1大陸文化の倭国への中継地
2国境の悲運と宗氏の功績
3朝鮮通信使
4要塞の島・対馬
潮待ちの港
潮待ちの港 対馬No4要塞の島
風待ちの港

  古来より隣国と紛争が起こると、必ず国防を強化せざるを得ないのが世の常である。
 国境の島・対馬は要塞の島として、古くは663年(天智2年)倭国軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた。新羅の反撃を恐れた大和朝廷は、対馬に烽を6カ所設置し、大陸からの侵略に備え、金田城を築き防衛の拠点とした。この城に防人が常駐し、有事の際は島民と食料を収容して防衛に徹することを使命とした。
 国境の島の悲劇は、古くは894年新羅の賊船100隻2500人が佐須浦に攻めて来た。1019年刀伊の入寇や、元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)と呼ばれる蒙古軍の襲来で、また1419年には李氏朝鮮軍の応永の外寇を受け、壊滅的な被害を被ったこともあるが、戦い退却もさせた。1861年には、ロシア艦ポサードニク号に半年にわたり、不法に占拠された。

 日露戦争に備え、万関瀬戸開削や竹敷の海軍要港を作り、対馬からバルチック艦隊攻撃に出動し、対馬沖が戦場になった。
 太平洋戦争中、対馬は要塞の島と化し、約1万人の兵士が駐屯した、島の地図は、超軍事秘密として公にされることはなかった。また戦後は、1952(昭和27)年悪名高き李承晩(韓国では平和と呼ぶ)ラインが敷かれ、日朝関係は冷えきっていた。また米ソ冷戦や北朝鮮の暴挙に備え、対馬は現在も日本の防衛の最前線である。    



李氏朝鮮 江戸 1861年 ロシア艦ポサードニク号が芋浦を占拠
明治 1896年 竹敷海軍要港部
1900年 万関運河を開削
1905年 日本海(対馬沖)海戦に大勝利を上げる。
1910 日韓併合条約調印
大韓民国 昭和 1945年 終戦。対馬〜博多定期船珠丸が壱岐勝本沖で触雷し沈没。
1952年 李承晩ラインを宣言
1968年 厳原〜上対馬間、自動車が通交可となる。



1861年ロシア艦ポサードニク号による不法占居
1861年2月ロシア艦ポサードニク号乗員360人が浅茅湾に半年にわたり、不法に占拠した。
 函館より長崎へ回航の途中船体修理のため寄港したとのこと、芋崎を占拠して立ち去ろうとせず、ついに大船越番所で、制止しようとした番人を射殺する事件が起こった。
 対馬藩はもとより時の幕府もその解決に頭をなやましたが,イギリスの介入で8月に至りロシア軍艦は函館に向かってようやく出航した。



国内最初の要港部美津島町竹敷
海に浮かぶ無数の島々、リアス式海岸の波静かな浅茅湾の竹敷

   ここは、667年阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使に停泊したことからも、古代から大陸との国際港であり、軍事的にも要衝であったことが伺える。
 1877(明治10)年竹敷は軍港となり、明治16年には海軍寄港場となった。軍艦孟春、比叡、春日等を交替で対馬の海の警備に派遣している。明治19年伊藤首相が軍艦浪速で竹敷の基地を実地調査に来島している。明治27年の日清戦争では、水雷(魚雷)隊を配置すると共に防御水雷を設置し、陸軍の砲台と連携して浅茅湾の防御にあたった。竹敷の水雷隊は清国の戦艦を撃沈し、2月12日の降伏に多大な貢献をした。


 明治33年日本海軍は日露戦争を想定して、駆逐艦、水雷艇などを短時間で対馬東水道に出動させる為に、万関瀬戸開削工事を始めた。

海軍竹敷要港部
 翌1896(明治29)年には国内初の要港部が誕生した。要港部には、警備、燃料食料などの配給、艦船及び武器の修理や病院、監獄などの施設からなり、戦闘部隊として水雷施設隊と水雷艇隊が配置されている。また要港部を守るために対馬に13カ所の砲台を設置し、島を取り囲むように6カ所の望楼設置し警戒を厳重にした。その後ロシアの脅威対して軍備拡張政策に乗り、防備が拡張増大された。
 1905(明治38)年5月27日早朝、対馬にいた第3艦隊旗艦厳島は、バルチック艦隊を発見した哨艦信濃丸から『敵艦見ゆ』との無電を受けるや、鎮海湾の三笠に中継し、出撃した。水雷戦隊は万関運河を通り出撃して行った。東郷元帥率いる第1、第2艦隊も朝鮮鎮海湾を出撃した。
 参謀秋山真之の開戦直前に打電した「天気晴朗なれど波高し」と敵艦前旋回の『T字作戦』は有名である。
 戦闘は、ロシア艦隊の発砲により開始されたが、両軍の距離が、8千メートルになった14時5分、連合艦隊は「三笠」を戦闘に左に旋回しロシア艦隊の先頭を抑え砲撃を開始した。これが世界でも有名な「東郷ターン」敵前大反転である。15時頃には大勢が決した。5月27日夜、連合艦隊は駆逐隊・水雷戦隊による水雷攻撃をおこなった、28日、再び主力艦隊による追撃を敢行し、約1日半の戦闘によりロシア艦隊を殲滅した。
戦果は、ロシア38隻の敵主力艦の中、沈没21隻、降伏・拿捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、残り3隻の小艦艇が目的のウラジオストックに到達したが戦力としてはは皆無であった。日本の損害はわずかに水雷艇3隻のみである。またこの海戦で、ロシア側は戦死者4545名、捕虜6106名であったが、日本側の戦死者は116名であった。
 この海戦は、対馬の目の前で行われたので対馬沖海戦と呼ばれている。上対馬地区では、砲弾の音、光、煙が轟き、島民は一喜一憂したと云う。一夜明けた28日の朝、沈没ロシア艦船の将兵は、上対馬町琴の茂木浜に97人、北端の殿崎海岸には143人が上陸した。
 日露戦争後は、駆逐艦2隊8隻、水雷艇隊4隊16隻が配属され、勢力を誇示していたが、大陸における国防方針が大転換した1911(大正元)年旅順鎮守府や鎮海防備隊が根拠地となり、竹敷は日本防衛の使命を終える、
 要港部は廃止され、防備隊となる。1915にはこれも廃止され、監視所と倉庫のみとなる。竹敷の人口は、明治8年177人、明治41年には2千数百人と賑わっていたが、平成15年には346人と減少た。漁船も少なく、軍艦もいない、丘の上まであった家も無く、その跡は雑草林となっている。
現在は海上自衛隊の基地がある。

琴の大銀杏
  樹齢1500年と言われ、幹のまわりは14.2m、高さ40m

琴崎
 ここの東方3海里の沖合に、1905(明治38)年5月27日、日本海海戦で東郷平八郎率いる連合艦隊に撃破されたロシア艦隊のうちアドミラルナヒモフ号が沈没し、生存した仕官98名が2隻のボートで近くの茂木浜に上陸している。

 対馬の漁師には、遭難、漂流に遭えば助けるのが当たり前とした海の男の心意気あった。



棹崎さおざき公園  72haの広大な公園、誰も人が来ていない、貸し切り状態だ
東京湾の次に造られた砲台で、造りは赤レンガ造りのイギリス式である。戦前の軍事秘密基地であり、立ち入れなかったが、現在は平和の広場となっている。赤と白の塔は、”オメガ全航行システム”14,800Kmをカバーしている。丘の地下には、巨大な対戦艦砲撃施設がある。

豊砲台跡
 李承晩ラインが有った頃は、海上保安庁監視哨の超大型望遠鏡は釜山港を出る韓国警備艇のナンバーを読み取り、それの赴く海域の日本漁船に警報を送っていた。
 今は、航空、海上自衛隊のレーダー、ロラン塔、オメガ塔等の通信施設がひしめき合っている。
 豊砲台は、朝鮮海峡に面し、当時軍事上要塞の地にあり、日本海及び朝鮮海峡の制海権を確実にするため、昭和4年5月に起工し、5年の歳月を費やし完成した。
 一般に45口径加農砲といわれ、長さ18mの砲身2門が構築され世界最大の巨砲であった。戦艦「赤城」の主砲をこの砲台にすえたと言われている。
 内部は兵舎・台座・地下室、操作用機械室、水圧用水槽などがあり、広く、また天井や脚壁の厚みは爆撃に耐えられるよう2m以上の鉄筋コンクリートで保護されている。

 実戦には1発の弾丸も発射することなく終戦を迎え、昭和20年10月米軍の爆破班により解体された。”まぼろしの砲台”として今も往事の面影を偲ばせている。100円で裸電球が30分付く。


珠丸遭難者慰霊碑
 珠丸800tは博多と対馬そして釜山を結ぶ九州郵船として活躍していた。太平洋戦争の末期の激しい米軍機の銃爆撃と潜水艦の魚雷攻撃をも巧みにかわし、奇跡的に無傷のまま生き延びて来た。
 1945年10月14日連合軍の航行差し止めが解かれて、戦後初ての博多への航海になる日であった。珠丸は、厳原で足止めされていた大勢の乗客を乗せて、午前6時博多に向けて出航した。船が壱岐の勝本港北方15マイル付近にさしかかった午前9時頃、戦時中に旧日本海軍が敷設した機雷に触れあっという間に沈没してしまった。
 珠丸の乗客は、満州や朝鮮から引揚げたきた人達や従軍軍人が主で、引揚者の中には婦人や子供が多かった。

当時の引き上げの様子を書いた本を読んで感激したので、紹介する。松田直子著『珠丸遭難』



宗家李王家ご結婚奉祝記念碑
韓国併合時代1931(昭和6)年5月8日、第16代対馬藩主宗武志と朝鮮李王朝最後の王女、徳恵(とくえ)姫との結婚式が挙行された。
 当時は、朝鮮皇室からの日本の大名への輿入れは異例の降格だった。二人の結婚は、朝鮮民族の求心力を失わせようと、日本が強制的に行った結婚だった。これを祝福して御成婚記念碑が建てられた。
 徳恵(とくえ)姫は、1912年、朝鮮李王朝26代高宗皇帝の四女として出生、3人の王女は早世。1925年東京女学院に編入。1955年離婚し、1962年故国に帰り、1989年76歳で死去した。
県立対馬歴史民族資料館
島内の文化財、宗家文庫などを収録展示されている。なかでも朝鮮通信使絵巻は必見。
写真禁止であた。
峰町歴史民族資料館は土曜日で閉であった。



李承晩ライン
 第2次世界大戦後、日本人は韓国を憎むようになった。その理由は第1に、李承晩政権(韓国初代大統領、1948〜1960年在任)が徹底した反日教育を国民に実施し、『反日』、『悔日』を基本政策としたことにある。第2は1952(昭和27)年悪名高き李承晩(韓国では平和と呼ぶ)ラインである。
   李承晩ラインとは、1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国(韓国)大統領李承晩の海洋主権宣言に基づき設定された漁船立入禁止線。韓国では「平和線」と宣言された。このラインは対馬鰐浦の沿岸からわずか3マイルの所まで韓国領とされた。海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したものであるが、本当の狙いは韓国で獨島と呼ばれている竹島と対馬の領有を主張するためのものであった。これに違反したとされた漁船(主として日本国籍)は韓国側による臨検、拿捕の対象となり、銃撃される事態まで起こった。
 国際法上の慣例を無視した措置として日米側は強く抗議したが、このラインの廃止は1965年(昭和40年)の日韓漁業協定の成立まで待たなくてはならなかった。協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。
 李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国人、朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えた。
 私の中学、高校生の時はTVが無く、映画に行くと最初にニュースが流れる。また日本船が拿捕された。拿捕した性能の優れた船を韓国警備艇に変えて、また日本漁船を拿捕する。韓国警備艇に、韓国軍も出て拿捕するのに、日本の自衛隊は出動出来ない。海上保安庁では拿捕されそうになった日本漁船と韓国警備艇の間に割って入るしか手の打ちようがなかった。と放映され、悔しい思いが未だに残っている。
 問題の背景には韓国は第2次世界大戦の講和条約に戦勝国として参加することを希望していたがアメリカによって拒否されてしまった。1910年の韓国併合が合法的に行われたものであり、韓国が連合国に参加したとは認め得ないためであった。また、対馬、波浪島、竹島を自国領土であると主張していたが、対馬が日本領であることは明白であったし、波浪島は実在しなかった。竹島については日本の主張が認められて日本が朝鮮に返すべき地域のリストから外されることが確定した。
 竹島(獨島)の領有が認められないことは、1905年の日本による竹島の編入は朝鮮に対する帝国主義的侵略の発端であるとする李承晩の主張が覆されることであり、政権の存立を危うくするものである。このような状況の下、李承晩は「獨島は韓国のもの」との主張を通すため実力行使に出た。それが李承晩ラインの設定である。1952年4月28日に朝鮮の領域を確定する日本国との平和条約が発効する直前の電撃的行動であった。
 日韓の国交正常化交渉でいちばん大きな問題は、朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置問題であった。その個人資産は、当時の韓国経済の80%に当たるともいわれていたからだ。韓国側としては、それを持ち出されたら困る。そこで韓国側が外交カードとして使ったのが、拉致した漁民たちである。「竹島問題」や「李承晩ライン」、個人資産問題で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。
 解決への道問題解決には長い年月を要した。その原因は、1日韓両国に正式な国交がなかったこと。2国交正常化交渉は賠償請求権を巡り紛糾し、遅々として進まなかったこと。3アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入してこなかったためである。そうして徒に時間が流れていった。そうこうするうちに朴正煕が大統領に就任した。彼は工業化をすすめることで国を富ませ、民族の悲願である南北統一を促進することを考えた。そのためには資本と技術が必要である。しかし大韓帝国時代と同様、朝鮮戦争後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しく、どこから調達するのかが悩みの種であった。朴大統領が目をつけたのが日本である。そのために日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約の締結を急いだ。竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで基本条約の締結がなしえると判断したところで漁業協定を締結し、李承晩ラインは廃止された。



 対馬には、現在陸海空の3自衛隊が駐留し 第19警戒群は、海栗(うに)島にある。
 朝鮮半島と接した最前線の国境の航空警戒管制部隊であり西部防衛区域における緊要なレーダーサイトの一つである。
 航空自衛隊第19警戒群(全国に28カ所のレーダーサイトで監視を行っている。)基地は、今日も監視を続けている。100人以上の隊員が勤務し国の所管になっている。350Km(朝鮮半島の半分)をカバーし、ソ連機を主に監視し、ここの情報は、福岡春日基地にある西部航空警戒管制団に送られ、築城新田原からスクランブル戦闘機が発進されている。

また基地の島、秘密の島として開発と公開が遅れている。現在も国境の防備の要として、陸海空の自衛隊約700人が日夜警戒を続けている。



今晩はアワビの地獄焼きだ。『アワビがあついやっちゃ、あついやっちゃ、よいよいよい、と踊っている。おもしろいねえ』。それに『また海栗(雲丹)だ。』と喜ぶ孫たち
      ウニ(海栗、雲丹)丼が美味しかった。
 旅館でウニを追加注文するが、『対馬で採れるウニは、高く売れる壱岐と全て契約済みなので、壱岐へ運ばれ、対馬にはウニが無い』との説明に孫たちはがっくり。JTBの紹介で探しあて、大喜びの二人。対馬のウニ漁獲量は昭和52年1,804t,平成15年には169tに減少している。(対馬百科より)
 1昨夜はアワビのバター焼きを、昨夜はアワビの地獄焼きを食べた孫たち曰『地獄焼きは踊るのが面白かったが、バター焼きの方が美味しかった。お土産にアワビを買って』とせがまれ、探しに行く。1万5千円/Kg高いか?


対馬藩10万石の城下町と美しい自然と古代ロマンが漂う対馬を後にした。
孫を連れての旅、好奇心旺盛で、記憶力の良い時期、しかし歴史の宝庫と言われる対馬では年代が前後し頭の中は混乱状態
清水城跡から望む厳原の港。韓国へも高速船が就航している。 14時15分厳原発→博多着16時35分、2時間20分の船旅である

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対馬の文化財

1大陸文化の倭国への中継地
2国境の非運と宗氏の功績
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4要塞の島・対馬
2泊3日の対馬の旅であったが、時間が不足して全ては回れなかった。正に日本の歴史の宝庫である。対馬は観光に力を入れるし、国民はもっと対馬を訪れてはどうだろうかと思う。
潮待ちの港
ソウル釜山対馬壱岐末盧国伊都国相島赤間関・中関・室積上関沖の家室津和地・蒲刈御手洗・鞆ノ浦塩飽本島下津井牛窓赤穂室津兵庫津