九州の装飾古墳

 古墳は4〜7世紀に全国では16万基以上が造られて、装飾古墳は849基です。熊本県は約25%と最も多く、壁画に幾何学的な図形や人物、動物たちなどが彩色豊に描かれた装飾古墳。その原始的な美しさは、古墳文化の中でも異彩を放っている。壁画は当時の人々の生活や服装などをうかがい知る貴重な資料となっている。日本でも高松塚やキトラ古墳と言った有名な壁画古墳が現存しているが、九州の装飾古墳は、この壁画古墳より更に時代は遡り、6世紀に発展を極めた。日本各地の酋長達は古墳と呼ばれるお墓作っていた。古墳は、形・大きさ・埋葬施設の形態から当時のヤマト王権と深い繋がりがあるとされています。
また、前方後円墳は”ヤマト王権が認めた首長のみ”築造を許されたと推測されている。熊本の菊池川流域に装飾古墳が多い理由は、装飾古墳に用いる赤色の顔料であるベンガラの材料と、阿蘇黄土が入手しやすかった、並びに大陸との近さがあった 
 6世紀末の竹原古墳を最後に装飾古墳は姿を消していったのは、仏教伝来の影響だろう。今回は2025年12月ワールド航空サービスの『九州の装飾古墳と筑前の小京都4日間』に参加した。
六世紀末頃の 竹原古墳 福岡県宮若市
 諏訪神社の境内にある、直径約18m、高さ5mの円墳です。   死者を安置する玄室と前室、通路の羨道で構成されている。  玄室の描かれた、四神信仰、龍媒信仰、葬送儀式、騎馬民族の到来の表現である。
四神信仰とは、東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武の動物の型をした神が配置され、四方を守ているという中国古代の信仰。  石室は複式室の横穴式石室で 勾玉、ガラス玉、金環、馬具、刀の鞘、鉄鋤等の副葬品が石室にあった
  龍媒信仰も中国古代の信仰で、水辺に牝馬を連れ龍の種を得て駿馬を誕生させる信仰です。ここに葬られた人は駿馬誕生の願いを絵に描き、子々孫々まで発展することを祈ったのでしょう。
 葬儀儀式として、死者を船に乗せて来世に送っている儀式の様子を描いている。
 騎馬民族到来は、船に馬を載せ朝鮮半島から渡って来た様子を描いたのではと言われている。
中国や朝鮮の影響を強く受けている。

六世紀末の竹原古墳を最後に装飾古墳は終わり、大和朝廷支配下の前方後円墳に代わって行く
         きしば:      日除けに用いる団扇のようなもので、豪族の儀式や行列に使用した権威の象徴とされているもの。
         龍:         赤い火を吐き、爪をとがらせを尾を逆立て体に赤の斑点を描いている。四神の青龍だと言われている。
         馬を牽いた人物:馬は小型、人物は冠をかぶり、みずらという髪型、上着とズボンを履き、先のとがった靴を履いている。
   王塚古墳   
王塚古墳は、六世紀前半に造られた前方後円墳で、石室内に豊富な模様が描かれた装飾古墳である。
現在、装飾古墳の中で国の特別史跡に指定されているのは、王塚古墳と奈良県の高松塚古墳、キトラ古墳の三つである。
  王塚古墳は前方後円墳、墳長は64m。周りに幅8〜12mの堀(周濠)、その外側に幅5メートルの堤をめぐらせている。
内部は閉鎖されていて、見れない。残念!
王塚装飾古墳館:火災発生の為に閉鎖。残念  前後2室に分かれた石室は、全長6.5m後室(玄室)4m、幅3m、高さ3.5mの大型で、石枕の数から4体が安置されたようです。
壁画は我が国最多の5色(赤、黄、緑、黒、白)を用いている。

(ホームページより転写した)
 熊本県立装飾古墳館のレプリカ
 五郎山古墳 
五郎山古墳は、径約35メートルの装飾壁画を持つ6世紀後半の円墳です。昭和22(1947)年に発見され、2年後に国の史跡に指定された。 壁画は、人物、動物、船、家など多くの具象画で構成されているとが特徴です。古墳は築造された当初の姿に墳丘を復元整備しており、石室内部を観察室から見ることができる。壁画を再現した実物大の石室模型は、羨道(せんどう)部分が可動式で開くようになっており、内部が見学しやすくなっている。
 標高72mの小高い丘に造られた五郎山古墳  2段を持つ円墳です。東西32.5m、南北31.8m  五郎山古墳館は、壁画の意味を読み解いていくことを目的とした施設
   羨道は3.6m、幅1m。石室は11m。玄室は幅3m、奥行4.2m、高さ3.5mに倉や弓、鳥、船、冠をかぶった人物、矢が刺さった動物、鎧兜を身に着け太刀を持った騎馬人が絵描かれている。 
  柳川川下り 
1時間の予定で往復をした。炬燵が入っていたので暖かかった。
夕食  
 1日目博多のモツ鍋 2日目 柳川の鰻のせいろ蒸し  3日目柳川の夜明け茶屋の海鮮料理:美味しい
わらすぼの生き作り、ムツゴロウ、くつぞこ(したヒラメ)、海茸の炙り、
マジャクのてんぷら、飯蛸等珍しい魚料理

ナギノ横穴古墳・石貫穴観音横穴 
 熊本県玉名市  50mにわたる阿蘇の溶結凝灰岩に45基の横穴式装飾墓地が続く。  1つの穴に3カ所の屍床がある。
  石貫穴観音横穴:安世寺の集落を見渡せる高台の岩壁に掘られた大きな横穴は、千四百年以上も昔、この地を治めていた首長(リーダー)のお墓。赤で彩られ三重に縁取られた重厚な入口から先は、岩を削り造られた、瓦葺きを思わせる庇の下には浮き彫りの「千手観音像」が鎮座している。

 古代の森(山鹿市立博物館、チブサン・オブサン古墳)
 
菊池川流域にはチブサン古墳やオブサン古墳などが点在し華やかに古墳文化を今に伝えている。
5〜7世紀の200年間に装飾古墳は全国で650基、そのうち熊本県には190基以上、菊池川流域には110基以上が集中している。
 
 1978年に熊本県2番目の歴史系博物館として開館した  
   チブサン古墳:6世紀に東西方向に作られた前方後円墳です。  中は3重に仕切られているが、湿気がひどく、カメラレンズや眼鏡が曇って撮影できない。
     後室には家形石棺が置かれている。
        古代人の生死感
古代人は、この世で死ぬことは、あの世で生まれ変わることだと固く信じていた。従ってあの世の生活をするために、大きな古墳を作り、永遠に壊れないように石組みの堅個な部屋を作り、部屋を美しくしようと赤青白などの絵を描いたり、文様を彫ったりした。
 
          死後の世界は何処にあるのだろうか!
1.あの世は地下にある:古事記にはよれば、愛する妻を失った伊弉諾尊は、妻を尋ねて ヨモツイラ坂から黄泉の国に降りて行き、恐怖で逃げて帰ったとか、土葬は良い例である。
2.死ねば魂は鳥になる 。日本武尊は草薙の剣を持たずに伊吹山で賊と戦い死ぬ。塚を築いて尊を葬ると、尊の魂は白鳥になって大和へ飛んで行った。
3.あの世は海のかなたにある。三途の川を渡る、浦島太郎伝説。江戸時代の補陀落信仰など。
4.あの世は山の上にある。:古墳や墓は村を見下ろす高いところにある                        
 オブサン古墳は円墳、足を広げたお産(うぶ)さんによるらしい。
安産の神様として信仰
   

 熊本県立装飾古墳館 
安藤忠雄氏の設計による、前方後円墳岩原双子塚古墳を模した装飾古墳館です。多くのレプリカが保存されてある。
   石原古墳群;古墳館の前は墓場だ、前方後円墳、円墳など多数の古墳  横山古墳:湿気が多くてレンズが曇り何も撮れない
 
横山古墳のレプリカ:6世紀後半に作られた、直径22m、高さ5mの円墳。横穴式石室。明治時代は西南の役の陣地となっていた。
普段見ることができない装飾古墳の内部を忠実に再現して展示してある。  千金甲1号墳:直径12m、高さ3mの円墳、板石を小口にして積み重ねて壁を作った単室の横穴式石室。左右と中央に3つの屍床がある

   萩の尾古墳 
直径16m、高さ4mの6世紀後半の円墳である。
   装飾模様は赤色顔料で描かれたゴンドラ型の船や盾、同心円、三角の模様が描かれている。床面には遺体を納めた石屋型の一部がある。  

 秋月城址 
秋月藩は1623年に黒田長政の3男黒田長興が5万石を分知されて立藩し、明治維新まで続いた。支藩だが江戸幕府から直接朱印状が交付された独立藩でした。山間地が多く、農業生産力は低かったため、藩の財政は困窮していた。高鍋藩の上杉鷹山(のちの米沢沢藩主)の殖産政策を見習い、葛粉の栽培で成果を上げ財政を潤すことになった。7代藩主長堅公には後継ぎがいなかったので、高鍋藩主の次男長舒を迎えた。長舒の祖母は秋月藩主の娘であった。また長舒の父の弟は鷹山(後の上杉鷹山)です。
 秋月城下町  大手門:往時を偲ばせる長屋門  12月5日でしたが紅葉が奇麗でした。
   12月5日だが紅葉は見ごろであった。  
 国立九州博物館 
2005年に東京、京都、奈良に次ぐ4番目の国立博物館として開館した。現代的なデザインと伝統的な要素が融合した美しい建築が特徴です。
第3室倭人伝の世界、第4室にぎやかな古墳のまつり、第5室装飾古墳の中の映像シアター、第6室アジア人の理想の姿、仏教彫刻、第8室遣唐使とシルクロード、などの室を見たかった。
 ガラス張りの外観は、周囲の自然と調和し開放感を与えます。  『日本文化の形成をアジア史的視点から捉らえる』というコンセプトをもって造られた。これは古くからアジアとの交流の窓口であった九州の地の特性をいかしたもので、他の国立博物館が美術系であるのに対し、歴史系の博物館として位置づけられている 
    

古代史(日本人のルーツを訪ねて
呉服の国 蘇州神話の国 出雲吉野ケ里渡来弥生人説 土井ケ浜魏志の倭人伝対馬壱岐末盧国伊都国奴国天孫降臨薩摩天孫降臨高千穂日向1日向2神武東征隼人熊襲八幡宮百済飛鳥朝倉宮一の宮