 昭和59年10月 拝殿国重要文化財。寛文4年(1664)徳川家綱公により再建。
正式参拝をして巫女による神楽と玉串礼拝 三輪山をご神体とするために本殿がなく、拝殿を通して三輪山を拝む原初の神まつりの姿を留めている。    神の山・三輪山と拝殿を区切る場所に立つ。
本殿にかわるものとして神聖視されてきた

 箸墓古墳 
卑弥呼の墓とも言われているが、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓と治定されている。
日本書紀には、倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめ大物主神おほものぬしのかみの妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみみたす。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀みすがたたてまつらむと欲ふ」といふ。大神こたへてのたまはく、「言理ことわり灼然いやちこなり、吾明旦に汝が櫛笥くしげに入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥くしげを見れば、まことに美麗な小蛇こおろちがいた。その長さ太さは衣紐きぬひもぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾にはじみせつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸にほときてかむさりましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。


第一礼装 準礼装 新春 新緑
初夏
盛夏
晩夏
ゆかた 初秋
奥の細道
国東半島
秋の木曽路