1大陸文化の倭国への中継地
2国境の悲運と宗氏の功績
3朝鮮通信使
4要塞の島・対馬
潮待ちの港
潮待ちの港 対馬No2国境の悲運と宗氏の功績
風待ちの港

  対馬の中世史は、12世紀に宗(そう)氏の始祖・惟宗(これむね)氏の入国に始まる。惟宗氏は、元々太宰府の官人であったが、筑前の宗像(むなかた)郡から対馬に来た。対馬守護・地頭の少弐氏の代官として次第に島での実権を握り、武士化して宗氏と称した。1246年,宗氏が在地勢力の阿比留氏を太宰府の命(阿比留氏が、当時国交がなかった高麗と交易しているのを太宰府が咎めたが従わなかった)により征討して、初代宗資国が島主となり、明治まで藩主として対馬を治めた。
 国境の悲運は、4つの大きな事件があった。
    @894年新羅の賊船が攻めて来た。
    A1019年刀伊の入寇、
    B1274年文永の役と1281年弘安の役
    C応永の外寇
 1408年第7代貞茂が峰町佐賀に府を置き、1486年第10代定国が厳原に国府を移すまでの間、ここで全島を支配した。
第19代宗義智(1568〜1615)は苦渋の選択を迫られた時期であった。
第21代宗義真(1657〜1692)の治世35年間は、対馬藩の黄金期であった。

平安 894年 新羅の賊船100隻2500人が佐須浦に攻めて来る。
高  麗 1019年 刀伊の入寇、佐須浦に来襲(女真族による36人殺害、346人連行される)
鎌 倉 1246年 惟宗氏が比留氏を討ち対馬の島主となる。
1274年 文永の役。元軍、高麗軍4万人が小茂田浜に来襲し、守護代宗資国以下戦死
1281年 弘安の役。元、漢、高麗連合の東路軍が、峰町佐賀に来襲
南北 1350年 倭寇が対馬を根拠地として高麗を侵す。
1366年 高麗国王より和平と倭寇の取り締まり要請あり。以後高麗と通交始まる。
李 氏 朝 鮮 室町 1392年 李佳成が李氏朝鮮を建国。1910年日韓併合条約調印により日本に併合されるまで続く
1408年 宗氏は峰町佐賀に府を置き、倭寇を鎮めて李氏朝鮮と通交する。
1419年 応永の外寇(李氏朝鮮国が1万7千の軍を浅茅湾を襲撃する。)
1486年 府を厳原に置く
1591年 清水山城築く。1592年文禄の役、1597年慶長の役
江 戸 時 代 1607年 朝鮮通信使が来日始まる。
1635年 柳川事件(国書改ざん)起こる。
1669年 金石城を築く
1689年 雨森芳洲対馬藩に儒臣として仕え、朝鮮外交に活躍する。
1703年 韓国訳官船鰐浦沖で遭難。112名全員死亡
1811年 朝鮮通信使の江戸参礼を改め、聘礼式を厳原において宗氏が将軍に代って行う。
1861年 ロシア艦ポサードニク号が芋浦を占拠
1864年 藩校日新館設立。藤井騒動



外敵の侵略を受けた悲運の島
894年新羅の賊船100隻2500人が佐須浦に攻めて来る
1019年刀伊の入寇 
 賊船50隻余りが突如佐須浦(文永の役と同じく小茂田浜)に来襲した。住民36人を殺害し、346人連れ去るなど残虐な行為が行われた。当時この賊の正体が解らず、刀伊賊と呼んでいたが、その後女真族であったことが解った。
        佐須浦には『刀伊の入寇』、や『新羅の賊船』の看板が無いのは何故だろうか?


蒙古の襲来
    文永の役
 蒙古(元)が中国を統一すると、高麗に日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当させ、日本の朝貢を勧告して来たが、鎌倉幕府はこれを拒否したために、文永11(1274)年10月5日元軍2万、高麗軍1万総兵力3万人は、900艘の大船団をもって対馬の西海岸一帯を侵略した。
 6日午前4時頃、宗家初代当主・宗資国は、親兵80余騎で勇敢にこれを迎え撃ち、戦ったが午前9時頃小茂田浜で全員奮死した。その間2人(小太郎と兵衛次郎)が主君の命により島を脱出し博多へ報告に行った。9日間にわたり高麗軍に侵略され、島民の被害は壊滅的であった。
 その後元軍は、14日午後4時頃、壱岐の勝本港に上陸し壱岐を壊滅させた。19日博多湾に侵入して、翌朝20日に博多を焼き尽くした。
 日本軍は鎧兜に身を固めた一騎打ちの方法しか知らない。元軍はドラや太鼓を鳴らして集団でどっと進んでは引いたりする。長い槍と、火と煙の吹き出す爆弾を使い、日本軍を撹乱した。
 しかし20日夜、嵐が起こり、元の船は殆んど沈み、1万3千人の兵士が死に、残兵は、高麗へと引き上げて行った。

 当時の様子を日蓮は『一谷入道御書』に、『去る文永11年10月に、蒙古から九州へ攻め寄せてきたとき、対馬の者は守りを固めていたが、、、、蒙古軍は百姓等を、男をば殺したり生捕りにしたりし、女をば取り集めて手を通して(掌に穴をあけて綱を通して)船に結いつけたり、生取りにした。一人も助かった者はいなかった。壱岐に攻め寄た時も同じであった。』と記してある。また戦利品として元の皇帝に献上された200人の幼い子供たちは、壱岐、対馬の少年、少女だった。
 またむごたらしい様子は、八幡愚童訓には『その中に高麗の兵船4、5百艘、壱岐対馬より上りて、見かくる者をうち殺し、狼藉す。島民ささえかねて妻子を引具して深山に逃げ隠れにけり。赤子の泣声を聞き付けて探り求めて捕らえけり。さりければ片時の命を惜しむ世の習ひ、愛する児を刺し殺して逃げ隠れする浅ましき有り様なり。』と残酷悲劇の様子が書かれている。
弘安の役 1281年元と高麗、漢軍連合の東路軍は峰町佐賀に来襲した。
元寇の古戦場小茂田浜(佐須浦)
小茂田浜に上陸した元軍と戦う宗資国などを、孫に説明中。 この小茂田浜神社は、宗資国公以下国難に殉じた人々を祀っている。



1419年応永の外寇
 倭寇に悩まされていた朝鮮国李朝の太宗・世宗は、倭寇の根拠地と考えられる対馬を征伐することとし、応永26年(1419)6月、李従茂をして兵船227隻、兵員1万7千人余の大軍を対馬の浅茅湾に進攻させた(応永の外寇)。
 朝鮮の大軍は、宗貞盛に書を送ったが返事がなかったので、先ず尾崎を襲撃し、続いて小船越を襲い、更には、仁位浦に進撃して如加岳(ぬかだけ)付近で激戦となった。
 朝鮮軍は多くの戦死者を出し、同年7月に対馬から撤退した。
 李氏朝鮮国は、翌1420年戦後処理の問題で足利将軍へ回礼使を送り、『交隣の義』を説いている。これが最初の朝鮮通信使と広義には言われている。


李氏朝鮮と倭寇と朝鮮貿易
  倭寇とは、1350年から16世紀にかけて朝鮮半島、中国大陸沿岸に行動した海賊的集団の総称を言う。朝鮮半島や中国の書物に出てくる言葉で、日本の書物にはない。日本は南北朝の争いで乱れており、元寇の役で生活に困窮した壱岐、対馬、松浦の人の中には、倭寇になる者もいた。高麗王朝は財政政策の失敗から、国力が低下し、秩序は乱れて、倭寇対策が取れない状態であった。
 1392年に、倭寇討伐で活躍した李成佳が倭寇対策に手を焼いた高麗を滅ぼし、李氏朝鮮を建国した。この李氏朝鮮は、倭寇対策を変更した。来襲上陸して来た倭寇を捕らえて、投降帰順をすすめ、土地や官職、仕事を与えて定住させた。また特に貿易を望む商人に対しては『興利倭』と呼んで諸港での交易を許可した。鎖国をしていた李氏朝鮮では、1407年には富山浦(釜山)、乃而浦(ないじほ)、1419年に塩浦を加えた三浦と京城の東平、西平の2館への日本人の居留と貿易が認められた。三浦は、その後日本人居住地として繁栄した。しかし1510年三浦の乱が発生すると、宗氏は日朝貿易拡大を狙い反乱を支援したものの鎮圧され、在留日本人は追放され、和館は閉鎖された。1521年復交して釜山浦一港となるが、秀吉の出兵で国交は再度断絶した。
 1419年には、日本人通交者には『図書』という銅印を与え、使者を派遣する際に、図書を書簡(外交文書)に押して、正式な通交(渡航)証明とした。海東諸国記によれば、受図書人は殆どが対馬の人で、壱岐が8名、松浦党が5名である。これは表面は交易者、裏面では海賊行為をする典型的な倭寇衆であったことを表している。

                             図書⇒
 1443年嘉吉条約(朝鮮との通交条約である)が第8代宗貞盛と結ばれると、日本から朝鮮へ渡航する認可証明書は『文引』といわれ、対馬藩主の宗氏に発給させた。以後朝鮮貿易を独占すると共に、日朝関係の窓口とし勢力を拡大して行くことになる。
 その後、李朝は倭寇対策の一環として対馬と壱岐の有力豪族たちに官職を授け貿易を認める懐柔策もとった。「海東諸国記」(李朝鮮の申叔舟1417〜75年らが、王の命により1443年日本に使して、親しく日本の状況を視察して作った書で、海東諸国とは対馬、壱岐、九州、本州及び琉球などの総称で、これら諸地域の地勢、国情、国交などを詳しく記している。)によれば、対馬には18人の授職人がいたと記されている。官職を授けられた者はを受職倭人と云い、年に1回下賜された冠服、品帯を着け告身を携えて朝鮮へ赴き、摂待を受けて貿易をした。
 1609年慶長条約の締結により、釜山に倭館が再建され、倭館は貿易と対馬島民の居留に供され、明治維新まで続くことになる。
 慶長条約締結後の釜山の和館は、約10万坪(出島の25倍)の広さがあり、そこに対馬藩士や島民500〜1,000人(当時の対馬の人口の1割)が居留し、ここで貿易が行われた。和館の周りは、番所や塀で取り囲まれ、外へ出ることは厳しく禁じられていた。そこには館主家、裁判家、通詞家、宴大庁などの施設がある鎖国時代の在外公館であった。通信使の来日日程や儀式などの交渉や確認をする一方、対馬との貿易額、歳遣船の定数の調整など平和的交易の具体的な話し合いが行われた。日本からは、銀・銅・こしょう・明ばんなどが輸出され、輸入されたものは、朝鮮人参・生糸・米などであった。この貿易の形態は長崎の出島とは異なり、朝鮮国の釜山浦まで歳遣船(さいけんせん)を出し,そこの倭館で交易を行った。この倭館は、明治6年(1873)、外務省に接収されるまで、対馬藩の朝鮮との外交交渉と貿易の場となった。1876年開国後の倭館は、日本人の専管居住地となった。倭館は朝鮮の中にある日本人町、日本人の世界であった。

 朝鮮には、この頃から対馬は朝鮮国の属国という論がある。
1419年応永の外寇に際して戦線布告とも言うべき、征対馬島教書には、『対馬為島本是我国之地』とある。また対馬を論す書では、『対馬はもと、慶尚道の鶏林に属し、我が国の堺であったことは文籍にも載っている。しかしその地甚だ小さく、また海中にあって往来し難きも以て、無人の地となっていた。そこに倭奴の其の国より逐われて、帰る所無き者が来て集まり、海賊を業としている。』と記されている。よって朝鮮では、この無稽とも言える『対馬はもと我国の属国』という辞句が、以後しばしば引用される。


1443年梅林寺文引を発給する事務を行った梅林寺 朝鮮国告身(こくしん)
 尾崎の早田家に伝わる朝鮮国の告身(官職授与状)とは、李氏朝鮮(1392〜1910)より授かったもので、現在は県立歴史民族資料館に保管している。
 早田家には3通の告身が伝えられている。そのうち、1482年(文明14)早田彦三郎が宣略将軍虎墳衛副護軍という高い官職に任命されている。

(朝鮮通信使の道より転写)
 1443年朝鮮との通行条約が結ばれ、日本から朝鮮へ渡航する認可証明書は『文引』といわれ、対馬藩主の宗氏に発給させた。この文引を発給する事務を行ったのが当寺であった。李氏朝鮮は、宗氏に朝鮮の官職を授け、歳賜米200がを支給された。
 朝鮮は、日本からの貿易出来る船を『歳遣船』と呼び、貿易船の渡航数を当初は年50隻に、1512年には25隻に制限した。
 梅林寺は、538百済の聖明王が仏教、経典を伝えた仏教公伝ゆかりの地に、南北朝時代に建立された古刹。

1408年〜1486年円通寺は、宗氏3代の菩提寺である。
峰町佐賀は1408年第7代貞茂が府を置き、1486年第10代定国が厳原に国府を移すまでの78年間、島主宗氏の居城があった。
1408年7代貞茂の時に倭寇対策を行い、朝鮮との交易を始める。
1419年8代貞盛の時に、李氏朝鮮国が1万7千の軍を浅茅湾を襲撃(応永の外寇)があった。
1443年李氏朝鮮と通交条約を結び、歳遣船の定数を50と定めた。よって以後宗氏の経済的基盤が確立された。
1452年第9代成職が継ぐと、朝鮮国王は1隻は弔礼、1隻は襲封祝賀の使船を2隻送った。以降島主の代替わり毎に告慶参判使が来るようになった。
 ちなみに宗貞茂・貞盛の頃は九州にも領地があり、主家の少弐氏と共に、周防の国を支配した大内家と抗争し、残念ながら敗北。九州内の領土を失った。

円通寺は宗氏の菩提寺である。
14.15世紀の李氏朝鮮風の梵鐘(県指定文化財)、
朝鮮風の本堂。本尊の薬師如来座像(高麗仏)は見れなかった。

対馬円通寺宗家墓地
宗氏は佐賀に島府を置き、3代統治した。
その間、応永の外寇、文引の制、嘉吉約条件がなされた。数基の塔があるが、ここについての所伝は不明である。



朝鮮出兵第19代宗義智の苦渋の選択
第19代宗義智(1568〜1615) 1590年に日本を統一した豊臣秀吉はアジア諸国へ服属を命じていたが、明の征服をも企図し、宗義智に『朝鮮の服属と明遠征の先導をさせるよう』朝鮮との交渉を命じた。元来朝鮮との貿易に経済を依存していた宗氏は対応に苦慮した。また小西行長や博多商人(島井宗室)らと共に戦争回避のため李氏朝鮮との交渉に奔走した。秀吉の命で朝鮮へ渡り、日本統一を祝賀する通信使の派遣を要求して穏便に済まそうと、国書を改ざんし、翌年朝鮮の使節を伴って聚楽第に上るが、秀吉の無謀な要求は、妥協出来ず、努力は徒労に終わった。
 文禄元(1592)年宗家19代24才の義智は兵5千をもってその先鋒として従軍し、また諸侯の各隊に対馬の訳詞を派遣した。戦争は硬直状態になり、宗義智は国書を改ざんしたり、講和の努力を重ねた。そして明国の使者と共に帰国し、1596年9月秀吉に来朝した明使節を謁見させた。秀吉は降伏使節が来たと当初は喜んだが、使節の本当の目的を知り激怒。使者を追い返した。
 慶長2(1597)年に再度出兵、義智は兵1千を率いて参戦し、義父小西行長らと共に1番隊として転戦しているが、早期停戦を目指して和平交渉にも当たった。
 秀吉の死により朝鮮の役は終わったが、この戦いで釜山と名護屋城との中継地となった対馬は疲弊し、その後の朝鮮との国交回復にも対馬藩は多年に渡り苦労を重ねることとなる。
 文化面では、日本軍が、朝鮮の陶工や儒学者を連れて帰ってきた。朝鮮の書籍が伝わり、活字を使った印刷技術も輸入され、古典の出版が行われるようになった。なかでも朝鮮の陶工たちの優れた技術と指導によって、萩焼、有田焼、薩摩焼、唐津焼、高取焼、平戸焼、上野焼などが起こり、日本各地で製陶技術が盛んになった。。
 萩焼のしおりには、『一楽、二萩、三唐津といわれ、茶陶として支持されてきた萩は古くは16世紀に毛利輝元が文禄慶長の役に際して朝鮮から連れて帰った陶工李敬(り・けい)、李勺光(り・しゃっこう)兄弟が始めたといわれます』と記載されてある。
 1600年関が原の戦いでは義父小西行長との関係で西軍として出陣した。戦後徳川家康は、西軍の対馬藩に対して対馬と肥前国田代以外の領土を没収し、付加条項として朝鮮との講和推進を対馬藩に委ねた。宗義智はあらゆる犠牲を払って粘り強く交渉を行った。国交回復は対馬にとっては、死活問題でもあった。幕府と李氏朝鮮との関係を修復するためには、双方の国書改ざんもしばしば行なった。1607年朝鮮通信使が来日し、1609年には慶長条約が結ばれ、対馬と朝鮮との貿易が復活した。こうして義智は対馬府中初代藩主となった。
 宗義智は、1590年キリシタン大名小西行長の娘(洗礼名はマリア)を妻とし、キリシタン弾圧の中で1600年離婚をせざるを得ないなど、波瀾万丈の生涯をおくった藩主である。今の対馬の発展は、この19代対馬藩主・宗義智の苦渋の選択の歴史の上に立っていると云っても過言ではない。 

1591年清水山

 厳原の清水山の城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に備え、天正19年(1591年) に築城された。肥前の名護屋の本営から、壱岐の勝本城、対馬の清水山城、朝鮮の釜山城と結ぶ駅城であった。
 独立状の丘陵清水山は馬背状を呈し、その稜線上に、一の丸、二の丸、三の丸と地形に即して階段状に営んでいる。規模は必ずしも大きくないが、歴史的には文禄慶長の役の遺跡として、構造上からは、遺例に乏しい文禄頃の城跡として、また、三郭には虎口の桝形の遺構が極めてよく残っているなど、史跡としての価値が高いとされている。

1613年朝鮮国王李王の姫の墓
伝説によると、この墓は朝鮮国王李王の姫といわれ文禄慶長の役に某武将が彼の国より連れて来たと云われている。異郷のこの地において悲しき運命の姫は哀れにも黄泉ぬ人となった。碑銘には慶長13年とある。



1528年金石城。
1528年築城、対馬宗氏の居城。1811年朝鮮通信使の来島時には、建物を増築して宿舎に当てた。
1528年宗氏の内紛で池の館は焼失した。古代島分寺(国分寺)の跡に、新しい館を造り、これを金石館と称した。戦国の末期から徳川の初期、豪荘な築城が流行した時代にも対州(対馬)では、天守閣や城櫓をもった城を築いていない。寛文9年(1669)宗義真(21代)が櫓を築いて金石城と称したもので、今も残る城壁、城門の跡、庭園の池など、さすがに往年の偉容をしのばせる。1678年桟原に新しい館が出来るまで、150年間宗家の居城であった。大手の櫓門は大正8年 まで残っていたが解体された。現在の櫓門は、平成211月に「ふるさと創生1億円事業」として復元された。

1615年万松院
1615年宗家20代義成は、朝鮮出兵、関ヶ原の合戦、対朝鮮和平外交と苦難を重ねた先代義智供養のため、金石館の西の峰に松音寺を創建した。1622年義智の法名に因み、寺号を万松寺と改めた。以後宗家代々の菩提寺となった。
諌鼓(かんこ)

領主に対し諌言しようとする人民に打ち鳴らされる為に設けた鼓。
1615年に建造された桃山建築様式を残す山門

  百雁木とよばれる123段の自然石の大石段を登ると、御霊屋(おたまや)がある。

上霊屋には第19代
義智公から第32代義和公までの歴代藩主と正夫人の墓がある。4〜5mにも及ぶ巨大な墓石は、義成公と義真公の墓で好況な朝鮮貿易が藩財政を潤した対馬の黄金時代の藩主である。
 なお万松院には、徳川歴代将軍の位牌、朝鮮国王から贈られた三ツ具足(香炉、花瓶、燭台)などもある。

 宗家21代義真の治世(1657〜1692年)35年間は、対馬藩の黄金期で、府中阿須川の開開、お船江の築造、府中港のヤライ築堤、銀山の採掘など土木、産業振興の施策を講じたが、義真最大の業績は、大船越瀬戸の堀切である。島の中央の浅海湾は西方朝鮮海峡に通ずるが、東方の対馬海峡には水路がないため、古来積荷を下して船が丘を越す状態であった。 寛文12年(1672)念願の水路の開さくに成功し東西の水運が開通した。その後拡張が行われ、現在の延長240m、幅50mの堀切となった。また文治にも意を注ぎ、学者雨森芳洲の招へい、我が国最初の小学校の設置などを行っている。

墓地は日本三大墓地(萩の毛利家、加賀の前田家)と言われている。 上歴代の藩主と一族の墓が並んでいる。
樹齢400年の大杉、
右の階段は殿様専用、左の石橋から上る階段は、家老以下が使用した。


1663年対馬藩のお船江跡
 久田浦にそそぐ久田川の河口に、人工の入江を築造し、対馬藩御用船を係留した船だまりで、「お船江」とも称する。現在の遺構は寛文3年(1663)の築造。
 5つのドックがあり、築堤の石積みは、当時の原型を保ち正門、倉庫休息の建物が残っており、往時の壮大な規模を窺うことができる。 江戸時代、水辺の藩はその藩船を格納する、お船屋を設けていたが、遺存例の乏しい現在、日本近世史上貴重な遺構である。
 


1703年朝鮮国訳官殉難之碑
 1703年2月5日朝108名の乗った韓国訳官船は、釜山を対馬へ向け出向したが、急変した天候のために鰐浦を目前に遭難し、全員死亡した。
 1452年第9代宗家・成職の襲封祝賀に始まり、対馬藩主の襲封祝賀には、朝鮮国から約100名の告慶参判使が対馬に来島した。李朝の資料によれば51回来訪しており、藩主・宗氏の代がわりにとどまらず頻繁な来訪があった。
 城下の古い町並みのあちこちに残る石垣塀に囲まれた武家屋敷は昔の面影をそのま残している
 苔むした石垣が軒下に届くほど高く造られている。これは強風と防火のために造られたとも言われている。

1700年陶山訥庵を祀る修善寺
修善寺は、対馬三聖人と言われる一人の陶山訥庵(すやまとつあん)の墓がある。
 対馬聖人と今でも尊敬を集めている陶山訥庵は明暦3年(1657)対馬に生まれ、11歳で木下順庵の門に学び天才の誉れが高かったという。17歳で国に帰り、その後任官した。
 その後、対馬藩郡奉行の要職につき、1700年に猪狩りの大事業に着手した。当時、野猪による農作物の被害は甚大であったが、彼は10年の歳月と23万人の人力をかけて、8万頭に及ぶ猪を絶滅させた。以来対馬ではその姿を見ることが無くなった。
 その他救貧対策など、顕著な業績を収め、晩年は農政に関する著作に専念し、農政学者としても有名である。

漂民屋跡
 対馬海峡などで操業する漁船の海難事故が相次いで起こった江戸時代、幕府の漂流民扱いは、対馬を除いて漂着地から直接朝鮮へ送還することを禁じ、すべて長崎を通って対馬藩によって送還していた。
 その間の救済措置に係ることは、手落ちのないように、気を遣い、しかも費用の全てを藩や幕府が負担した。長崎で調査を受けた漂流民は対馬藩にその身柄を引き取られ、ここの「漂民屋」で幾日か宿泊し、対馬の使者の護送で釜山の 倭館まで送還された。
 朝鮮人漂流民は、韓国南海岸の出身が多く、範囲は日本の西海全域に至り、特に対馬に多く漂着している。これは日本海に強い北々西の風(アナジ)が吹く季節と一致し、台風や海流などにより日常的に発生していた。
 この流民送還は、国交が断絶していた時代にも変わる事なく、親朝鮮政策として人道的立場から継続された。江戸時代の約200年間に朝鮮から日本に流された人々は、約3,400人、また日本から朝鮮へは1,000人程と言われており、これは生きて送還された人々の数である。

 江戸時代の善隣友好の基盤を育んだ施設であった。

椎根の石屋根
椎根の石屋根(厳原町)

 対馬で産出される頁岩(けつがん)という板状の石で屋根を葺いた高床式の建物で、倉庫として使われていた。日本では対馬だけの珍しい建物。
 石屋根倉庫の起源は古い伝統をもつものといわれている。昔は百姓の建物は瓦の使用を許されなかった。草葺きや枌葺きでは、雨露を完全に凌ぐことは難しく、また火事と強風による損害が大きかった。民家と倉庫を隔離したのもそのためで、火と風に強い石屋根が浮かび上がって来たが、これは誰でも造り得たものでなく、一部の人に限られていた。
 自給自足出来ない対馬では、食料は何よりも大切であった。風、湿気、火に最も強い平らな石が屋根に使用されたのは、厳しい風土から生まれた島民の知恵であろう。
 以前は全島的に石屋根が造られていたが、今は僅かに厳原町の数ヶ所に残っているにすぎない。
藻小屋
 対馬の海付の村々では、晩春の頃、舟を操って『藻きり』をしたり、海岸に漂着した寄藻を乾して、麦の肥料としたもので、この藻を貯える納屋を『藻小屋』と呼んだ。西面の海岸に多く見られ、別名『舟屋』とも称したのは、舟を使わない時は、これを格納したからである。

藩校日新館門(尊王攘夷の対馬藩)
 この門は、藩主宗氏の中屋敷門であったが、藩校日新館に用いられた。
 1862年対馬藩は長州藩と尊王攘夷運動に対する共同戦線の盟約を結んだ。
 また1864年2月、時の藩主義達が時勢に対処するために日新館という藩校を設立し、入学者200人に尊王攘夷教育を実施した。そして日新館は、幕末時代対馬藩勤王党の拠点となって行った。
 ところが藩の内紛により同年10月藩主の外戚、勝井五八郎がこれを粛清、2百数十名を殺害した。これにより、対馬の有能な人材が葬られた。この勝井騒動(甲子事変)がなければ、明治回天の事業に大きな貢献が出来たものと思われる。
 対馬史上、大逆の柳川調興と暴虐の勝井五八郎とは極悪人の代表として、今に至まで憎悪されている
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