語り部と旅する世界遺産高野山の旅 語り部と旅する 世界遺産 高野山の旅【4日間】 | ワールド航空サービス

語り部木下浩良氏は清浄心院・高野山文化歴史研究所 所長。元高野山大学総合学術機構 課長。NHK番組ブラタモリで高野山の案内役を務め、高野山の歴史にまつわる著書を多数出版。
 織田信秀の顕彰碑
   
織田信長の孫として生まれ、幼名三法師は秀吉の周旋により3才にして20万石の城主になった。関ヶ原の合戦には西軍で出陣し敗北すると、
美濃13万石は没収され、高野山送りになったが、信長の高野山攻めを理由に高野山から追放され、享年26歳で死亡した、自害とも?
 女人高野と呼ばれる慈尊院 
『我が子が開いた高野山を一目見たい』と大師の母が讃岐の国から訪ねてきたが、当時の高野山は女人禁制だったので、大師のもとには行くことが出来ずここ慈尊院で暮らしていた
 弘仁7(816)年弘法大師が高野山開創に際し、高野山詣での要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を創建し、庶務を司る政所、高野山への宿所、冬季の避寒修行の場所とした。 子授かり、安産、育児、授乳、良縁などを願って乳房型絵馬を奉納する  多宝塔

丹生都比売(にうつひめ)神社  紀ノ國一の宮
 丹生都比売大神は天照大神の妹神であるとされている。大神の名前にある「丹」とは、辰砂(朱砂)の鉱石より採取される赤い顔料をあらわします。古来この丹には魔を退ける力があるとされ、貴ばれてきました。現在でも、神社仏閣を赤く塗り(丹塗り)、お祝い事に赤を用いるのは、この丹に由来します。丹生都比売大神は、この丹をつかさどり、その力であらゆる災厄を祓う女神です

 千二百年前、真言密教の根本道場とする地を探し求める弘法大師の前に、丹生都比売大神の御子神である高野御子大神が、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れました。このご神犬に導かれ、弘法大師は天野の地で、丹生都比売大神より高野山を授けられたのです。弘法大師は、大神を高野山の総鎮守・真言密教の守護神として崇敬し、高野山の中心である壇上伽藍においても、御社を築きお祀りしました。以来、丹生都比売神社の周囲にも仏堂・仏塔が築かれ、神職だけではなく僧侶によってもこの神社は守られてきました。平安末期に落雷で壇上伽藍が焼失し、山上が荒廃した際には、この地に高野山復興の本拠がおかれたといいます。高野山の参詣では、当社も参拝するのが弘法大師以来のならわしであり、「参らねば片詣り」とされています。千年以上続いた「神仏習合」と呼ばれるこの祈りのかたちですが、明治の御代になると、大きな変革が訪れます。明治政府は神仏分離の政策を進め、その波は当社にも及びます。当社も仏堂・仏塔を廃され、僧侶も高野山へ退去し、その様子を大きく変えました。しかし、それでもなお神仏融和の日本の祈りの姿の要としてあり続け、大正十三年には当時の最高位の社格となる「官幣大社」へ列格されました。

 古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。
中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。  
   一間社春日造・檜皮葺きの四殿が並びます。
一間社春日造りとしては最大級の社殿とされます。
 光明真言曼荼羅碑とも呼ばれ、江戸時代前期に建立されたものです。梵字の光明真言が時計回りに円を描いて刻まれています

 高野山 
高野山は弘法大師(空海上人)が816年真言密教の根本道場として定められ、国の平和を祈り国民に安らかな生活への道を伝えるなど崇高な目的をもって開創された。
     
 天野なごみ処 Cafe 客殿
古い民家を改造したふるさとの味でした
 「町石道」は、七つある高野山への古道「高野七口」の
主要道であり、弘法大師自ら開いた道と伝わります。
 大門:高野山の西の入り口の正門である。重層の五間三戸、入母屋造
銅瓦葺の楼門。1668年に炎上し1705年に落慶した。
仁王像は東大寺南大門に次ぐ日本で2番目に大きい
九度山の慈尊院から高野山壇上伽藍の根本大塔2Kmを結び総数180本もの五輪塔形の石柱(町石)が、一町(109m)毎に建てられたのが残っています。 
   胡麻豆腐 濱田屋  胡麻豆腐 角浜での昼食
  蓮華定院 
戦国武将/大名真田家の高野山における菩提寺
 1190年に創建、六文銭のお寺  キリク字 梵字を砂紋で描いた枯山水の石庭  宿坊での昼食
 真田昌行と幸村が関ヶ原の戦いで高野山へ蟄居命じられ、仮寓していた真田家ゆかりのお寺     中庭
幸村は大阪冬の陣では高野山を抜け出し、真田丸を作り善戦するも1611年戦死した。兄信幸は徳川方に付き家督を継ぎ、永代墓を築いた。
 幸村の兄信幸は1千両を寄進し、真田家永代の墓を作った。
幸村は1607年生前葬を蓮華定院で行った。生前葬を『逆修』という。平清盛も出家したというが、逆修であった

金剛三昧院 
1211年北条政子が夫頼朝の逝去に伴い菩提を弔うために禅定院を創建した。1219年に一大伽藍を造営し金剛三昧院と改めた。1227年に臨済宗から真言宗の寺院となった。
 毘張尊(びちょうそん)と書かれた山門  国宝多宝塔:運慶作五智如来像が安置、石山寺に次ぐ2番目に古い  幕府の手厚い保護を受け、寺領は山内で最も多くあった。
 また後醍醐天皇の御臨幸を初め、皇族、公家、武将の来院も多く高野山内格式随一であった。
 勤行  阿字観体験1時間した。真言宗に伝わる瞑想法
屏風の中に大きな月輪を描き、その中に梵字の「阿」が蓮華の花の上に

第一礼装 準礼装 新春 新緑
初夏
盛夏
晩夏
ゆかた 初秋
奥の細道
国東半島
秋の木曽路